毎度おなじみの政治家の不祥事が続いているようだが、このブログで何度も書いているように民主制というものは幻想の上に成り立っているから不祥事が無くならないのである。
「らくだ」という噺がある。素行不良の男が河豚の毒にあたって死ぬ。たまたま訪ねてきた兄貴分がその屍体を発見し、弔いをあげることにする。やはりたまたま通りかかった屑屋を使いにして長屋の月番、大家に話を通して弔いの真似事をする。屑屋は嫌々らくだの兄貴分の使いをしていたのだが、弔いの酒を勧められるままに飲むうちに酔いが回って兄貴分との立場が逆転してしまうという話だ。この噺の肝は強面の兄貴分と、彼に脅されていいように使われる屑屋の立場が、酒に酔うということをきっかけに逆転するところにある。それとは別に興味深いところは、この噺に登場しないらくだを複数の登場人物の言葉によって想像させることだ。らくだは死んでいる。死んだということを聞いたときのそれぞれの登場人物たちの反応で聴衆である我々はらくだというのがとんでもない素行不良の人物であると思ってしまうのである。だが、らくだが本当はどういう人物だったのか、聴衆は知らない。
世の中には共同幻想的な思い込みで成り立っていることが多い。選挙などその最たるものだろう。我々の多くは自分の選挙区の立候補者のことなど何も知らないのである。確かに、選挙公約は公表されるし、所属あるいは推薦する政党のことも報道や過去の実績から漠然とは知っているかもしれないが、圧倒的大多数は政治の世界の当事者ではないし、候補者との個人的な関係はない。にもかかわらず、限られた情報、それも選挙のために特別に用意された情報をもとに候補者の適正を判断することを要求されるのである。候補者が選挙用の情報通り、あるいはそれ以上に高潔で滅私奉公の精神の持ち主なら、それで何の不都合もない。現実はそうではないから始末が悪いのである。
「らくだ」という噺の本質は、実は主要登場人物の関係が話の前後で逆転する面白さにあるのではなく、知りもしないことをわかったつもりになる人間社会の怖さにあるのではないかと思うのである。怖さというのは、自分ではそれと気づかぬうちに何か罠のようなものにはまってしまいながら、とうとう罠にはまっている自分を認識できないままでいることの怖さである。
ところで、今日の落語会は聴いていて気持ちが良かった。開口一番からトリに至る四人とも丁寧な口演だった。「甲府い」は今まで自分が聴いたなかでは一番良かったと思うし、「ワライヤ・キャリー」の弾け具合も好きだ。「らくだ」は兄貴分が少しこわすぎる気がしないでもなかったが、紛れもなく独自の世界観が感じられた。こういう落語会を聴くと日本人に生まれて本当によかったと思ってしまう。
本日の演目
古今亭始「金の大黒」
三遊亭歌武蔵「甲府い」
(中入り)
柳家喬太郎「笑屋キャリー」
柳家喜多八「らくだ」
開演:13時30分 終演:16時20分
会場:よみうりホール