アウグスブルクという地名はそこそこの教育を受けた日本人なら誰もが耳にしたことがあるはずだ。世界史の教科書に必ず登場する地名であり、それはフッガー家という富豪の名と一緒になっている。フッガー家が何者なのかはここでは語らないが、何百年も前に欧州でその名を轟かせた富豪が現在の日本の教科書に登場しているという事実がその何者を十二分に語っている。ちなみにフッガー家は現在も続いていて、ドイツでは貴族に列せられ、アウグスブルクにはフッガー銀行というプライベートバンクもある。
ここで感心したのは、フッガー家が16世紀に建設した福祉住宅フッゲライである。地元アウグスブルク出身の敬虔なカトリック教徒で、家族持ちか寡婦、というのが入居の条件だ。家賃は年間1ライングルデン。現在の価値にすると約0.88ユーロ、1ユーロ=135円とすると119円だ。おそらく当時のフッガー家の経済力をもってすれば無料でもよかったはずだ。そこに敢えて家賃を設けるというところがオツなところだと思うのである。
人間を人間たらしめるのは社会の中での役割、存在意義だと思う。所謂「自我」とか「自意識」の「自」というのはそういう自覚に支えられていると思う。自分がこの世にいてもいなくてもいいと自覚してしまう状態が「疎外」などと呼ばれるものだろう。疎外されていると思い込んでしまうというのは自己を自ら否定することであり、「死に至る病」のようなものだ。時々、傍目には病的に見えるほど激しい自己主張をする人がいるが、それは死に至る病を回避するための防衛本能に突き動かされているということなのだろう。公共交通機関での乗客どうしのトラブルとかヘビークレーマーの当事者に定年過ぎの元サラリーマンとか家庭に恵まれない人が多いのはそういうことが関係していると容易に想像がつく。社会の中でうまくやっていけないというのは、生理的な身体状態とは関係なく、瀕死の状態なのである。
たとえわずかであっても家賃を払うという行為によって、フッゲライの住人は人間としての尊厳を守ることができるのではないかと思うのである。諸々境遇においては不足に感じることが少なくないとしても、家賃を払うという義務を果たす能力は持っていると自覚できることが人間としての一線を守っている実感でもあるのではないだろうか。そしてフッガー家の人々もそのように考えたのではないかと思うのである。敬虔なカトリック教徒であるということは、倫理観や価値観において集合住宅での生活の秩序を守るための基準なのだろう。福祉住宅というのは、単に雨露をしのぐ場を提供するというだけではなく、そこに暮らす人の生活を構築する場である。生活を構築するには生活の主体である人間が自立していなければならない。つまり、そこに人がいなければならない。福祉は施しとは違う。人間の自立の支援だ。そういう物事の根本を追求する姿勢があればこそ、歴史に名を残すほどの大富豪たりえたということではないだろうか。
フッゲライには現在も大勢の人々が暮らしている。同時に、入場料を取って一般の人々にも敷地を公開している。建物の内部の公開は教会と2戸の住戸だ。住戸のひとつは16世紀の頃の様子を再現した博物館としてのものでああり、もうひとつは入居希望者向けのモデルルームだ。一戸は4つの区画で構成されている。寝室、リビング、キッチン、バスルームだ。1階なら小さな庭も付いている。モデルルームなのでそれなりに見栄えよくしてあることを勘案しても、十二分に魅力的な家だ。家賃は年0.88ユーロ。入居の条件にアウグスブルク出身あるいは何かの縁があることと敬虔なカトリック教徒であるということは今も変わらず含まれている。