伊丹十三の『日本世間噺大系』(新潮文庫)に「博物館」という章がある。そこに書かれているのはドイツ博物館のことだ。これが書かれたのは昭和50年頃のことらしいのだが、ドイツ博物館のほうはこの頃から展示替えがあったり別館が作られたりしていて書かれている通りではもはやない。それでも私が初めてここを訪れた1989年の夏頃はまだ書かれている状態に近かったように記憶している。とにかく実機の展示が多く、触ることができるものが多かった印象がある。今日、ドイツ博物館を訪れたのだが、自転車とか自動車のコーナーが別館のほうに移されてしまったようで、この本館には見当たらなかった。それでも、歴史を追って実機を並べる展示方法は本にある飛行機や自動車以外にも共通している。コンピューターなどは歴史が浅いので、余計に変化の大きさが顕著で、改めて今という時代の何事かを思い知らされる。
今回の旅行で絶対に行こうと思っていたのは、アウグスブルクの街、ピナコテーク、ドイツ博物館の3つである。ドイツ博物館については、実物大の炭鉱ジオラマをどうしても再訪してみたかった。実際に再訪して、イメージしていたよりも規模が小さくなった印象を受けたが、それでも十二分に楽しかった。近頃はシュミレータや大画面を用いた展示が多くなったが、実機やモックアップなどの質感に勝るものはないと思う。モノの質感を知るというのは、それで何がわかるようになるというものではないが、物事の因果関係を感覚的に把握するのに必要なことではないだろうか。理屈からすればモノをデータに落としてコンピュータで処理すれば様々な状況を人口的に作り出しそのなかでそのモノがどのような挙動をするかということがわかるはずなのだろう。現にそうした考え方を前提に様々なものがデータとして処理されている。天気予報も飛行機のパイロットの訓練も機械の設計も、今はパソコンのスクリーン上で行われている。しかし、天気予報が完璧ではなく、飛行機事故も無くなるということはなく、機械にリコールが付いて回るのは、理屈と現実に乖離がある証拠だ。モノや現実をどれほどデータ化できるものなのか知らないが、現場現物を軽視しては物事がうまく運ばないのはいまだに事実なのではないか。
ところで伊丹十三の本の「博物館」は以下のような文章で終わっている。このあたりの状況は現在にも通じるものであると思う。以下引用。
ホント只事じゃない。だから日本ってのはさ、わりとこの頃自信を持ち過ぎちゃってさ、ヨーロッパに対してさ、経済大国だとかさ、教育程度が高いとかさ、なんだパリは穢いじゃないかとかさ、エレヴェーターはがたがたじゃないかとか、やっぱり日本は大したもんだなんて言う人が多いじゃない?だけど、実は全然そんなことではないんでね、彼らは何も言わないけどね、実はやっぱり物凄い文化ってものがヨーロッパには、やたらいくらでもあるんでね、だから、本当に彼らの実体を知ったら、もう少し彼らに対して日本人はコンプレックスを持ったほうがいいような気がするわけよね。「コンプレックスを持ち直そう」ってことを考えた方がいいと思うわけよね。(『日本世間噺大系』新潮文庫 360頁)
ドイツ博物館へ行くときに乗った路面電車に犬を連れて乗っている人がいた。盲導犬とか介助犬というようなものではなく、単なる犬のようだ。聞いた話だが、ドイツでは飼い犬を連れて普通に公共交通機関を利用できるのだそうだ。ただし、その犬が人間に危害を加えるような事態が生じた場合、その犬は殺処分に付されるのだそうだ。秩序の在り方というものについて考えさせられる事例の一つだと思う。