熊本熊的日常

日常生活についての雑記

著作権

2015年06月03日 | Weblog

ピナコテークを訪れる。宿から歩いてきた。途中のカフェで朝食をいただこうとおもって歩いていたら、結果としてピナコテークの前に来てしまったのである。ドイツに来て今日で3日目の朝を迎えたが、食べるものがすべて美味しく感じる。パンであるとか果物であるとか、なんでもないものが美味しい。普段は積極的には口にしないビールは、美味しいと感じるだけでなく後に酔いや不快感が残らない。普段アルコールを口にしないのは、たとえ少量でも飲んだ後2日ほど腹の具合が悪くなることも理由のひとつなのだが、一昨日も昨日も昼にビールをいただいたが、そのようなことが全くないのである。パンのほうはよく知らないが、ビールは16世紀に制定されいまだに遵守されている法律によって原材料が限定されていることが、身体に不具合が生じない理由であるように思う。おそらく、ビール以外のものも律儀に作られているから美味しいと感じるのではないかと、勝手に想像している。

アルテピナコテークのほうは改修工事中で全館のうち展示時代でいうと後半部分が閉鎖中だった。その分、入館料も約半分ほどになっていた。全部観ることができないのは残念ではあるけれど、ここのメインはデューラーやブリューゲルのある前半のほうなので、観たいものが適度にまとまっていて良かった気もする。

ノイエピナコテークのほうはセガンティーニやゴッホもあるけれど、圧倒的に多いのは聞いたことのないドイツの作家たちだ。ふと、日本の洋画家の作品を想った。我々日本人にとってはあたり前の作家の多くも欧州では無名なのだろう。日本人が描く洋画に面白いと感じるものは多くはない。洋画だけでなく文人画もそうだ。彼らの作品を眺めていると、お手本の通りに描いているだけのような気がするのである。もちろん、もとの作品があってそれを模写したと言っているのではない。作品のなかに作者がいないと感じてしまうのである。そういうものが本家本元で評価されるはずはないので、仕方のないことではある。文人画などは型があるので余計に「文人画教室の生徒の作品」のような印象だ。洋画にしても文人画にしても日本では高名で作品も高価なものばかりだが、なんとなく馬鹿馬鹿しいものが多い気がするのは、自分にそういうものを蒐集する財力がない所為だけではないと思っている。

近代になり、例えばチューブ入りの絵の具が普及するとか、絵の具や道具類の価格が下がるとか、要するに工業化によって技術や技巧の大衆化規格化が進展した。同じ絵画作品にしてもアルテピナコテークに並んでいるものとノイエピナコテークに並んでいるものとでは、その意味が全く違うと言っても過言ではない。絵を描くことの持つ意味が時代によってまるで違ったものになっているのである。

さらに時代が下って、今は誰もがネットを通じて世間に対して己の何事かを発信できる。生業ではなくとも気の利いた文章を書いたり、ちょっとした音楽を作ることができたり、人の目を喜ばせるようなものを創ったりして世界に発信している人は無数にいる。そういう人たちが自分の楽しみとして無償で提供するもので世の中の需要がある程度充足されるようになったから、本や雑誌が売れなくなったり、「大ヒット」と呼ばれるほどの音楽が生まれなくなったりしている。「作家」だの「芸術家」と呼ばれる人の作品に希少性がなくなったので、「権利」について喧しく言われるようになった。喧しく言うほどの内容があるとは思えないようなものについてまで等しく喧しく言われるようになった。あまり「権利」を過保護にすると「権利」の中身が育たなくなるのではないだろうか?誰もが世に対して盛んに創作物を投げかけることができるようになったからこそ、競争で鍛えられた優れたものが生まれるというのが健全な姿なのではないか。「権利」などというのは泡沫のようなものだと思う。特定の関係性のなかでのみ成り立つものだ。それを闇雲に普遍化しようとするから妙なことになるのである。自分ができる、ということは同じことを他人もできるということなのだが、人は「自分」が特別なものだと思いたいのだろう。みんなが「特別」な世界というのは、なんだか美しいような、馬鹿馬鹿しいような、面白い世界だ。