朝8時半頃ホテルをチェックアウトし、8時55分発のバスで空港へ向かう。ミュンヘン空港は比較的新しい割に動線工夫が足りないというか、どこか気が利かない気がする。搭乗する航空会社のカウンターには長蛇の列ができていて、それが容易に動こうとはしない。ようやくチェックインを済ませてゲート前までたどり着くと、全体的に狭苦しい感じがして落ち着かない。それでも無事にアムステルダムに着いて、成田行きのKLMに乗ることができた。
ミュンヘンとアウグスブルクに滞在した6月1日から5日までの間、移動手段は徒歩の他には路面電車や路線バスなどの公共交通機関だけだった。そしてこの5日間でそうした公共交通機関の利用に際して検札を受けたことはアウグスブルクからミュンヘンへの列車の車中での1回だけだった。この地ではその気になれば無賃乗車が簡単にできてしまうのである。勿論、私たちはきちんと切符を買って利用していたが、駅に改札がなく、路面電車や路線バスの運転手は運転するだけで料金の徴収というような仕事はないのである。それで成り立つ社会というものに少なからず感心した。
何年か前、幼稚園から高校までミッション系の学校で過ごしたという人と雑談をしていた折、その人が「普通の人は善悪の基準をどのようにして身につけるのでしょうか?」と不思議がっていたことを思い出した。その人は物心ついてからキリスト教的な倫理観の教育を受けてきたので、そういうものが当たり前だと思っていたが、長ずるにつれ世の中の大多数はそうした宗教的な倫理観とは無縁に暮らしていることを知るようになって、素朴に不思議に感じたらしいのである。逆に私のほうは身近に宗教心のあるような人のいないところで育ったので、聖書だの仏法だのの世界というものがいまひとつぴんとこないままに今日に至っている。ただ、ミュンヘンやアウグスブルクの公共交通機関でいちいち切符を確認されないことと宗教的倫理観とは別のことのような気がする。
阪神淡路大震災のときも東日本大震災のときも、被災地で人々が淡々と助け合って事態の収拾に努めていたことが美談のように語られているのをあちこちで見聞した。東京オリンピック誘致に際しては「おもてなし」の心が「日本人」の特質であるかのように語られた。私自身はそうした美談の当事者にはならないだろうし、「おもてなし」の気持ちもどれほどあるのかまことに心もとない。その所為なのだろうが、ドイツで改札のない社会を目の当たりにしたとき、些細な美談を殊更に流布させようとする自分の国のことが薄っぺらいものに感じられた。昨今、近隣の国々から歴史認識がどうのこうのと因縁をつけられてるのは、そういう薄っぺらなところにつけ込まれているという面もあるような気がする。自分の世界観や倫理観が確たるものとして社会のなかで共有されているなら、人として当然のようなことをわざわざ美談にする必要もないだろうし、他所からつまらぬ因縁をつけられることもないのではないか。たかが改札のことではあるが、そういう瑣末なことのなかに、その社会を貫徹する価値観の片鱗が表出しているように思う。