熊本熊的日常

日常生活についての雑記

民意

2015年06月08日 | Weblog

ドイツ博物館へ行った日の午後、異常事態に遭遇した。ドイツ博物館から市街で出て買い物でもしようということになったのだが、市街へ向かう交通が無いのである。来る時に乗った路面電車は博物館前の次のIsartorで折り返しになってしまうし、バスも同様だ。そうこうしているうちに警察車両がやたらに多く往来するようになり、ついには道路が閉鎖されてしまった。博物館のなかをぐるぐる歩いて疲労していたこともあり、Isartorの前の広場の木陰のベンチに腰掛けてぼんやりとしていた。警察車両が何台も連なって走り去ったのを最後に車も路面電車も通らなくなった。道路はガラガラだ。そこに警察官の姿が目立つようになってきた。暑いのに重武装の一団もいれば、通常の制服の人たちもいる。なんとなくものものしい様子だが、天気が良いのと、道路ががらがらなのと、その場に居合わせている人たちの間に緊張感がないのと、なにより自分たちがぼんやりしている所為で、車が通らないと落ち着いていいなぁ、などと思っていた。やがて、遠くのほうから鐘や太鼓を打ち鳴らす音が近づいてきた。お祭りのパレードかと最初は思った。そのうち、音の主たちが視界に入ってきた。パレードだ。よく見るとパレードに参加している人たちは手に手に何か標語のようなものが書かれた旗とか垂れ幕などを持っている。なかには英語で「STOP G7」とか「STOP TTIP」などと書かれている。見た目はお祭りでも、主張しているのはかなり政治的な内容であるようだ。パレードではなく、デモなのだ。それで不測の事態に備えて重武装の警官が警備しているわけだ。

デモ隊の途切れたところで、道路を渡りIsartorを抜けて市街に入った。スーパーや百貨店をはじめ、商店の過半が臨時休業だった。カフェなど飲食店は営業していたので、ゴーストタウンのようになったわけではないが、平日の午後に商店がことごとく閉まっているというのは異様な光景である。G7やTTIPの何が不満なのかわからないが、国家の方針に反対するという意志を街をあげて表明するということが新鮮なことのように感じられた。日本でもその昔には群衆が国会を取り囲んだというようなことはあったのだが、少なくとも自分の記憶には街をあげて政府に対してものを申すという場面はない。

少なくとも形式の上では、日本もドイツも議院内閣制で議院の議員は普通選挙によって選出される。しかし、形式上はともかくとして、自分と社会との関係についての意識は彼我の間で大きな違いがあるように思われてならない。この日のデモについてみれば、商店が悉く店を閉めて街でデモが行われるという事の大きさと、それを受け止める市民の側の態度に注目しないわけにはいかない。確かに、これほど警官がいるのかと思うほど大勢の警官が警備をしているということは、目に見えないところでは予測される混乱の芽はかなりの程度すでに摘み取られているはずだ。それにしても、デモには殺気立った様子もなく、隊列は秩序を守って行進していた。夕方はデモからの帰りと思しき人々がデモで使ったと思しき旗の類を手に地下鉄や路面電車に乗ってどこへともなく消えて行った。翌日の新聞の一面はそのデモのことだったが、新聞が読めるほどドイツ語に通じていないので、どのような論評であったのかはわからない。しかし、街が丸ごとG7反対という旗の下で動いたのは事実だ。果たして、同じようなことが日本の都市で起こり得るだろうか。

何を当然のことと考えるのか、ということが文化によってかなり違うような気がする。殊に自分と社会との関係に対する意識が内発的な市民社会の歴史を持った社会とそうではないそれとの間で決定的に違うのではないか。私は民主制とか選挙といったものに対する懐疑をこのブログでも度々書いてきたが、そういう懐疑がおそらく街をあげてある主張のためにデモをする国の人には通じないのではないかと思った。