中国の古代兵法『孫子』において、”戦わずして勝”に次いでよく知られている格言は、”彼を知り己を知れば百戦して殆うからず”です。この教えに従って将来を占えば、中国は、自ずと”敵”との戦いに破れるかもしれません。
何故ならば、中国が”敵”と見なす諸国が、中国に対する理解を深めても、その逆、即ち、中国が”敵”を理解することはないからです。最近、中国国内では、”何故、日本国をはじめ国際社会が自国を脅威と見なすのか理解できない”とする論評があるそうです。それもそのはず、中国は、現在の国際社会を兵法が誕生した時代と同様に弱肉強食の無法地帯であると見なしているのですから、強大な軍事力を備えた大国中国が、戦国時代さながらに拡大主義を目指すことは、中国にとりましては、至極、当然の事として認識・理解されてしまうのです。「当たり前のことをしているのに、何故、かくも厳しい批判を受けるのか」、と首を傾げているのでしょう。
このような中国のカオス的世界観にあっては、法の支配の原則に基づく国際法秩序は、自らの理解の範囲の外にあります。となりますと、中国と他の諸国との間には相互理解は成立すせず、両者の間には、歴然とした理解の非対称性が存在していることになります。この非対称性は、『孫子』の兵法が説く勝利条件としての”彼を知る”、乃ち、敵国への理解も、中国において絶望的に欠如していることを意味するのです。
それでは、中国が、”彼を知る”ならば、勝利を得ることは出来るのでしょうか。今日において”彼を知る”ことは、法の支配の意義と価値を理解することに他なりません。そして、この価値を心の底から理解した時、中国の世界観は、カオスから秩序への大転換を余儀なくされるのです。この時、中国は、従来通り、国際法秩序に背を向け、他国の権利を踏みにじる拡張主義を貫くことが出来るのでしょうか。
このように考えますと、敵を知っても知らなくても、中国は敗北を喫することになるのですが、敵=法の支配を知ったことによる”敗北”は、凡そ全ての他国を”敵”と見なす『孫子』の世界観からの脱皮を意味するかもしれません。そして、この脱皮は”敗北”ではなく、別の名で呼ばれるかもしれないと思うのです。
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何故ならば、中国が”敵”と見なす諸国が、中国に対する理解を深めても、その逆、即ち、中国が”敵”を理解することはないからです。最近、中国国内では、”何故、日本国をはじめ国際社会が自国を脅威と見なすのか理解できない”とする論評があるそうです。それもそのはず、中国は、現在の国際社会を兵法が誕生した時代と同様に弱肉強食の無法地帯であると見なしているのですから、強大な軍事力を備えた大国中国が、戦国時代さながらに拡大主義を目指すことは、中国にとりましては、至極、当然の事として認識・理解されてしまうのです。「当たり前のことをしているのに、何故、かくも厳しい批判を受けるのか」、と首を傾げているのでしょう。
このような中国のカオス的世界観にあっては、法の支配の原則に基づく国際法秩序は、自らの理解の範囲の外にあります。となりますと、中国と他の諸国との間には相互理解は成立すせず、両者の間には、歴然とした理解の非対称性が存在していることになります。この非対称性は、『孫子』の兵法が説く勝利条件としての”彼を知る”、乃ち、敵国への理解も、中国において絶望的に欠如していることを意味するのです。
それでは、中国が、”彼を知る”ならば、勝利を得ることは出来るのでしょうか。今日において”彼を知る”ことは、法の支配の意義と価値を理解することに他なりません。そして、この価値を心の底から理解した時、中国の世界観は、カオスから秩序への大転換を余儀なくされるのです。この時、中国は、従来通り、国際法秩序に背を向け、他国の権利を踏みにじる拡張主義を貫くことが出来るのでしょうか。
このように考えますと、敵を知っても知らなくても、中国は敗北を喫することになるのですが、敵=法の支配を知ったことによる”敗北”は、凡そ全ての他国を”敵”と見なす『孫子』の世界観からの脱皮を意味するかもしれません。そして、この脱皮は”敗北”ではなく、別の名で呼ばれるかもしれないと思うのです。
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