外国人受け入れ15業種超=政府、水産・食品加工など追加
安倍政権は、外国人労働者の受け入れ拡大に向けて準備を加速するよう指示したと報じられております。「人材開国」という野心的な表現も見受けられるようになりましたが、この開国、明治時代の成功体験を意識しているとすれば、それは、現代という時代を読み違えているのではないかと思うのです。
今般の「人材開国」は、外国人単純労働者にも門戸を広げるという意味において、過去に類例を見ません。明治時代の開国とは、通商条約の締結とそれに伴う外国との貿易の開始を意味しましたが、今般の「人材開国」は、‘モノ’でも‘資本’でもなく、‘人’が日本国内に大量に流入します。開く分野が違うのですから、江戸末から明治にかけての開国とは似て非なるものなのです。性質の違うものを恰も同じように扱うのは一種の‘印象操作’なのですが、‘人’とは、社会的、並びに、政治的な存在であり、かつ、人格を伴いますので、「人材開国」に伴う政治・社会的変化は明治の開国よりも深刻です。
明治期とは、日本国民が、西欧諸国の先進的な学問や技術のみならず、その風習や文物までも取り入れ、熱心に学ぼうとした時代です。鹿鳴館時代には諸外国からその物真似ぶりが揶揄されましたが、いわば、キャッチアップが至上命題であったこの時代、近代国家の一員となるために日本人自身が積極的に自らを変え、当時の‘国際スタンダード’に合わせようとしたのです。しかも、当時の通商条約では、主として経済活動を目的とした両国間の人の行き来は許しても、移民については自由な入国を許していません。当初は開港地に外国人居住区を設け、国内における外国人の自由移動さえ許さない程であったのですから(その後、外国人の移動制限は段階的に解除…)、近代化のプロセスにおいて国民の枠組が大きく崩れることはなかったのです(韓国併合時にあっても外地からの人の移動には制限はあった…)。大小の凡そ100藩から成るゆるい連合体の幕藩体制であった江戸時代と比較すれば、日本国民という国家への帰属意識、即ち、アイデンティティーと団結力は、むしろ強まったのではないでしょうか。
ところが、今般の「人材開国」とは、明治期の開国とは、全く異なる作用を国民に及ぼします。それは、国内に大量流入するのが‘人’であるからに他ならないのですが、国籍のみならず、言語、慣習、宗教、社会常識等が異なる様々な国々から‘人’が押し寄せてくるとしますと、日本国の政治や社会的枠組が崩壊するリスクは格段と高まります。‘モノ’、‘資本’、‘技術’、‘情報’などは基本的には非人格的な要素であり、比較的管理が容易ですが、‘人’とは、自由意思を持ち、かつ、自由な活動能力をも有していますので、前者のように管理することはできません。否、政府や雇用主が厳格な管理を試みようとすれば、人権侵害や人種差別行為として糾弾されかねないのです。言い換えますと、一旦入国を許せば、一個の独立した人格としてその権利と自由は尊重されなければなりませんので、仮に、経済目的であれ、来日した外国人労働者が、出身国の政治問題や社会的な要素を持ち込んだ場合について、政府は、これらを認めるのか、認めないのか、という重大な選択を迫られるのです。
‘外国人ファースト’を是とするマスメディアは、前者以外に道はないと主張したいようですが、出身国の政治や社会が日本国内に持ち込まれれば、先日のカンボジアでの選挙に際して在日カンボジア人が都内でデモを行ったように、出身国の様々な政治問題が日本国を舞台にして噴出するでしょうし、中国出身者に至っては、本国政府の指令に従って政治的な活動に従事する可能性もあります。また、多文化共生主義の下では日本国の文化も相対化されると同時に多文化空間となり(政府は既に多言語化を推進…)、歴史も伝統も、そして、日本人ならではの美徳もその生命力を失ってゆくことでしょう。
日本国政府は、経済的な目的を以って事実上の‘移民政策’を正当化しようとしておりますが、上記の政治・社会的問題に対して、どのように対応するつもりなのでしょうか。安倍首相は、自民党の総裁選を前に、目下、三選目を目指しておりますが、一般国民からの支持を失っては元も子もないのではないでしょうか。「サイレント・インベージョン(静かなる侵略)」と非難されるようにもなり、諸外国で既に失敗の評価が下されている移民拡大政策を後追いするのはあまりにも愚かであり、「人材開国」の行く末が、政府による迂闊な‘開城’による自国の破滅であるならば、こうしたリスクに満ちた政策は、早々に断念した方が賢明であると思うのです。
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安倍政権は、外国人労働者の受け入れ拡大に向けて準備を加速するよう指示したと報じられております。「人材開国」という野心的な表現も見受けられるようになりましたが、この開国、明治時代の成功体験を意識しているとすれば、それは、現代という時代を読み違えているのではないかと思うのです。
今般の「人材開国」は、外国人単純労働者にも門戸を広げるという意味において、過去に類例を見ません。明治時代の開国とは、通商条約の締結とそれに伴う外国との貿易の開始を意味しましたが、今般の「人材開国」は、‘モノ’でも‘資本’でもなく、‘人’が日本国内に大量に流入します。開く分野が違うのですから、江戸末から明治にかけての開国とは似て非なるものなのです。性質の違うものを恰も同じように扱うのは一種の‘印象操作’なのですが、‘人’とは、社会的、並びに、政治的な存在であり、かつ、人格を伴いますので、「人材開国」に伴う政治・社会的変化は明治の開国よりも深刻です。
明治期とは、日本国民が、西欧諸国の先進的な学問や技術のみならず、その風習や文物までも取り入れ、熱心に学ぼうとした時代です。鹿鳴館時代には諸外国からその物真似ぶりが揶揄されましたが、いわば、キャッチアップが至上命題であったこの時代、近代国家の一員となるために日本人自身が積極的に自らを変え、当時の‘国際スタンダード’に合わせようとしたのです。しかも、当時の通商条約では、主として経済活動を目的とした両国間の人の行き来は許しても、移民については自由な入国を許していません。当初は開港地に外国人居住区を設け、国内における外国人の自由移動さえ許さない程であったのですから(その後、外国人の移動制限は段階的に解除…)、近代化のプロセスにおいて国民の枠組が大きく崩れることはなかったのです(韓国併合時にあっても外地からの人の移動には制限はあった…)。大小の凡そ100藩から成るゆるい連合体の幕藩体制であった江戸時代と比較すれば、日本国民という国家への帰属意識、即ち、アイデンティティーと団結力は、むしろ強まったのではないでしょうか。
ところが、今般の「人材開国」とは、明治期の開国とは、全く異なる作用を国民に及ぼします。それは、国内に大量流入するのが‘人’であるからに他ならないのですが、国籍のみならず、言語、慣習、宗教、社会常識等が異なる様々な国々から‘人’が押し寄せてくるとしますと、日本国の政治や社会的枠組が崩壊するリスクは格段と高まります。‘モノ’、‘資本’、‘技術’、‘情報’などは基本的には非人格的な要素であり、比較的管理が容易ですが、‘人’とは、自由意思を持ち、かつ、自由な活動能力をも有していますので、前者のように管理することはできません。否、政府や雇用主が厳格な管理を試みようとすれば、人権侵害や人種差別行為として糾弾されかねないのです。言い換えますと、一旦入国を許せば、一個の独立した人格としてその権利と自由は尊重されなければなりませんので、仮に、経済目的であれ、来日した外国人労働者が、出身国の政治問題や社会的な要素を持ち込んだ場合について、政府は、これらを認めるのか、認めないのか、という重大な選択を迫られるのです。
‘外国人ファースト’を是とするマスメディアは、前者以外に道はないと主張したいようですが、出身国の政治や社会が日本国内に持ち込まれれば、先日のカンボジアでの選挙に際して在日カンボジア人が都内でデモを行ったように、出身国の様々な政治問題が日本国を舞台にして噴出するでしょうし、中国出身者に至っては、本国政府の指令に従って政治的な活動に従事する可能性もあります。また、多文化共生主義の下では日本国の文化も相対化されると同時に多文化空間となり(政府は既に多言語化を推進…)、歴史も伝統も、そして、日本人ならではの美徳もその生命力を失ってゆくことでしょう。
日本国政府は、経済的な目的を以って事実上の‘移民政策’を正当化しようとしておりますが、上記の政治・社会的問題に対して、どのように対応するつもりなのでしょうか。安倍首相は、自民党の総裁選を前に、目下、三選目を目指しておりますが、一般国民からの支持を失っては元も子もないのではないでしょうか。「サイレント・インベージョン(静かなる侵略)」と非難されるようにもなり、諸外国で既に失敗の評価が下されている移民拡大政策を後追いするのはあまりにも愚かであり、「人材開国」の行く末が、政府による迂闊な‘開城’による自国の破滅であるならば、こうしたリスクに満ちた政策は、早々に断念した方が賢明であると思うのです。
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