グローバリズムの勝者として真っ先にその名が挙がるのは、GAFAといった米IT企業大手です。その一方で、グローバリズムの隠れた勝者が共産党一党独裁体制中国であることは、誰もが認識するところでもあります。言い換えますと、人類の理想郷として喧伝されてきたグローバリズムは、あろうことか、民主主義国家ではなく、人々から自由を奪い、抑圧状態に置く全体主義国家を利しているのです。
この点について、フランスの著名な歴史学者にして人類学者であるエマニュエル・ドット氏は、‘自由貿易主義は民主主義を滅ぼす’として、自由貿易主義に内在する問題性を的確に表現しています。つまり、自由貿易主義を推進すればするほどに格差が拡大するため、民主主義とは両立しなくなると述べているのです。同氏は、理想とはかけ離れた自由貿易主義の現実を完全に無視して貿易の自由化に邁進する人々の姿を評して‘自由貿易主義は宗教に近い’とも語り、その非合理性に警鐘を鳴らしています。宗教、並びに、イデオロギーへの独善的な信仰は、得てしてその行く道の傍らに巻き添えとなった犠牲者や‘異端者たち’の累々たる屍を残すものなのですから。
そして、ドット氏が指摘した自由貿易主義、あるいは、グローバリズムと民主主義との非両立性は、政経両分野における競争メカニズムの違いからも説明し得ます。経済学における自由貿易理論にあっては、その基礎理論である比較優位説に従えば、貿易当事国間における自由な産業間、あるいは、企業間競争の結果として双方の劣位産業が淘汰され、何れの国のものであれ、競争力に優る優位産業・企業が両国の市場を独占します。自由貿易主義は、それ自体が特定の国家の産業・企業による他国市場の独占や寡占という、国際レベルでの競争政策上の問題をも含むのですが、少なくとも、政府介入を否定する立場から、当然に政府の役割は理論においては捨象されています。
ところが現実の政治の世界には、国家も政府も存在します。今日、自由貿易主義を標榜する各国政府は競うかのように自国市場を開放していますが、貿易自由化後の対応は国によって違ってきます。そして、ここに、共産主義国家が民主主義国家よりも有利となる要因を見出すことができるのです。
共産主義とは、政治と経済が一体化したイデオロギーであり、共産党、あるいは、その党員が構成員となる政府には経済を‘指導’する権限が公式に認められています。言い換えますと、かつてのソ連邦が、国民生活を犠牲にしてまで軍事面で突出した技術力を誇り得たのは、同分野に全ての持てる資源を集中的に投入し得たからです。今日の中国は、軍事のみならず、産業政策に対してもあらゆる資源をその競争力強化に注ぎ込むことができます。つまり、主戦場が軍事分野から経済分野にまで拡大したのであり、中国は、一党独裁体制であるからこそ、国家、否、習近平国家主席の主導の下で、上から強力に次世代産業における覇者となるべく産業政策を推し進め得る体制にあるのです。
その一方で、民主主義国家の多くは、自由貿易主義=政府の不介入という等式を律儀に遵守し、積極的に自国の国際競争力を強化することも、他国による政治的意図が隠された‘経済侵出’に対しても自国産業や企業を防御しようともしていません。淘汰過程が終了すれば、他国の産業や企業による独占や寡占が生じることなど意に介することなく、‘外国からの投資が増える’として嬉々として歓迎しているのです。カルトと化した自由貿易主義は、共産主義国家よりも民主主義国家においてこそ致死的な毒素をまき散らすのであり、自由貿易主義の原則さえ守っていれば、リカード流の相互利益、並びに、資源の効率的配分のメカニズムが働いて自動的に繁栄がもたらされると信じ込んでいるのです。果たして、信じる者は救われるのでしょうか。
以上に述べたように、政治領域においては、自由貿易主義が覇権を追求する全体主義国に有利性を与える現実に思い至りますと、経済・社会面における格差拡大問題に加えて、民主主義、自由、法の支配、基本権の尊重、公平・平等といった、人類の存在に関わる基本的な価値をも危機に晒していることとなります。自由貿易主義、あるいは、グローバリズムの果てに民主主義国家が競争に敗れて‘淘汰’され、共産主義国家中国が全世界に君臨する時代が待っているとしますと、カルトと化した自由貿易主義、並びに、グローバリズムは再考して然るべきと思うのです。
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この点について、フランスの著名な歴史学者にして人類学者であるエマニュエル・ドット氏は、‘自由貿易主義は民主主義を滅ぼす’として、自由貿易主義に内在する問題性を的確に表現しています。つまり、自由貿易主義を推進すればするほどに格差が拡大するため、民主主義とは両立しなくなると述べているのです。同氏は、理想とはかけ離れた自由貿易主義の現実を完全に無視して貿易の自由化に邁進する人々の姿を評して‘自由貿易主義は宗教に近い’とも語り、その非合理性に警鐘を鳴らしています。宗教、並びに、イデオロギーへの独善的な信仰は、得てしてその行く道の傍らに巻き添えとなった犠牲者や‘異端者たち’の累々たる屍を残すものなのですから。
そして、ドット氏が指摘した自由貿易主義、あるいは、グローバリズムと民主主義との非両立性は、政経両分野における競争メカニズムの違いからも説明し得ます。経済学における自由貿易理論にあっては、その基礎理論である比較優位説に従えば、貿易当事国間における自由な産業間、あるいは、企業間競争の結果として双方の劣位産業が淘汰され、何れの国のものであれ、競争力に優る優位産業・企業が両国の市場を独占します。自由貿易主義は、それ自体が特定の国家の産業・企業による他国市場の独占や寡占という、国際レベルでの競争政策上の問題をも含むのですが、少なくとも、政府介入を否定する立場から、当然に政府の役割は理論においては捨象されています。
ところが現実の政治の世界には、国家も政府も存在します。今日、自由貿易主義を標榜する各国政府は競うかのように自国市場を開放していますが、貿易自由化後の対応は国によって違ってきます。そして、ここに、共産主義国家が民主主義国家よりも有利となる要因を見出すことができるのです。
共産主義とは、政治と経済が一体化したイデオロギーであり、共産党、あるいは、その党員が構成員となる政府には経済を‘指導’する権限が公式に認められています。言い換えますと、かつてのソ連邦が、国民生活を犠牲にしてまで軍事面で突出した技術力を誇り得たのは、同分野に全ての持てる資源を集中的に投入し得たからです。今日の中国は、軍事のみならず、産業政策に対してもあらゆる資源をその競争力強化に注ぎ込むことができます。つまり、主戦場が軍事分野から経済分野にまで拡大したのであり、中国は、一党独裁体制であるからこそ、国家、否、習近平国家主席の主導の下で、上から強力に次世代産業における覇者となるべく産業政策を推し進め得る体制にあるのです。
その一方で、民主主義国家の多くは、自由貿易主義=政府の不介入という等式を律儀に遵守し、積極的に自国の国際競争力を強化することも、他国による政治的意図が隠された‘経済侵出’に対しても自国産業や企業を防御しようともしていません。淘汰過程が終了すれば、他国の産業や企業による独占や寡占が生じることなど意に介することなく、‘外国からの投資が増える’として嬉々として歓迎しているのです。カルトと化した自由貿易主義は、共産主義国家よりも民主主義国家においてこそ致死的な毒素をまき散らすのであり、自由貿易主義の原則さえ守っていれば、リカード流の相互利益、並びに、資源の効率的配分のメカニズムが働いて自動的に繁栄がもたらされると信じ込んでいるのです。果たして、信じる者は救われるのでしょうか。
以上に述べたように、政治領域においては、自由貿易主義が覇権を追求する全体主義国に有利性を与える現実に思い至りますと、経済・社会面における格差拡大問題に加えて、民主主義、自由、法の支配、基本権の尊重、公平・平等といった、人類の存在に関わる基本的な価値をも危機に晒していることとなります。自由貿易主義、あるいは、グローバリズムの果てに民主主義国家が競争に敗れて‘淘汰’され、共産主義国家中国が全世界に君臨する時代が待っているとしますと、カルトと化した自由貿易主義、並びに、グローバリズムは再考して然るべきと思うのです。
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