勝者の地位が宙に浮いてしまった今般のアメリカ大統領選挙は、民主主義について重要な問題を提起しているように思えます。トランプ陣営とバイデン陣営の両者は、国民を前にして全く異なる見解を示しているからです。
トランプ大統領にとりまして、今般の大統領選挙の結果が示す数字は受け入れがたいものです。何故ならば、自身の票数を上回るバイデン陣営の投票数は、郵便投票をはじめとした不正選挙によるものである可能性が濃厚であるからです。メディア等では、‘不正の証拠が示されていない’としてトランプ大統領の主張を‘言いがかり’と見なしたり、‘往生際が悪い’として揶揄する風潮も見られますが、ネット上では、不正の証拠とされる動画や情報が飛び交っております。全てがフェイクニュースであるとも思えず(もちろん、真偽の検証が必要…)、終盤における不自然な票の動きを見ても全く根拠がないわけでありません。少なくとも、何れの民主主義諸国にあっても選挙における不正行為は頻繁に発生しており、犯罪として取り締まりの対象にされております。規模の大小に拘わらず、不正選挙は、現実には存在しているのですから、トランプ大統領が、不正選挙の疑いを提起することは、むしろ、民主的制度を護るための当然の行為であったとも言えましょう。
にもかかわらず、民主党バイデン候補は、こうしたトランプ大統領の不正に対する懐疑心に対して痛烈に批判しています。民主的選挙の結果を疑うことは、選挙の神聖性に対する冒涜であると…。選挙は、民主的な制度の下で実施されたのだから、その結果に疑いを挟むのは、民主主義に対する冒涜行為と見なしているのです。‘神聖ゆえに疑ってはならない’とする態度は、他者に対する思考の抑圧や束縛を意味しますので、どこか、思想統制的な響きがあります。宗教であれば、神や教祖の存在を‘疑ってはならない’ということになるのでしょうし、世俗の全体主義体制や権威主義体制であれば、絶対的な指導者に対しては疑うことなく無条件に服従せよ、ということになるのでしょう。バイデン候補にとりましては、「民主的選挙」という名のもとで行われた選挙の結果としてカウントされた票数こそ、何人も疑ってはならない‘神聖なる数字’であり、この観点からしますと、トランプ大統領は民主主義の冒涜者となるのです。
近代合理主義とは、神の存在をも人の理性的思考の対象に含めた懐疑主義から始まりますが(もっとも、必ずしも神を否定したわけではない…)、今日の政治の世界を見ますと、進歩派を自称してきた社会・共産主義者やリベラルと称されている人々の方が、余程、前近代的な思考の持ち主であり、時間軸からしますと退行現象を示しているようにも見えます。不正選挙はあらゆる選挙に付き物であるにも拘わらず、民主主義の神聖性の名の下で、不正の存在までをも否定しているのですから。それはもはや、理性を離れた別の世界に足を踏み入れていることとなりましょう。
仮に民主的選挙結果に対して‘神聖’という言葉を付すならば、民意が正確に表出される完全なる制度の下で、一切の不正行為が排除された上で実施された選挙の結果に限られるはずです(人類は、未だにその段階に達していない…)。不正行為の結果であれば‘神聖’なはずもなく、否、不正行為を働いた側こそ、民主的選挙制度を冒涜したことになりましょう。
このように考えますと、バイデン陣営が不正選挙を疑うトランプ大統領に対して、何らかの反応や対応策を示すならば、それは、自らの陣営による不正行為はなかったことを立証する、あるいは、調査に協力することにあったのではないでしょうか(バイデン陣営は、不正票であれ全票のカウントを求めこそすれ、不正疑惑については口を噤んでいる…)。今後、法廷では不正選挙の立証責任はトランプ陣営に求められ、何らかの証拠も提示されるのでしょうが、バイデン陣営も、積極的に自らの潔白を示さないことには、国民の同陣営に対する疑いも深まるばかりとなりましょう。
そして、仮に、トランプ大統領のみならず、同大統領に一票を投じたアメリカ国民の凡そ半数の人々からの疑惑に対して誠実に回答することなく、‘神聖性’、あるいは、‘票数が絶対’の一点張りで切り抜けようとするならば、仮にバイデン政権が発足したとしても、常に国民から正当性を疑問視され、猜疑心に満ちた目で見られることになりましょう。バイデン陣営に見られる前近代的な思考傾向が全体主義との親和性を示す今、それは、アメリカが誇ってきた自由な精神、並びに、真の意味における民主主義の危機でもあると思うのです。