アメリカ大統領選挙に関する報道の多くは信憑性に乏しく、多くの国民が疑いを抱く状況に至っています。改めて、マスコミとは何か、という問題が問われることとなったのですが、民主的制度の発展とジャーナリズムの出現が凡そ時期を同じくしていることも、この問題が深刻であることを示しているように思えます。
マスメディアは、‘社会の木鐸’と称されてきたように、その始まりを見れば、社会正義の実現を目指し、人々に事実を知らせることを使命としてきました。全てとは言わないまでも、古今東西を問わず、権力者とは、自らにとりまして不都合な情報を隠し、国民を騙すのが常であったからです。国民が為政者側の隠蔽体質をよく知るからこそ、果敢に事実を暴こうとするジャーナリストは、権力に抗して国民のために働く‘勇者’であり、イメージとしては‘正義の味方’であったのです。
ところが、近年のマスメディアを見ますと、そのイメージは急激に薄れつつあります。SNS等におけるフェイクニュースを批判しながら自ら虚偽の情報を発信したため、そのダブルスタンダードが批判されてきましたし、日本国内でも、マスメディアの偏向報道は、‘報道しない自由’の行使として揶揄されてもいます。近代国家にあって基本的な自由の一つとされる‘報道の自由’とは、束縛からの自由を意味しますが、‘報道しない自由’とは、自ら隠蔽者になる、即ち、自らを権力者の側に置くことを意味しますので、最早、国民は、マスコミを自らの‘味方’とは認識しなくなるのです。そして、マスメディアを操って隠蔽を画策する‘権力者’とは、必ずしも国家の政府とは限らず、外国の政府や国際勢力、あるいは、メディアの所有者(会長、社長、筆頭株主など)である可能性についても、国民の多くは勘づくことともなったのです。
今般のアメリカ大統領選挙戦は、‘マスメディアは正義である’とする神話の崩壊を決定づけてしまったように思えます。露骨なまでのバイデン陣営への肩入れ、あるいは、その全てを美化するような報道ぶりは自由主義国家のものとも思えず、独裁者礼賛を報道の任務とする中国や北朝鮮を思い起こさせるほどの異様さがありました。視聴者に‘気持ちが悪い’という印象を持たれるぐらいですから、マスメディアには、異常事態が発生していたとも言えましょう。それはまた、仮に、マスメディアで働く内部の人々が、内心にあって自局の報道姿勢に疑問を感じてはいても、‘権力’に逆らえない状況に置かれていることを意味しています。つまり、マスメディアそのものが全体主義体質に染まってしまっているのであれば、‘権力’に抗した報道など、できるはずもないのです。
そして、とりわけ注目されるのが、‘数字’です。民主主義国家では、最終的には数が決定要因となりますので、‘数字’は殊の外重要です。ここに、マスメディアが、数字を水増ししようとする動機を見出すことができるのです。まずもって、投票日に先立っては、バンドワゴン効果を期待することができます。これは、‘勝ち馬に乗る’ことを意味しており、どちらか一方が優勢という情報に接した場合、有権者は、雪崩式に優勢と報じられた方に投票する可能性があります。あるいは、仮に不正投票が行われていたのであれば、不自然な勝利とならないよう、辻褄合わせのために優勢を装ったのかもしれません。
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開票後にあっても、数字’おいて多数派であることを示せば、それが虚偽であれ、自らの支持する陣営の‘勝利’を演出することができます。実際に、マスメディアの多くは、調査や法廷どころか正式な集計さえ済んでいるわけでもないにも拘わらず、獲得した選挙人の推定数を報じることで、バイデン氏の当選が‘確定’したかのように報じています。また、‘米市民の8割がバイデン氏の勝利を受け入れている’する世論調査の結果も報じられましたが、こうした報道も、‘他の人々が受け入れているのだから、あなたも受け入れるように’という同調圧力を醸し出すことが目的なのかもしれません(フェイクニュースである可能性もある)。何れにしましても、マスメディアによる多数派の演出は、自らの描いたシナリオに国民を誘導するための、‘権力側’の情報操作である可能性が高いのです。
国民の多くがマスメディア、並びに、同様の罪を犯したSNSの異常性を認識するに至りますと、情報操作の効力も失われます。誰も信じなくなり、情報価値も失われるのですから。そして、後に残されたのは、今後、国民は、どのような方法や手段で事実を知ればよいのか、という民主主義体制の維持に関わる問題です。それは、中立公平性を確保するために、マスメディアを‘権力’から解放する、あるいは、情報提供機関の独立性を保障するシステムを新たに構築することであるのかもしれません。アメリカ大統領選挙におけるメディアの自滅は、日本国を含む他の諸故国にも同様の問題を投げかけているのではないかと思うのです。