万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

大きな利権政府よりも小さなルール志向政府

2007年08月16日 20時54分11秒 | 国際経済
 政府と市場との関わりについては、近年、グローバル経済の将来への悲観から、再びケインズ主義路線の大きな国家論が唱えられてきています。しかしながら、広い裁量権を持つ政府に経済のコントロールを任せますと、やがては財政支出の拡大にともなう利権国家化が進み、財政を傷め、さらには市場の自律的成長力をも摘んでしまうこともまた予測されるところです。

 そこで、ケインズ主義にもはや戻れないとするならば、政府と市場とは、新たな関係を構築してゆかなくてはならないことになります。そうして、この政府の新たな役割こそ、政府自身が市場のプレーヤーの一人になるのではなく、中立・公平なレフェリーに徹することではないか、と考えられるのです。レフェリーの役割とは、市場においてプレーヤーにルールを守らせ、違反行為がある場合にはそれを断固として排除することです。

 市場には、競争がつきものですから、自由で公正な競争秩序を築き、それを守ることこそ、市場経済における政府に最もふさわしい役割と言えるのではないでしょうか。

 

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第二次世界大戦―捩じれた大義と闘う相手―

2007年08月15日 18時46分24秒 | 国際政治
 戦争とは、国家の大義を賭けた闘いであることは少なくありません。太平洋戦争(大東亜戦争)もまた、大義と大義が正面からぶつかる戦争という側面を持っていました。

 この戦争にあっては、アメリカ合衆国は、ナチス・ドイツの如き独裁体制を打倒し、自由と民主主義を広げることを大義として、日本国と戦いました。一方、日本国は、アジアにおける西欧列強による植民地支配の解放を掲げて、大東亜戦争に突入してゆくことになります。

 しかしながら、この対立を注意深く観察してみますと、大義と闘う相手との間に、若干の捩じれがあることが見て取れるのです。アメリカが、全体主義と闘うならば、日本ではなく、むしろソヴィエトと闘わなければならなかったはずですし、アジア解放を掲げるならば、日本は、イギリス、オランダ、フランスを主敵としなくてはならなかったはずです。このことは、太平洋戦争が、単純な対立構図では理解しえないことを示しているとも言えましょう。

 結局、日本は戦いに敗れましたものの、その大儀は、戦後、アメリカの手によって達成され、アジア諸国は独立してゆくことになります。しかしながら、両国の兵士の多くの方々が、これらの大儀に殉じて若き命を散らしたこともまた、忘れてはならないと思うのです。

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市場主義から離脱しやすい農業経済

2007年08月14日 19時00分05秒 | 国際経済
 WTOにおける多国間交渉のネックが常に農産物問題であることが示すように、どの国も、農業問題は政策上の”つまずきの石”となっています。それでは、何故、農業分野は、かくも解決困難な問題となるのでしょうか?

 農産物とは、米や小麦といった穀物を始めとして、人間が生きてゆく上で必要不可欠な食料でもあります。このことは、”交換”を基盤としてる市場経済とは違った側面を、農業に与えることになるのです。例えば、飢饉が起きたりしますと、まずは、最低限の供給が満たされることが政治的に要求され、農業分野は、市場経済から離脱を余儀なくされます。また、輸入の完全自由化によって、国土が荒廃する事態に至ることも、多くの諸国は政治的受け入れることはできないでしょう。これらを反対から見ますと、農業分野の市場経済化は、充分な食料の供給と農地の保全という条件を満たす必要がある、ということにもなります。

 このように考えてみますと、農産物市場を市場経済から離脱させないためには、なかなか難しい条件を同時に満たさなければならないようです。これらの要件を満たす解として、1)農業の生産性を上げ、充分な供給を確保すること、2)国際競争力に劣る国は、農地の大規模化などにより価格低下に努めること、3)食糧用農産物価格が国内生産を不可能にする程に低下しないように、農産物の利用範囲を広げること(バイオ・エネルギーなど)、4)農地利用を自由化し、付加価値の高い商品作物の開発に取り組めるようにすること、などを挙げることができます。

 こうした具体的な農業改革なくしては、WTOが進展することは困難と思われるのでが、いかがでしょうか。

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政争による財産没収は前近代的

2007年08月13日 21時17分17秒 | アジア
韓国で「親日派」の子孫の土地13億円分没収(読売新聞) - goo ニュース

 18世紀以降、近代自由主義国家は、個人の自由と権利の保障を統治制度の基礎に組み込んだことにおいて、人類に新たなる国家モデルを示すものとなりました。今日に至るまでの間、このモデルは広く一般化し、現代国家の基本型ともなっています。

 この個人の自由と権利の保障には、もちろん、政府による一方的、かつ、不当な財産権の侵害を防ぐ、という意味を含んでいました。この見地から見ますと、上記の韓国大統領府の措置は、没収理由が犯罪ではなく歴史・政治的な理由でありますので、極めて前近代的な行為と映るのです。

 没収の対象となった方々は裁判に訴えるとのことですが、政治的な権利侵害が起きる時、それは、近代国家というものに背を向ける時となるかもしれません。

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マスゲームは独裁者の享楽

2007年08月12日 18時26分36秒 | アジア
 マスゲームという催し物は、ナチス・ドイツやソ連邦といった全体主義国家において、しばしば、イデオロギーの視覚化と国民統制の手段として大々的に用いられてきました。現在でも、北朝鮮で催される一糸乱れぬマスゲームは、その奇怪で威圧的な体制の象徴ともなっています(今年は実施しなかったとの報道もありますが…)。

 ところで、このマスゲームは、”誰”のために行われているのでしょうか。それは、当然に、”見る人”のためです。そうして、この”見る人”とは、全体主義国家にあっては、独裁者、あるいは、一部の取り巻きでしかないのです。国民は、全体の中の一つのコマ(パネル)にすぎず、自由な意思を持つことは許されません(自由があると成り立たない!)。

 マスゲームとは、国民を意のままに完全に支配することで満足する他虐的な独裁者の、結局は、享楽の手段でしかないのです。自由主義国の政治家が、全体主義国のマスゲームを観て感動した、というようなお話がありますが、自由を尊ぶ人々は、この不愉快な見世物の本質を、しっかりと見抜いていただきたいと思うのです。

 

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国際協調主義の偽善

2007年08月11日 21時08分41秒 | 国際政治
 国際協調主義の原則は、”民族や宗教の違いを超えて、全ての国々が相互に信頼し、仲良くしてゆこう”、というものです。この原則自体には、何も非難すべき点はありません。しかしながら、現実の国際社会を舞台に国際協調主義が追及されようとするとき、そこには、何故か偽善の香りが漂うのです。

 偽善とは、美辞麗句のもとに何か良からぬことが隠されている場合に使われる言葉です。国際協調主義という美名の下にも、時にして、何か都合の悪いことや注意を逸らしたいことが隠されていることがあります。

 例えば、このスローガンを掲げて、中国や北朝鮮との友好促進が唱えられることがありますが、その陰で、侵略されたチベット民族、政府弾圧に怯える国民、あるいは、拉致被害者といった犠牲者が取り残されています。国際協調主義は、この悲劇が見えないように覆い隠してしまうのです。

 理想と現実とを見極める眼力なくして国際協調主義を論じれば、結局は偽善の虜になっていまうのではないか、と危惧するのです。

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国連における普遍性のジレンマ

2007年08月10日 19時34分57秒 | 国際政治
 国連は、しばしば、国際社会における唯一の”普遍的な機構”、という惜しみない賛辞を受けてきました。しかしながら、この国連の”普遍性”の内容を問う時、そこには、解き難いジレンマが横たわっていることに気付かされるのです。

 それは、価値観の普遍性と組織としての普遍性は両立しない、というジレンマです。国際機構としての普遍性を追求するあまりに、価値観の異なる国々を次々と加盟させますと、国連の内部において、普遍的な価値を共有することはできなくなります。反対に、加盟国間における普遍的な価値の共有を追い求めますと、今度は、国連から脱退したり、追放される加盟国が発生してしまうのです。

 こうした国連の普遍性のジレンマは、実のところ、国連が機能しない隠れた要因なのです。

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オリンピックは人権に優先するのか

2007年08月09日 17時37分26秒 | アジア
中国の人権侵害続けば、北京五輪ボイコットを=米下院決議案(時事通信) - goo ニュース

 日本国のマスコミの報道などを見てみますと、北京オリンピック、否、中国の度重なる侵略ならびに人権侵害行為に対して鋭く批判する記事はあまり見かけることがありません。上記の記事についても、他人事のような冷やかな反応さえ見受けられます。

 しかしながら、この問題が、国家として、人権侵害を許すのか、許さないのか、という、基本姿勢を問うている、ということに思い至りますと、日本国の政府、マスコミおよび国民の反応には、いささか落胆せざるをえません。日頃から、声高に人権の尊重を叫びながら、中国が当事者となりますと、途端に口をつぐんでしまうのですから。

 中国に自国の行為の誤りを知らしめるために、北京オリンピックのボイコットが有効であるならば、それを政治の舞台で議論することは、決しておかしなことではありません。堂々と中国を非難できない日本国にこそ、その行く末に不安を感じるのは、私だけでしょうか。
 

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南北統一の危ない綱渡り

2007年08月08日 21時01分10秒 | アジア
南北首脳会談、28日から開催=韓国大統領平壌訪問へ-7年ぶり、核問題など焦点 (時事通信) - goo ニュース

 最近、アメリカ国内では、北朝鮮の核問題の解決方法を、リビア方式から南アフリカ方式にシフトさせるという案が浮上してきている、とう報道がありました。これは、韓国主導の南北統一を契機として、核の自己申告と放棄を実現させる、とするプランのようです。

 今回の南北首脳会談が、この路線上にあるのか否かは定かではありませんが、南アフリカの体制崩壊よりも、韓国による北朝鮮の吸収合併のほうが、はるかに困難であることは確かなようです。何故ならば、南アフリカの場合には、一国の国内問題としての体制移行でしたが、今回のプランは、北朝鮮という、極めて特異な体制を持つ国の消滅を伴うからです。

 自国の幕引きを伴うプランに北朝鮮が容易に合意するはずもありませんので、このプランが、韓国に支援の口実をうかつに与えることになりますと、崩壊するはずの北朝鮮の体制は、かえって強化されてしまいます。南北統一という綱渡りの始まりは、見ている者が不安にかられるほど、危険に満ちていると言えましょう。

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本当は必要な国家

2007年08月07日 20時05分39秒 | 国際政治
 これまでのところ、国家への評価は、決して高いものではありませんでした。国家は国民を弾圧する、国家は戦争を起こす、国家は国民から搾取する、などなど。

 確かに、人類の歴史には、時代や地域を問わず、非難にあたいする国家は数多く存在してきましたし、現在でも存在しています。しかしながら、その一方で、国家が消滅しますと、外国の脅威から国民の安全を守り、そこに住む人々の生活水準の向上に努め、社会秩序を維持する役割を果たす存在もまた、時を同じくして消えてしまうのです。国家なくして、誰が、この役割を担うというのでしょうか?

 国家に対する悪いイメージから、ひたすらに国家を壊すことに熱中するよりも、国家自身をより良くするように努力を傾ける方が、はるかに建設的なことなのではないでしょうか。

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宗教は国家に優先するのか?

2007年08月06日 18時46分02秒 | 国際政治
アルカイダ米国人構成員、米大使館・外交官への攻撃予告(ロイター) - goo ニュース

 人間集団の中には、熱狂的な信仰心から、テロや無差別殺人といった犯罪行為でさえも神の名において正当化する人が、必ず現れるものです。歴史を振り返りましても、常に狂信者は存在していました。

 理性を失った狂信者の前では、国家や国籍は全く意味を持ちません。彼らの同朋とは、信仰を同じくする人々であって、同じ国の国民では決してないからです。このため、国法を犯しても、国民を殺害しても、何らの罪の意識を持たないのです。

 暴力主義を是とする宗教が国境を超えて忍び寄るとき、それは、国家の内側から、目的のためには暴力的手段をも厭わない反逆者が生まれる危険性が迫るときでもあります。宗教が人類に対して安全であるためには、全ての宗教の信者は、少なくとも国家が定めた倫理的ラインを超えてはならない、という共通原則を確立すべきなのではなでしょうか。
コメント (1)
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チベットを誰が救えるのか?

2007年08月05日 18時35分45秒 | アジア
中国四川省でチベット族住民1000人と警官隊が衝突(読売新聞) - goo ニュース

 チベットが中華人民共和国によって侵略されたのは、建国からわずか1年の後の1950年のことでした。チベット族は、7世紀から既に独自文化を持つ吐蕃国を築いており、中国による侵略は明白なものでした。このため、同年、国連でも、この行為を侵略とする決議が成立するのです。

 しかしながら、チベットは、今日に至るまで独立を回復することができていません。その理由としては、第一に、侵略の張本人である中国が、国連の常任理事国の地位を占めしまったこと、第二に、侵略認定を行いながらも、国連には、この侵略行為をやめさせる実行力がなかったこと、さらに第三として、チベットの政教一致体制が、非暴力主義のチベット仏教に基づいていたこと、などが挙げられます。

 この間、中国は、チベットの人々を弾圧し、虐殺を繰り返すことになります。誰がチベットを救えるのか、この問題は、今後の国際社会の安全を考える上でも極めて重要です。もちろん、チベットの人々が自らの力で独立を勝ち取ることが望ましいのでしょうが、もし、それが叶わないとしたら?

 チベットを救うために知恵を絞ること-例えば、北京オリンピックのボイコット・・・-は、自国の安全を守ることでもあることに、より多くの人々が気付くべきであると思うのです。

 

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社会・共産主義運動と労働運動は分離できる

2007年08月04日 20時40分19秒 | 国際経済
 マルクス主義の強い影響もあって、労働運動とは、イデオロギー闘争のからむ政治運動である、とする見方がすっかり定着してしまっているようです。このため、労働組合といった団体の運動方針には、今日でも、防衛や安全保障、さらには体制の変革さえも含む、かなり政治色の強いスローガンが掲げられていることが少なくありません。

 しかしながら、暴力革命路線が衰退し、市場経済が経済の基本的なメカニズムとなる今日にあって、伝統的な労働運動=社会・共産主義運動という等式は、もはや時代に合わなくなってきている可能性があります。労働運動とは、そもそも、自己の労働に見合った公正な賃金や労働環境の改善を求める運動でありますので、むしろ、この本来の目的に回帰する方が、労働者の利益にも適うかもしれないのです。

 政治的なスローガンを排除することによって、はじめて、労使の間に合理に徹した関係が築かられる基盤を準備できるのではないかと思うのです。

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中国でもビロード革命?

2007年08月03日 19時43分30秒 | アジア
政治改革「自民党も選択肢」=派閥容認提案-中国党大会・五輪前に北京大教授 (時事通信) - goo ニュース

 経済の急成長に伴い、共産主義体制の綻びが露呈する中、ようやくかの国でも、政治制度改革への議論が始まろうとしているようです。今回、非公式ながらも学者や専門家の間で、多党制や権力分立制の導入といった踏み込んだ議論なされたと言います。

 仮に、これらの案が実際に実現するとしますと、中国は、共産国家から民主国家へと大きく変貌することになりましょう。あたかも、東欧の”ビロード革命”のごとく、音もなく共産国家は東アジアから姿を消すことになるのです。

 ただし、もし、共産党が、他の政党と対等の立場となることを拒むとしますと、これは、弥縫策でしかなくなります。何故ならば、中華人民共和国憲法の前文には、”中国共産党の指導する多党協力と政治協商制度”といった言葉あり、多党制は、体制内での許容範囲の拡大という意味しか持たなくなるからです。また、国民の政治的な自由の保障に基づいた民主的選挙が実施されなくては、意味がありません。

 中国において、本物の”ビロード革命”が起きるのか、それは、新たな制度における共産党の位置づけ、そうして民主的な選挙制度の導入にかかっているのです。

 

 

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アフガニスタンの国民のためにこそ協力を

2007年08月02日 19時21分44秒 | 日本政治
民主・小沢代表、駐日米大使の会談要請を断る(読売新聞) - goo ニュース

 テロ対策特別措置法の延長に反対する民主党の理由は、それが対米追従政策に他ならないからである、と説明されています。しかしながら、この問題は、テロリズムとの闘いという政策本来の目的から判断すべきではないか、と思うのです。

 かつてアフガニスタンでは、タリバン政権が、イスラム原理主義に基づく洗脳教育、厳格な女性管理、自爆戦法、残忍な刑罰などを用いることよって、国民を恐怖で支配していました。政権から去った今日でさえ、タリバン支配の傷跡は残り、タリバン残党や麻薬畑の存在が国民を苦しめています。

 ようやくタリバンの恐怖政治から解放されたものの、アフガニスタン国民は、タリバンの復活とテロリズムの恐怖の中にあります。対米協力が、アフガニスタンの安定につながるとするならば、日本国政府は、それこそ独自の判断として、テロリストの恐怖に曝されている人々に支援の手を差し伸べるべきであると考えるのです。

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