去年草むらのダニに食われてから、草むらはバカにできないし、いつ恐ろしい病気に感染して死んでしまうかもわからないのに、あいかわらずオバカな私は、短パンで草深い山城探検に出かけました。
あれから何日たつのか、もう1週間は経過したので、たぶん大丈夫だと思われますが、今後は注意して出かけたいと思います。まさかそんな城めぐりをするとは思っていなかったので、知人に誘われて危ない橋を渡ったというところでしょうか。
信長さんの天下統一の一環としての伊勢攻め戦略がありました。伊勢を占領したら、南は山また山なので、海軍さえあれば東西の航路は確保できるので、とにかく伊勢・伊賀・大和などを自分の占領下におきたかったでしょう。近江ルートで都へのルートは確保しているので、それを広げていく戦略として関西に自分の地位を築いておきたかったんだと思います。尾張から船に乗れば伊勢の国だし、ここを本拠にして天武天皇、ヤマトタケルノミコト、平清盛など歴史上の人物はここを踏み台にしてビッグになっていきました。
藤堂高虎さんというすごい人がいたようですけど、彼はあくまでも黒子に徹したんでしょうね。野心はなかった。だから、黒田官兵衛さんが福岡じゃなくて、伊勢の国を与えられていたら、ひょっとして天下を取れたのかも知れないです。まあ、家康さんはそれがわかってたのかもしれませんね。
1569・永禄12年8月、織田信長の南伊勢侵攻が始まります。国司・北畠具教は信長来襲の報に一族の精鋭を集め、迎撃の態勢を整えました。具教軍1万6000、その軍勢を8つの城に分散させて籠城して戦うことにしました。楠木正成さんと同じような戦略ですね。
一方、信長軍は7万の精鋭部隊でした。具教は迎撃態勢の一環として今徳城に奥山常陸介、小森上野城には藤方御所一族と北畠小原具就、八田城に大多和兵部少輔、木造城に木造御所一族、阿坂城には大宮入道含忍斎、船江城には本田一族、曽原城には天花寺小次郎、岩内(ようち)城には岩内御所一族を置き、信長の侵攻に対抗します。
信長軍は南伊勢に入り、叔父の津田信正を安濃津城に入れて長野軍団とともに今徳城の奥山常陸介と戦わせましたが、具教軍の今徳城救援などもあって陥落させることはできませんでした。そのころ畿内において三好軍の一党が乱を起こして、そちらの方を先に倒さなくてはならなくなったために信長は上洛し、一時的に伊勢から撤退することになりました。信長さんは伊勢の大切さを感じつつ、伊勢から天下をねらえそうなヤツがいないと見たのでしょう。
だから、近畿を先に解決しようとした。そして、伊勢を守る北畠一族の仲間割れがあって、内部崩壊でズンズンと南下に成功して、さあいよいよ嬉野の八田城を攻めることになりました。
北部の伊勢はおおよそ従えることができた。南部の伊勢の国は、山の奥に北畠さんの本拠地があって、その出先機関が伊勢平野を見下ろす各地の山城となっていて、それらを突破しない限り北畠さんの本拠地にはいけないのです。
八田城は、北畠さんの本拠地(現在の美杉町のずっと奥の地域に何万人もの集落を築いていたということです。北畠さんの桃源郷があったんですね)に入っていく谷の入り口にあります。ですから、ここに軍勢がいれば、大軍団としてもまずこの山城を落とさない限り山奥に入っていけないのです。
かくして攻防戦があり、結局は落とされてしまいます。それは仕方のないことです。なにしろ若き秀吉さんも戦いに参加していたといいますし、織田軍としても全力で立ち向かった。
信長の侵攻を助けたのは北畠具教の弟であり、木造家の当主木造具政でありました。仲間割れだったんですね。そりゃ、圧倒的な信長軍の軍勢を見せられて、しかも内部に不満を抱える一族がいたら、そりゃ、仲間を裏切って信長につこうというヤツもでてくるでしょう。これが世の中の常ですね。だれでも勝ち馬に乗りたいのです。
北畠具教は木造具政の謀反に怒り、人質にとっていた柘植三郎左衛門尉の娘(嫡子とも)を船江城主の本田美作守に預け、本田の家臣の中西甚大夫らによって雲出川端で串刺張付けの刑に処しています。
8月23日、信長は滝川一益・関氏軍で小森上野城を押さえ、織田信昌・長野軍団で今徳城を押さえて交通路を確保、木造城で木造具政らと軍議をひらきました。26日にはそこを出発し、当時源浄院の僧であった滝川雄利と柘植三郎左衛門たちを案内人として山際の道を南下、沿道に火を放ちつつ大多和兵部少輔の拠る八田城に向かいました。
その朝濃霧により八田城攻撃を中止、信長は近隣の岩内城と阿坂城に降伏勧告を出します。岩内城の岩内氏は国司の一族であるため回答を保留しますが、阿坂城の城主大宮入道は頑として拒否し、27日に1000人の兵で籠城します。織田信長は木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉、以後秀吉とする)を先陣に襲わせます。
この文章のように、八田のお城は最前線で迎え撃ち、やがて落ちてしまいます。このままどんどん北畠さんは押し込まれて、最終的には現在の大台町まで押し込まれ、ここで滅んでしまいます。
というわけで、ダニにビクビクしながら、あまり整備されていない道を上がり、本丸あたりで記念の碑を見つけ、この広場で敵との戦いを繰り返していたのだと思い、スゴスゴと帰って来ました。
あれから何日たつのか、もう1週間は経過したので、たぶん大丈夫だと思われますが、今後は注意して出かけたいと思います。まさかそんな城めぐりをするとは思っていなかったので、知人に誘われて危ない橋を渡ったというところでしょうか。
信長さんの天下統一の一環としての伊勢攻め戦略がありました。伊勢を占領したら、南は山また山なので、海軍さえあれば東西の航路は確保できるので、とにかく伊勢・伊賀・大和などを自分の占領下におきたかったでしょう。近江ルートで都へのルートは確保しているので、それを広げていく戦略として関西に自分の地位を築いておきたかったんだと思います。尾張から船に乗れば伊勢の国だし、ここを本拠にして天武天皇、ヤマトタケルノミコト、平清盛など歴史上の人物はここを踏み台にしてビッグになっていきました。
藤堂高虎さんというすごい人がいたようですけど、彼はあくまでも黒子に徹したんでしょうね。野心はなかった。だから、黒田官兵衛さんが福岡じゃなくて、伊勢の国を与えられていたら、ひょっとして天下を取れたのかも知れないです。まあ、家康さんはそれがわかってたのかもしれませんね。
1569・永禄12年8月、織田信長の南伊勢侵攻が始まります。国司・北畠具教は信長来襲の報に一族の精鋭を集め、迎撃の態勢を整えました。具教軍1万6000、その軍勢を8つの城に分散させて籠城して戦うことにしました。楠木正成さんと同じような戦略ですね。
一方、信長軍は7万の精鋭部隊でした。具教は迎撃態勢の一環として今徳城に奥山常陸介、小森上野城には藤方御所一族と北畠小原具就、八田城に大多和兵部少輔、木造城に木造御所一族、阿坂城には大宮入道含忍斎、船江城には本田一族、曽原城には天花寺小次郎、岩内(ようち)城には岩内御所一族を置き、信長の侵攻に対抗します。
信長軍は南伊勢に入り、叔父の津田信正を安濃津城に入れて長野軍団とともに今徳城の奥山常陸介と戦わせましたが、具教軍の今徳城救援などもあって陥落させることはできませんでした。そのころ畿内において三好軍の一党が乱を起こして、そちらの方を先に倒さなくてはならなくなったために信長は上洛し、一時的に伊勢から撤退することになりました。信長さんは伊勢の大切さを感じつつ、伊勢から天下をねらえそうなヤツがいないと見たのでしょう。
だから、近畿を先に解決しようとした。そして、伊勢を守る北畠一族の仲間割れがあって、内部崩壊でズンズンと南下に成功して、さあいよいよ嬉野の八田城を攻めることになりました。
北部の伊勢はおおよそ従えることができた。南部の伊勢の国は、山の奥に北畠さんの本拠地があって、その出先機関が伊勢平野を見下ろす各地の山城となっていて、それらを突破しない限り北畠さんの本拠地にはいけないのです。
八田城は、北畠さんの本拠地(現在の美杉町のずっと奥の地域に何万人もの集落を築いていたということです。北畠さんの桃源郷があったんですね)に入っていく谷の入り口にあります。ですから、ここに軍勢がいれば、大軍団としてもまずこの山城を落とさない限り山奥に入っていけないのです。
かくして攻防戦があり、結局は落とされてしまいます。それは仕方のないことです。なにしろ若き秀吉さんも戦いに参加していたといいますし、織田軍としても全力で立ち向かった。
信長の侵攻を助けたのは北畠具教の弟であり、木造家の当主木造具政でありました。仲間割れだったんですね。そりゃ、圧倒的な信長軍の軍勢を見せられて、しかも内部に不満を抱える一族がいたら、そりゃ、仲間を裏切って信長につこうというヤツもでてくるでしょう。これが世の中の常ですね。だれでも勝ち馬に乗りたいのです。
北畠具教は木造具政の謀反に怒り、人質にとっていた柘植三郎左衛門尉の娘(嫡子とも)を船江城主の本田美作守に預け、本田の家臣の中西甚大夫らによって雲出川端で串刺張付けの刑に処しています。
8月23日、信長は滝川一益・関氏軍で小森上野城を押さえ、織田信昌・長野軍団で今徳城を押さえて交通路を確保、木造城で木造具政らと軍議をひらきました。26日にはそこを出発し、当時源浄院の僧であった滝川雄利と柘植三郎左衛門たちを案内人として山際の道を南下、沿道に火を放ちつつ大多和兵部少輔の拠る八田城に向かいました。
その朝濃霧により八田城攻撃を中止、信長は近隣の岩内城と阿坂城に降伏勧告を出します。岩内城の岩内氏は国司の一族であるため回答を保留しますが、阿坂城の城主大宮入道は頑として拒否し、27日に1000人の兵で籠城します。織田信長は木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉、以後秀吉とする)を先陣に襲わせます。
この文章のように、八田のお城は最前線で迎え撃ち、やがて落ちてしまいます。このままどんどん北畠さんは押し込まれて、最終的には現在の大台町まで押し込まれ、ここで滅んでしまいます。
というわけで、ダニにビクビクしながら、あまり整備されていない道を上がり、本丸あたりで記念の碑を見つけ、この広場で敵との戦いを繰り返していたのだと思い、スゴスゴと帰って来ました。