甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

石垣りん 「犯された空の下で」 第1回

2014年07月01日 22時00分41秒 | 三重の文学コレクション
 石垣りんさんは、1920年東京生まれの詩人です。長年、銀行にお勤めしていて、1975年に銀行を退職した方です。私は、詩人としての石垣さんしか知りませんでしたが、生活人としての顔もお持ちだったんですね。そして、今回の1972年といえば、まだお勤めされていて、その二足のわらじ時代の忙しい中で、テレビの仕事を引き受けられて四日市に来てくださったということでした。70年代の四日市といえば、公害訴訟が問題になっていた時代です。

* 犯された空の下で  一九七二年七月二十四日 四日市裁判判決の日に

 この場合、勝つ、ということは何をさすのだろう。大方の予想は前日までに出そろっていた。どこに出ていたか、といえば新聞等の論調であり、そこまで世論を押し上げたのは、個々人の苦しみであり、目をさました集団であり、マス・コミュニケーションの力添えであった。事実があって、だれもが何のしわざかわかっていることの是非が決着を見るまでに、なんというたくさんの努力を要したことだろう。
 もしこれだけのにがい滴(しずく)、人々の心のより集まりが力として働かなかったとしたら――こんどの判決さえ、どう出たか知れたものではない、と考えるのは疑い深い私情にすぎないだろうか? 発表になる寸前まで、なお一抹の不安が残されていた。

 判決の直後、勝利のたれ幕が裁判所の建物の上の方からつり下げられ、前夜のあらし模様がまだそこここの水たまりとなって残されている前庭に、集まった大勢の中からいっせいに拍手がわき上がり、祝・大漁の旗もかかげられたけれど、こうしてごく当たり前と思われる判決の前に大喜びしなければならないのが、私たち庶民と呼ばれているものの、現在置かれた立場なのであろうか。無念ながらいつもそうだったことを思い返した。富山でも、新潟でも。もっと悲しむべきことさえ、私たちは泣いて喜ばねばならなかったのである。




 70年代は、高度経済成長の60年代のうみが一気に破裂して、あちらこちらで自分たちの生活を再生しようという動きのあった時代です。富山では、神通川のカドミウム汚染によって流域の人々が被害を受け、新潟では阿賀野川のカドミウム汚染、それから忘れてはいけないのは熊本の水俣チッソ工場による汚染がありました。これら四大公害病地域だけではなくて、日本各地で工場による垂れ流し被害があったのです。そんなこと、だれも考えたことはなくて、適当に流しておけば、適当に流れていくだろうという、何も考えていない時代があったのです。

 今も、お隣の中国では、何も考えずにみんながクルマを持ち、工場はあまり考えずに汚染物質を流しているかもしれません。そういう国が今もあるということです。経験しないと、国民はわからないのです。もっと中国の人たちが、ぜんそくやら、気管支炎やら、光化学スモッグやら、とんでもない被害を受けて、このままでは政府に自分たちの生活がムチャクチャにされてしまうと怒り、政府や企業を止めないと、そのまんま続くことでしょう。やはり、国民が訴えないと、環境汚染なんて、一番最後に放っておかれるものなのでしょう。

 今の日本は、国民の生命なんて、国家の存亡の前ではあまり意味を持たないようで、国家を保持するためには、自衛隊であろうが、徴兵制であろうが、とにかく自衛権を拡大しなくてはいけない、ということになっています。これも、国民の1人ひとりがイヤだと言わない限り、当然政府の暴走は続くでしょう。国民は、自分に被害が及ばない限り、ぼんやりしたままです。そして、調子に乗って、そんなの当たり前だろ! とか、言ってしまう。私は、前線に追いやられる自衛隊員の気持ちを考えたいと思います。あまり、大義名分のない戦いに、どうして自分が行かなければならないのかと、悲しくなるだろうと思います。

 私がはじめて四日市を訪れたのは、東海テレビのドキュメンタリー「あやまち」のサブ・タイトルを借りるなら、一九七○年夏、ということになる。その制作メンバーに加えられ、詩を書くためであった。住民でない者がいきなり行って、何を言う資格があろう、としりごみした。遠慮は無用である、といわれた。はじめて見る者の目で実際をとらえるのです、と言われた。どれだけとらえ得たかわからない。炎天下シャツ一枚で取材に歩くスタッフに私は同行することになった。

 はじめて見る四日市をどう思うか、と聞かれたとき、言うことをはばかったのを覚えている。実は墓地に見えたのである。盛んに火と煙を吐き出し、林立する大煙突の紅白のダンダラじまが、経済成長の宴を取り巻く祝儀の席を思わせる。であるのに近づいてみると、へんに人気の乏しい工場群。夜になるとフレアスタックのほのおが一段と色を増し、海岸べりに広く長く陣を敷いたコンビナートのありかを示して、妖怪じみた息を吐き続けていた。そして、工場施設にぎっしりともされた電気、これは美しかった。その万灯は鈴鹿川にうつって流れた。私は勲章だと思った。くらやみの中にひとつの顔を見よう、と思った。幅広いコンビナートの胸に輝く栄光。その勲章をつけて立つ紳士の顔を、よくよく見なければならないと思った。企業の顔であり、国家と呼んでもよい、その方針と非情をみる思いがした。

 そんな言い方はしたくない。したくなくても、ではなぜ、汚れきった空の下で、多くの居住民が健康をむしばまれ、生活の場を不当に犯されて苦しむ側に味方してくれなかったのだろう。長い間、とつけ加える。もしかしたらこれから先も、とつけ加える。
〈石垣りん 『ユーモアの鎖国』より〉 



 四日市のコンビナートは、今では観光名所にすらなっています。でも、汚染物質をたれ流す企業もあるみたいで、ぜひ県の方や、周辺住民は、厳しく目を光らせて欲しいと思っています。

 石垣りんさんが、四日市をテーマにした詩とか、今度打ち込んでみます。この文章は、まだ続きます!


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