甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

玩古堂の婆さん(桂 文我 2016)

2016年05月31日 21時47分20秒 | 三重の文学コレクション
 桂枝雀さんのお弟子さんで雀司(じゃくし)という落語家さんがいました。私より年上だと思うんですが、今でもかなり活躍されています。関西落語界の正統派のエースだと私は思っています。

 1997年に4代目文我(ぶんが)を襲名して、もう20年近くになるんですね。その文我さんは松阪市の出身で、たまたま大阪の南森町の古本屋案内誌に原稿を書いておられました。

 それを、たまたま三重県在住の私が見つけて、三重の文学に収録することにしました。まわりくどい話ですなあ。

 
……玩古堂の北側で、こちらが通りに面しているし、入り口はこちらだったんでしょう。

 三重県松阪市に生まれ育った私が古本屋好きになったのは、後に画家になる本好きの中嶋君の影響で、中学2年生の頃、「白粉町(おしろいまち)に面白い古本屋がある」と誘われて行ったのがキッカケ。

 奈良時代、奈良の大仏の鍍金(ときん 金メッキ)に使うため、松阪の近隣地区・丹生(にゅう)で水銀が採掘され、副産物の軽粉が化粧道具となり、それをこしらえたり、販売した所から白粉町という町名が付いたと聞いているが、真偽のほどは定かではない。

 その白粉町に二坪ほどの狭い店構えの古本屋があり、店名は玩古堂。

 小学校の頃から、この店の前は通っていたが、いつもうす暗く、奥の方に「奈良時代の生き残りのような婆さん」が座っていたので、入る勇気がなかった。

 中嶋君に促されて、婆さんがキセルで煙草を喫い、低い声で「いらっしゃい」。


……こっちは玩古堂の東側です。

 何とも陰気臭く、古本独特のカビ臭さに閉口したが、店に慣れるにつれて、この匂いや雰囲気に浸るのが快く感じだしたのだから不思議なモノだ。

 店の真ん中の書棚の裏表には単行本がギッシリで、壁の書棚には漫画本が目一杯。

 「小遣いに困って、この店へ漫画本を売ってしもた。だいぶん、売れてしまったけど、あれは買い戻すことができん」と中嶋君は嘆いていたが、それは大量の水木しげるの貸本漫画で、今でも彼に会うと、「あの本があったら、小さい家が建ってたかもしれんよ」と嘆いている。



……ディープな松阪は、あちらこちらにありますよ。私の知らないところ、いっぱいあるでしょうね。

 その日から、私の玩古堂通いが始まった。

 中学生ながら、いつの間にか、その婆さんと仲良くなり、お茶を呑みながら世間話に興じるという毎日が続いたのだから、私は相当変わっていたのだろう。

 高校卒業後、桂枝雀門下となり、二年間の内弟子修業を終え、久しぶりに玩古堂へ行くと、婆さんの座には娘さんが座り、「婆さんは、最近、亡くなった」と言う。それを聞いたとき、心の底からガッカリし、思わず、涙かあふれた。

 現在、玩古堂は閉店し、店だけが残っている。

 私があの世で会いたい人の1人は、玩古堂の婆さん。とにかく、古本屋通いの楽しみを教えてくれたのだから……。 


 さて、私は、昨日、松阪医師会館の重要文化財級の建物が、この松阪では破壊されてしまったと書きました。なぜか、玩古堂は建物は今もあります。そして、閉ざされたままです。

 もっと有効利用して欲しいものは、取り壊されてノッペリしたつまらない建物に変わり、少しは風通しでも良くしたらいい感じの建物は、ずっと閉ざされたまま、朽ちていくのを待ち続けている。

 私たちは、町をどんなふうにしていくのか、全くビジョンもなくて、ただとりあえず経済だけがうまく回転すればいい、カネは天下の回りモノだ、とかいいかげんなことを言い、何も考えず、大事なモノを失っていく。

 本当は、みんなで町をどうするか、それを話し合わなきゃいけないのに、建設業の人たちばかりが新しいうすっぺらいものを増やしていく。なのに、誰も文句を言わず、町はどんどん更新されていく。

 そして、結局、小さな空間に密閉されて、みんなが息苦しくなっていくのです。苦しくなってはじめて、誰かを呼んでも遅いのです。私たちは、町をみんなで語らなくては!

 文我さんも、しょっちゅう実家に帰り、お寺とかで落語会とかしてくれなくちゃ! ホールでやっててもダメです。いろんなお寺がいっぱいあるし、古いおうちもいっぱいあるのに! まあ、それはここに住む私たちが考える仕事ですね。

 また、どこか歩いてみます。


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