旅で見つけた変なこと
3月1日。弥生3月。子羊のごとくそろそろとやって来たようで、朝から穏やかな日。このまま春爛漫になるのかな。そうだったらいいなあ。
夕べシンガポールのシンボルと言える「マーライオン像」に落雷して、頭と耳の部分が破損したというニュースがあった。カレシが水辺の大きな白い像のそばに立って水しぶきを浴びて涼んでいたのは先々週のこと。向かいにはデッキが延びていて、そこで大勢の観光客がマーライオンを背景に記念写真を撮っていたから、そばに立っていたカレシは一緒に何十枚もの写真に納まった勘定。今ごろは世界のあちこちで「この変な人、だれなのぉ?」、「さあねぇ」という会話が交わされているかもしれない。ニュース写真では頭のてっぺんと左耳が欠けてしまったように見える。マーライオン君、早く治ってね・・・。
[写真] マーライオン像
もちろん、私たちも近くにいた人に頼んで一緒の記念写真を撮ってもらったけど、今回は植物園のラン園で記念撮影用のベンチのそばにいたら、通りがかった人が「写真を撮ってあげる」とボランティアしてくれたので、記録的な2枚!カレシが写真を撮るのは好きでも撮られるのは嫌ということもあるけど、二人だけのときは一緒の写真を撮るのはけっこう難しい。(仲直りの銀婚式旅行だったパリでさえ、頼まれて撮ってあげた人がお礼代わりにエッフェル塔を背景に撮ってくれた1枚きり。)
変な人と言えば、シンガポールのホテル(ヒルトン)の部屋の天井の片隅に見つけた「変な矢印」。
[写真] 天井の矢印
よくよく見たらアラビア語らしい文字が書いてあるところを見ると、どうやらメッカの方角を指しているらしい。なるほど、狭い海峡を隔てたマレーシアやインドネシアは回教国だし、シンガポールにも回教徒がたくさんいて、大きなモスクがある。ホテルには回教徒のお客さんもたくさん泊まるはずだから、礼拝のときに困らないようにと、天井の目立たないところに「メッカはこちらです」と矢印を書いたのだろう。コスモポリタンなシンガポールならではの心憎いサービスだなあ。
シンガポールは英語、中国語、マレー語、タミル語の4つの公用語がある。他にマレー語を下敷きにした「シングリッシュ」と呼ばれる変則英語があって、これがなかなか味があっておもしろい。福建省あたりからマレー半島に移動して来た中国人が現地人と混血したのがペラナカンと呼ばれる人たち(中国語では「土生華人」)で、イギリス人やその他のヨーロッパ人と混血したのがユーラシアン。それがまた混じり合って、道を行く人たちも実にいろんな顔立ちをしている。そういう人たちが融和して暮らしているのがシンガポールという印象で、よく見ると、そこかしこにいるではないか、極楽とんぼに似た顔立ちの人たちが!
カナダでは「マレーシアから来たの?」と聞かれることが一番多くて、「先祖が1万年前までいたの」と言っていたけど、マレー半島の先っぽのシンガポールには極楽とんぼの遠い、遠い、遠い親戚がたくさんいるような感じがして、親近感を通り越して、懐かしさのような心地良さがあった。うん、異国の旅はそういう思いがけない変な発見もまた楽しいんだよなあ・・・
赤いモーセン踏みしめて・・・
3月2日。きのうのクライアントからのメールに「あしたはひな祭りですね」と書き添えてあった。あ、そっかぁ、3月3日はひな祭りだったっけ。そういわれても、とんと無縁になってあまりにも長いから、「へえ、そうなんですか」としか反応できない。ま、極楽とんぼも女の子だったから、子供の頃にはひな祭りを祝ってもらって楽しかった。でも、自分には子供がいないし、娘が生まれていたとしても、日本のおじいちゃんとおばあちゃんからはきっとひな人形が送られて来たと思うけど、両親にしてもらったようにひな壇を飾ってお節句を祝ったかどうかはわからないなあ。
起きてすぐにセロク(ピアノの先生)とのランチに出かけた。駐車する場所を探すのに苦労して少し遅れて着いたのは、「hole-in-the-wall(壁の穴=狭い)」という言葉ぴったりの小さなチャイニーズレストラン。香港育ちのセロクが「ここはおいしいの」というだけあって、テーブルが数えるほどしかない店内は満員御礼。セロクが坦坦麺、上海風スープ入り餃子、そしてバンクーバーで一番おいしいという「酔い鶏」を選んでくれた。小さい甕のような容器で出てきた「酔い鶏」には「わっ、お~いしい!」と大感激。坦坦麺は適度にスパイスが効いていて美味。熱々でおいしい餃子はスープがこぼれないようにれんげにとってから食べる。デザートは胡麻あん入りの白玉団子。砂糖漬けの花びらが浮いた少しだけ甘いジュースがなんとも言えない。久しぶりのおしゃべりをしながらの「変わり朝ごはん」に満腹、満腹。
それにしてもやたらと仕事が降って来るなあ。これでこの1週間にあと1社から仕事が来ていたらパーフェクトスコアになるところだった。旅装を解く間もなく(と言うのは大げさだけど)仕事、仕事。まあ、どこのニュースを見ても「不況一色」に塗られたご時世だから、仕事があることには感謝しないと。それでも、ちょっと忙しいなあ。指示待ちの案件では、発注元が値下げを要求して来たとか。低価格を打ち出しているところがあると言われて要求を呑んだそうな。いいのかなあ、それで。元請けと下請負けでは状況が違うとしても、この業界では、レートを上げてもらえることはめったにないし、いったん下げたレートを元に戻すのは並大抵のことじゃないんだけど。
ニュースによると、カナダの経済は去年の第4四半期に年間ベースにして3.4%縮小したという。1990年代初頭以来の景気後退、ひょっとしたら1980年代初頭以来の厳しい状況かもしれない。まあ、このグローバル時代に世界中がこぞって不況なんだから、カナダだけが無傷でいられるわけがないんだけど、数字を見る限りは、アメリカの6.2%、EUの5.9%、日本の12.7%と比べたら、カナダはまだくしゃみをしている程度と言えるかな。カナダの銀行は自己資本率が10%と、世界のどこよりも高くて、そう簡単には潰れない健全な水準にある。
こういうニュースを、アメリカは終わった、カナダはもうダメ、韓国の破綻は近い・・・と、他人の失墜を言い募って悦に入っている仮想的有能なんちゃんねらがきいたらどう思うんだろう。灯台下暗しというけど、いい大人が子供の服を着たような「かわいい大使」なんて任命して、のんきにロリコン文化の輸出促進を図っている場合じゃないでしょうが。ま、もうそれしか輸出するものがなくなったのなら、しょうがないかもしれないけど、それにしたって・・・。
旅行ガイドに載らない写真
3月3日。旅の楽しみはたくさんの記念写真だろう。名所史跡を背景に写真に納まって自分の足跡?を記録する人もいるし、自分の目で見た名所史跡や珍しい風景を記録する人もいる。お国柄豊かな料理を記録する人もいるだろう。写真がなかった頃はスケッチを残したくらいだから、人間は自分が見聞きしたことを人に見せたくてしょうがない動物なんだろうな。
カレシはかって写真に凝っていた頃、観光地で人間が入っていない写真を撮りたがった。だけど、押し合いへし合いの観光地ではそれは無理ってもので、いつもカリカリしながら観光客の流れが途絶える瞬間を待っていた。極楽とんぼは、史跡や観光名所の写真は本屋へ行けば掃いて捨てるほどあるのにわざわざ撮ることもあるまいと思っているもので、あまり熱心には撮らない。自分の目と心が見たすてきなイメージは自分だけの記憶にとどめて、人さまに見せて回るのはへそ曲がりな写真ばっかり・・・
シドニーにて:
[写真] ホテルからみえる遊園地ルナパーク
[写真] ザ・ロック地区にあった郵便ポスト
[写真] 宴の後は・・・
[写真] 「こっちに来てはダメです。戻りなさい」 - はい、ご親切さまぁ
シンガポールにて:
[写真] シンガポールは今日も洗濯日和
[写真] ミャンマー料理店のデザートメニュー。
[写真] チャイナタウンの石のキティちゃん(おや、口があるぞ)
[写真] ベーカリー。「T」が2つあるのはなんかの洒落?
[写真] 「万引きしてパトカーただ乗りの特賞をゲットしよう!」
ふと目をとめた街角の光景も楽しいけど、植物園では自然の造形美にうっとりすることしばし・・・
[写真] 6枚
春は来るんだってば
3月5日。正午を過ぎての起床。すっかり元の生活パターンに復帰した感じがする。外を見ればぽかぽかとしていそうな青空。もう日曜日は時計が「夏時間」に変わるし、せめてほんとの春が来て欲しいもんだけど、天気予報では週末は雪か雪混じり。おいおい、ママネイチャーは本気なの?
きのう就寝時間ぎりぎりにひと仕事終えて納品したから、今日はちょっと息抜き。といっても、こっちの気も知らずに(といっても知るわけはないんだけど)次々と入ってくる仕事で、カレンダーに書き込んであった作業手順がすっかり狂ってしまったから、ファイルの大きさを見直して、予定の建て直し。手元にある「確定案件」は3つでファイルは4つ。信号待ちの案件が2つ。ふわぁ、ファイルが5つかあ。みんなどこも年度末で、分捕った予算を消化しきれないと、「あら、いらなかったの?」とサックリ削られてしまうから大変。おかげでこっちも毎年きりきり舞・・・
中にはごく普通のマニュアルなのに、Excelをワープロ代わりにしているのがあって、それも文書の幅に合わせて手作業で行を変えてある。翻訳を上書きする方にはこれがめっちゃむかつく。単にExcelしか知らないのかもしれないけど、グリッドがない白紙では不安なのかもしれない。自分の目で見て、自分の手で揃えないと美意識が許せないのかもしれない。でも悪いけど、どう見ても「ばかっぽい」のひと言に尽きる。今どきのオフィスはパソコン育ちの世代がハイテク音痴のおじさんたちに取って代わっているはずと思うんだけど、今でもやっぱり「初めに原稿用紙ありき」で、しかもそれが遺伝子に組み込まれているのかもしれない。なんてぶつぶついいながらWord文書に作り直している間に、確定案件が4件になり、信号待ちも3件。もう知らないよ。盆暮れの交通渋滞もこんなもんかなあ。でも、渋滞して納期遅れってのはまずい・・・
カレシを英語教室に送り出して、ほんのほんの束の間(と言い訳しながら)小町のタイトルだけを眺めて(おもしろそうなのがあるなあ・・・)、組み直した「スケジュール2.0」に従って仕事に手をつける。あ、来週は2009年度の所得税前納の期限があるんだっけ。それから、オフィスの保険も更新しなきゃ。入金状況もチェックしなきゃ・・・と、相変わらずの障害物競走になる。そのうちに、教室から帰ってきたカレシ、家のすぐ外にパトカーが3台も止まっていて、誰かが手錠をかけられていたと報告。え、家のまん前で?やだなあ、もう。(これでも治安は引っ越してきた頃に比べたら格段にいいんだけど。)今メトロバンクーバーではギャングの抗争がまっ盛りで、毎日のようにどこかで銃弾が飛んでいる。メキシコのドラッグ掃討作戦でコカインの供給が激減したせいらしいという話だけど、撃ち合いだけはやらないでちょうだいよね、西部劇じゃないんだから。
それにしても、世の中、金の切れ目で機嫌が悪いのか、荒れるなあ。さかむけ、ささくれ、ひびきれ、ぶっちぎれの彼岸荒れ。冬の後は「春遠からじ」なのに、待てないのかな、やっぱり。浅川マキが『不幸せと言う名の猫』で歌っていた。「もう春なんか来やしない」と。そんなことないってば・・・
二項対立の構図
3月6日。目が覚めたら、ベッドルームが明るい。いやあ、すごくいい天気なのだ。陽だまりの中で思いっきり伸びをしてみたいくらい・・・って猫みたいだけど、あ、極楽とんぼはねずみなのだった。ふむ、ねずみも気持がいいとふゎ~っと伸びをするのかな。ま、すごくいい天気ではあるけど、仕事が積み上がってしまってはお篭りするしかない。やれやれ。せめて小町を冷やかしてから、鉢巻を締めにかかるか・・・。
おや、「子なしは半人前か」。この手のトピックはこれでもかというくらい飽きもせずに出てくる。小町は女の井戸端会議場だからよけいにそうなんだろうけど、よく飽きないなあ。「そうは思わない」といいながらも、自分は子供をもって成長したと「本音」を出す人が多いのは、やっぱり女の敵は女なんだろうな。しまいには、「そういわれる方に問題がある」という書き込みまで出てくる。結局は同じように飽きもせずに出てくる、「結婚していない人は」、「働かない/働く主婦は」、「大学を出ていない人は」、「年収がいくらなければ」といったトピックと同じで、二項対立で優劣をつけることでしか人間の価値を測れない人が多いということなんだろう。裏を返せば、それくらい自分の存在や価値に自信のない人、自己を受容できない人、ひいては自我を確立できていない人が多いということなのかな。自我と言うのは木の根っこみたいなもので、しっかり根を張っていない木はいくら大木に育ってもけっこう弱いもんだけどなあ。
本来すべてにおいて個人差があるはずなのに、それを無視した(あるいは異端視する)「平等」の名の下に横並びを押しつけられるからこそ、他人とは違う自分を求めようとするのかもしれない。だけど、自分が見えていない人にとっては、他人と違う自分は不安なものでしかないんだろうな。よく匿名掲示板に「私のような人、いますか」という一文で締めくくったトピックが出てくるのは、自分を映す鏡を探しているんだろうと思う。つまりは同じような人を求めているわけで、結果として横並びスパイラルに落ち込み、同じ年代、同じ背景、同じ生活環境、同じ趣味の人でなければ、話が合わなくて友だちづきあいが苦痛だと言い出す。でも、もしそういう狭い条件を満たす「友だち」が見つかったとしても、それは友だちというよりは鏡に映った「自分」とつきあっているような感じで、だから
些細なきっかけで嫌いになったりするんじゃないかなあ。
そこに複数のものがあれば、人間は誰だって大きさ、色、形、重さといったいろんな違いを比べてみるものだけど、違いを見分けることと、優劣をつけることとでは次元が違うと思う。優劣をつけるのはどれかを選ぶ必要があるときだけで十分。この「選ぶ」という行為も目的は多岐多様で、選ぶ人がその価値観に基づいて取捨選択するわけだから、結局「優劣」とは相対的な価値判断ということになる・・・というのは、「あばたもえくぼも」という二項共存主義の極楽とんぼの見解だけど、「えくぼはOK、あばたはNG」という二項対立の構図で、「~する自分はえくぼ、~しない他人はあばた」と差別化しなければ落ち着かない人もいる。自分の現状に不満なのか、あるいは自分に対して不安を持っている人なのかよくわからないけど、他人を下げればそれだけで相対的に自分が上がるわけだけど、その他人から見たら逆に下げられているかもしれないな。なんだか、ただでさえ生き難い世の中をお互いによけい生き難くしているように見えるんだけど・・・
さびしがりやのプリマドンナ
3月7日。けっこう風が吹いていたと思ったら、今度は雷らしい。冬の雷って珍しいはずなのに、ここ何年かは1回や2回はあるような気がする。暖かい時期はもちろん雷雨だけど、冬には雷雪というのもあるらしい。へぇ~と思って外を見たら、あら、屋根がアイシングをふりかけたように白い。なるほど、雷雪だったのか、と思ったら実はあられだった。言うならば「雷霰」ってことか(なんて読んでいいのかわからないけど・・・ライサン?)。今さら雛あられでもないだろうけど。
今日は帰国第1回目のディナーにおでかけ。イアンとバーバラとダウンタウンで落ち合って、こちらは旅の体験報告、あちらは孫たちの近況報告。子なし夫婦と子持ち夫婦の組合せだけど、「話が合わない」なんてことはないなあ。子供たちが小さかった頃は自然に子供込み、大きくなるに連れて自然に子供抜きで、もう30年近いつきあいなんだけど。掲示板に載る友だちづきあいの悩みを見るたびに、年令や学歴や生活環境が違うからって、どうしてそんなに苦痛なんだろうなあと不思議に思う。学校時代の仲良しグループでさえ、社会に出てそれぞれにライフスタイルが違ってくると、「話がかみ合わない」と疎遠になってしまうらしいから、友だちて何なんだろうと考えてしまう。友だちづきあいで悩む人たちが「共通の話題がないからつまらない」というのは、とどのつまりはお互いに相手の話や関心事には興味がないってことなのかなあ。
極楽とんぼが「友だち」と思っている人たちは、年はふた回り年下からひと回り年上までの開きがあるし、とんぼと同じ高卒から博士までいるし、人種もいろいろ、独身も所帯持ちも子なしも子持ちもいるし、生活環境も低所得層から富裕層までいろいろで、趣味だって十人十色。それでも会えばいつも時間の経つのも忘れるくらいおしゃべりに花が咲くんだけど、掲示板にこんなことを書き込んだら「みんながそうではないんだから」という反駁が出るだろうな。「そうでない人が嫌な思いをするから言うな」と。つまり「私はそんな自慢たらしいことは聞きたくもない。むかつくからお黙り」と言いたいんだろうけど、そこを「周り(=私)に気を使うのがマナー」と大義名分できれいに包むところが日本流の建前と本音(表と裏)の使い分けなのかもしれないな。
ローカル掲示板でも、「40代、50代」が集うトピックで、たまたま子供たちの高校卒業のプロムの話題で盛り上がったら、とたんに「子供のことしか話題のない主婦たちの会話について行けない。自分にも子供がいるけど、いない(できない)人もいるから気を使って子供の話題は控えているのに、もう少し気を使ってやれないのか」と噛み付いた人がいた。極楽とんぼとしては子なし故にカナダのプロムのことはあまり知らないからすごく興味があったのに、厭味の応酬のうちにプロムの話題は立ち消え。「子供のいない人への気づかい」は大義名分で、ほんとは他人の子供の話などはおもしろくないからやめろと言いたかったんだろうな。ふむ、40代といえば社会的にもいいかげん大人だろうと思うんだけど、さびしがりやのプリマドンナが多いんだろうなあ、きっと。
まあ、せっかくそこまで来た春。Lighten up(力を抜いて気楽にね)。
時計の上ではもう夏・・・
3月8日。日曜日の午前1時59分・・・PCのクロックを見ていると、瞬時に「午前3時」。日曜日から1時間が消えてしまう。年に一度だけ1時間としても、34年間には34時間もの貴重な時間が人生から消滅するってことだなあ。ほぼ1日半。カレシなんか65時間だから2.7日。こうやって見ると、これだけの時間があったらいろんなことができるのにと思って、なんだかえらく損をしているような気になる。だらだらとブログを書いていていいのかなあ。もっとも秋も深まればまた1時間時計を戻すわけで、実際は差引勘定ゼロなんだけど、そのときはよけいに寝てしまうからなあ・・・
そういうことで、今日から「夏時間」なんだけど、外の景色はこんなぐあい・・・
[写真] 夏のオーストラリア、常夏のシンガポールから帰って来たのはたった2週間前。冷蔵庫のドアを見ると、まちがいなく行って来たはずなんだけどなあ・・・
[写真] だけど、デスクの上は・・・
[写真] [写真] あ~あ、ためいき・・・ でも、こうなればまた常夏のどこかへ・・・ね。
え、日本では逆だったの?
3月9日。一夜明けて晴天の銀世界。通勤しなくてもいい身分には青空の下の雪景色は悪くないな。でも、まだ最低気温はマイナスの予報が出ている。バンクーバーにすみ始めて以来、こんなにいつまでもずっと寒い冬ってあったかなあ。ビクトリアでは、平年なら2月の最後の1週間に行われる恒例の「フラワーカウント」が今年は3月23日からの1週間に変更されたそうな。1ヵ月遅れと言うことはそれだけ異常に寒い冬だったという証拠だろう。
午後5時が期限の仕事がまだかなり残っていて気になったのか、けっこう早く目が覚めた。朝食もそこそこに、腕まくりのねじり鉢巻で猛ダッシュ。前回は正確な翻訳に不可欠の重要情報を後出しされて、修正やら追加で頭に来たけど、今度はわりと理路整然としていて、作業は「同時翻訳」よろしくとんとん拍子。だけど・・・ん?おいおい、2009年3月に決算をする年度は「2008年度」じゃなくて「2009年度」だよ。前にも別の仕事で正誤の確認を求めるコメントをつけたことがあったけど、また同じコメントをつけたら、「日本では年度が始まる年で呼ぶので原文に間違いはありません」と来た。ひゃっ、ほんまかいな。英語圏では「年度が終わる年」で呼ぶことになっているんだけど、日本では逆だったとは・・・。
変なところで変なカルチャーショック。ま、日本にいた頃の会社経験が少ないからしょうがないといえばしょうがないんだけど、翻訳者にとっては文化や習慣、歴史的背景、はては言語の根底にある思考パターンの違いは怖い落とし穴みたいなもの。同じ言語同士のコミュニケーションでさえ、考え方の違いによる誤解、曲解が盛りだくさんなのに、異言語だったらひょんなことから「国際的大事件」が起きかねない。極楽とんぼのうっかり訳で第三次世界大戦勃発、なんてことになったら人類にお詫びのしようもないものね。そういうきわどい仕事は翻訳者冥利につきるのかもしれないけど、まあ、とんぼがそういうのに出くわす可能性が限りなくゼロに近いのはなによりかな。
仕事といえば、「MSN産経ニュース」が、20年後の日本はどうなるのかというテーマで『2030年』と題したシリーズを連載している。完結したばかりの第1部は「働く場所はありますか」で、最終回は「会社に代わるもの」。破綻した銀行にかって勤めていた人が「娘たちには学歴よりも職業観を身につけさせてあげたい」と言っている。親に言われていい大学を出ていい会社に入ったのに、その「いい会社」は潰れてしまい、再就職はしたものの働きがいはない。それは自分にやりたい仕事もスペシャリストの要素もなかったから。だから「娘たちには働く楽しさを、喜びを早い時期から考えてほしい」と。この人の言う「職業観」とはまさに「価値観」に他ならない。人生を豊かにするのは大学の名前でも会社の名前でもない、「何をしたいか、何をするか」なのだ。「何をしたいか」と聞けばいろんな職業が上がるだろうけど、「何をするか」を聞いたらどんな答が返ってくるのかなあ。
極楽とんぼの20年後はどうなのかなあ。その頃は82才の私。あんがい今くらいに元気で、まだバリバリの現役で、相も変わらずあちこちに首を突っ込んで「あ~だこ~だ」と言ってるかも・・・
まず自分を愛してあげないと
3月10日。うはあ、さむ、さむ、さむ~。いい天気だけど、玄関脇の窓の外に貼ってある温度計の針は午後になってもマイナス側。ほんとにどえらい冬だという感じがする。せっかく顔を出した庭のチューリップもヒヤシンスも、首をすくめて、うはあ、さむっ!枇杷の木もすごい姿になっているけど、まだ生きているのかなあ。この冬は1950年/51年以来の厳しさらしいもの。
それにしても、マスコミはこの「○○年以来の~」とか「過去○○年で最高/最低/最悪の~」といった表現がお好きらしい。こういう表現のときはあまりうれしくないニュースが多いけど、「○○年ぶりに」という表現になると明るいニュースの方が多いような気がする。まあ、「久しぶりに」と言うと何かワクワクしててぐすねを引くような感触があるから、その流れで「○○年ぶりに」も「待ってました~」というワクワク感を呼び起こすのかもしれない。たとえば、「1982年以来の大不況」と言うと深刻な感じがするけど、「27年ぶりの大不況」と言うと貧乏神が久々に出番だとはしゃいでいるように聞こえてしまう。これが「27年ぶりの大好況」だったら、はしゃぐのはもちろん福の神だけど。
東京都が小中学生や高校生に(試験的に)「自尊教育」をすることになったというニュースがあった。大規模な調査をして「自分のことが好きかどうか」を聞いたところ、否定的な答が多すぎたんだそうな。小学1年生では圧倒的に肯定的な答だったのが、6年生になると半分近くに減ってしまい、中学、高校になると半分以上が「自分嫌い」。何年か前の国際的な比較調査では、「自分は他人に劣らず価値がある人間」と思っているのは、アメリカの中学生が約52%なのに対して日本の中学生は約9%という極端な結果だったという。まずいんじゃないの、これ。子供たちが自分を肯定できない、人間としての価値を感じないというのは、学力低下よりも何よりも国の将来を危うくしかねないくらいの重大問題じゃないかと思うんだけど。
自分という人間が嫌いだったら人を愛することはできないだろうな。たぶん「愛」がどんなものかもわからないだろう。自分の中に自分を愛する「存在」がないからさびしい。さびしいから愛されたい。みんなに好かれたい。嫌われて疎外されるのが怖い。だけど、自分自身が嫌いなんでは、好かれるためにいくら人に迎合して媚びてみたって、ぐったりと疲れて、嫌われている、見下されている、とますます虚しくなるだけじゃないのかな。そうやって精神的に閉塞してしまったら、まずいんじゃないのかなあ。
謙虚さや控えめを良しとする日本文化が一因というけど、「勝って驕らず、負けて悪びれず」というくらいで、謙虚であることは決して悪いことじゃない。西洋文化だって謙虚さは称賛される美徳なのだ。問題は、日本の社会では「謙虚さ」という美名の下で「自己否定」を要求されることだろう。何かにつけて「引っ込め」と叩かれていれば、いくら自己肯定していても、いずれは「自分は本当にダメなのかもしれない」という自己否定に洗脳されてしまう。これはモラハラを受けた人たちが陥るアリ地獄でもあって、そこから這い出すのは並大抵のことではない。モラハラの狙いが相手の自己評価を下げ、自尊感情を剥ぎ取って一個の人格を破壊することであれば、自己否定を強要する文化は集団モラハラ以外のなんでもない。バブル崩壊以後の日本の社会文化に何が起こったのか知る由もないけど、陰湿なモラハラの臭いが漂っていそう。そんな社会で急にどんな「自尊教育」をするんだろう・・・
ポジティブとネガティブ
3月11日。就寝は午前5時。カレシが「もうちょっと」というのに付き合っているうちに4時になり、のんきにナイトキャップを傾けていたら5時になってしまったわけで、これが真夏だったら東の空が白むどころかとっくに日が昇っている頃。仕事が忙しくなってくると、就寝前のグラス片手のひとときが二人にクオリティタイム。話が盛り上がると、1杯のつもりが2杯になって、おいおい、早く寝ないと日が昇っちゃうよ、ということになる。
そんなんだから、目が覚めてみたらもう午後1時に近い。冷蔵庫が空っぽだ。野菜がない。「買出しに行かなきゃ」とカレシ。「えっ、仕事が詰まっちゃって、そんな時間ないよ~」とごねる私。だけど、ほんとに野菜がない。コーヒーもない。ジュースもない。マティニに入れるオリーブもない・・・これは特に一大事。ということで、カレシがパンを仕込んでいる間に小さい仕事を片づけてから、それっと買出し。ど~んと野菜を仕入れて、スーパーでどんとランチの材料を仕入れて、肉の売り場を見たら、大きなサーロインのロースト用ビーフが「お得意様カード」で半額!
帰ってきて買い物を整理しながら「今日はローストにする」と言ったら、カレシは「おお、いいねえ」。「サーロインの大きいのが半額だった」と言ったら、今度は「ふん、どうせ普段の値段を倍にしてから半額にしてるんだろ」。あのさぁ、あんたってほんっとにシニカルな人だねえ。ひねくれてるというか、否定的な性格というか・・・(きのう自尊感情や自己評価について考えていたせいで、ついそんな目で見てしまう)。昔は「ボクの悲観主義はママに似たんだ」と言っていたカレシだけど、否定的な性格ってどうも悲観的な性格とは根本的に違うような気がするなあ。たとえば、悲観的な人は他人を攻撃しないけど、否定的な人は攻撃的なところがあると思う。
カレシはとにかく「否定的」で、そこはパパの方にそっくり。自分のことには否定的にならないところもパパにそっくりで、他の人やものごとのこととなると、どんなポジティブな話でも最後に否定的な発言をくっつけて中和してしまうことが多い。そうしないと何となく不安になるのかもしれない。こっちはそのたびに「また~」と聞こえなかったふりをして笑ってやり過ごすけど、今になって考ると、長い間そういう否定的な発言に振り回され続け、しまいにはキレて怒鳴りまくるカレシに「私は何もまともにできないバカなの」と泣いて謝るようになって、なし崩しに自分を見失っていったんだと思う。
それが翌朝になって、泣きはらした目をこすりながら仕事に向かうと、私ってダメ人間じゃないよね、何にもできないなんて嘘だよね、と叫んでいる自分がいる。だって、何年もひとりでビジネスを切り回しているんだから、無能なはずがない。何年も注文してくれているお客がいるということは、仕事のできを認められているってことじゃないの。そうやってキーを叩いているうちに、ちゃんとやれているじゃないかという自信が戻ってくる。それなのに、カレシがキレると「私はダメな人間」と泣き叫ぶ。どっちが本当の自分なんだろう。私って、やっぱりどこかおかしいんだ・・・
振り返ってみれば、お客さんの信頼という客観的なものさしがなかったらどうなったかわからない危ない状況だったのかもしれない。もしも、出会った頃にカレシの性格を見抜けるだけの人間経験があったら、私の人生は違ったものになっていたのかな。いや、どうもやっぱりカレシが「運命の人」になっていたんじゃないかという気がするなあ。カレシはこの10年に格段に成長したのは確かだけど、パパにそっくりなところは変わっていない。私だって「リスクを考えた上での楽観主義」みたいな、まあ、ちょっとは賢い極楽とんぼになったと思うけど、猪突猛進する性格はやっぱり変わっていないもんなあ。
葦の髄から見える世界
3月12日。朝食のときに、テレビのニュースをぼやっと見聞きしていたら、芸能界のセレブの名前が出てきた。そこでカレシが「そんなのオレは聞いたこともない」とむくれ顔で言うもので、思わず吹き出しそうになってしまった。極楽とんぼだって聞いたことないよ。今どきのポップミュージックにはとんと関心がないもん。ラップだかなんだか、今どきの若い人たちに流行のセレブでしょうが。カレシが知らなくたって、その人がセレブを騙っているってわけじゃないし、別にカレシの価値が下がるってものでもないと思うんだけど・・・。
だけど、そういう人、いるなあ。何かに反論するのに、自分は聞いたことがないから、見たことがないから、自分の周りにはないから、自分の周りはこうだから、誰か/何かがそう言っていたから/書いてあったから、「それはおかしい」、「間違っている」、「ありえない」と言う人。匿名掲示板のように、悩みごとの相談や意見の交換がある場にはたくさんいるなあ。しまいには、知ったかぶりだの嘘つきだのと相手を非難したり、「あなたがそれだけの人間ってこと」とこき下ろしたり。そういうのに比べたら、カレシがテレビに向かって「有名?オレは聞いたことないね」と絡んでいるのは、野次を飛ばしている程度だから笑える。カレシのパパはテレビを相手に本気でキレていたけど、あれは滑稽なはずなのに「怖い」と思ったな。
登録してあるSBSサイトに、とある「日本在住ガイジンのブログ」へのリンクが貼ってあった。こういうブログは、「海外在住日本人のブログ」と同じく星の数ほどあって、それぞれに「情報発信」をやっている。その情報も、異国で暮らしている人たちのそれぞれの目に映ったことだから、程度に違いはあっても必然的に視野が狭い、世界中の人がアクセスできるネットに発信しても、書き手の心は「同胞」に向いているらしいのも共通しているからおもしろい。リンクされたブログ記事は「愚痴愚痴ガイジンのプロフィール」と題して、日本での(自分の)生活の何もかも不満で、愚痴や批判ばかリ言っている外国人に「ここは日本。いやなら帰れよ」とお決まりのせりふを投げかけている。
それに対して、ガイジンを日本人に、日本を欧米のどこかの国に置き換えたら、「愚痴愚痴日本人のプロフィール」という記事になるというコメントが入ったら、「異議を唱えて悪いけど」と前置きして、「昔ロンドンででいろんな日本人の友だちが大勢いたけど、みんなイギリス文化を楽しんでいて、愚痴を言う人はいなかった」という反論が「日本在住イギリス人」から出た。どうやら日本人を妻として、日本に長年住んで、日本をこよなく愛している御仁らしい。日本のことを愚痴る外人は「自分も知っていて」帰ってほしいと言いながら、イギリスのことを愚痴る日本人は「自分の友だちにはいなかった」から、日本人はそうじゃない(日本人は違うんだ)と言いたそうな口ぶり。
夢見心地の異国びいきに多いなあ、こういう人。ある意味で「かぶれ」なんだろうけど、別の角度から見ると現実逃避的な面がある。自分でその国や人の理想像を作り上げて、それに適ったものだけを見たいがために、自ら視野を狭めているようなところがあるよう思う。その理想像と違うものは「自分の周りに存在しない」からありえないってわけか。だけど、自ら作った理想像は崇めるけど、意識的にせよ、無意識にせよ、それに同化することを頑なに拒む人もけっこういるなあ。特に現実逃避的な異国びいきに多そうだけど、あんがい同胞たちに理想郷に住む自分を見せたいという、一種のブランド崇拝にも似た意識が深層にあるのかもしれない。だから自分の理想像を守るためには、現実は敵なのかもしれないな。
世界はひとつだけど、その中には人間の数だけ小さな世界があって、でも、つまるところはみんな似たり寄ったりってことなのかも・・・
13日の金曜日!
3月13日。さあ、仕事だ、と勢い込んで仕事場に下りて来たら、あ~ら、PCまだ動いている。寝る前にちゃんとシャットダウンしたはずなのに。でも、モニターには何も映っていない。パワースイッチを押してもオフにならない。モニターがオンのままで何もデータがないということは、システム自体はシャットダウンしているってことかなあ。きのうはいたって正常だったのに。まあとにかく、バックアップ電源を切って、5つ数えて、電源を入れ直して、PCを立ち上げてみたら、なんだ、どうやら正常らしい。やれやれ、脅かすなよ、この忙しいときに。
それにしても、ナノ秒単位で回る世の中になると、こういう「故障」のインパクトは昔の比じゃない。昔パルプの生産データを毎日ニューヨークのデータ処理センターへ送っていた。今から31年前の話で、社長のデスクくらいもある「コンピュータ」で、LPサイズのフロッピーにデータを落として、電話で相手を呼び出して、ビデオデッキ3つ分くらいの大きさのモデムを使って送信する。つながって送信が始まると、「ポッケン、ポッケン」と間の抜けた音がする。ニューヨークでの処理がすんで、その日の集計データが出ると、今度はこっちの電話がなって「今から送りま~す」。フロッピーをドライブに落として、また「ポッケン、ポッケン」とのどかなデータ通信。当時のモデムのスピードがどれほどだったのか知らないけど、パカパカパカとテレックスを打った方が早かったかもしれない。(今の人はきっと「テレックス」なんて聞いたこともないだろうなあ・・・)
その送信がうまく行かないときはニューヨークに電話して担当のメアリーと相談するんだけど、あるとき、回線にザーザー、ガリガリとすごい雑音が入って、メアリーの声はアメリカ人がよく語尾につける「Huh(ハ)」しか聞き取れなかったことがあった。次に比にメアリーに「あなたのハ、ハしか聞こえなかったの」と言ったら、「こっちもあなたのエ~、エ~しか聞こえなかったわよ」との返事。「Eh(エ~)」」というのは「Huh」のカナダ版のようなもので、言葉尻につけていろんなニュアンスで使われる。日本語だと語尾に「ねぇ」とか「なぁ」とつけるようなものかな。高い長距離電話で、北米大陸のあっちとこっちで「・・・(ガーガー)ハ?・・・(ザーザー)エ~。・・・(ガリガリ)ハ」と言うやり取りをしていたわけで、あんまりおかしくて、二人とも仕事そっちのけで笑い転げたっけ。
たった31年前のことなんだけど、あの頃生まれた赤ちゃんが今ではもう30代。いい大人といわれる年代であることには変わりはないと思うけど、コンピュータ室に首を突っ込んで、「ポッケン、ポッケン」という雨だれのような音を聞いて、「お、来てる、来てる」と安心してコーヒーを飲んでいた時代とは天と地ほども違うハイスピード時代。ひとたび故障が起これば、即時に速攻で対応しないと世の中が立ち往生してしまうから、み~んなナノ秒単位でバリバリと仕事をしているんだろうなあ。うん、極楽とんぼも、気合を入れて猛烈ダッシュしないと、置いてけぼりを食うかも。
カレンダーを見たら、あら、今日は13日の金曜日。そっか、幻の黒猫が通ったんだ。だけど、朝からやだなあ、なんだか。聞くところでは、今年は13日の金曜日が3回もあるんだとか。や~ねえ。でも、最終回は11月だから、それまでの間にうんと幸運とため込んでおこうかな。
評論家はうるさい
3月14日。オフィスのすぐ外の壁にかけてあるスケジュールボード。その日のマス目には矢印のポストイットを貼って、1日が終わるごとに日付を消して、1週間が終わったら5週先の1週間の日付を書き込む。誰かの来訪があるときは黒、二人で出かけるときは青、カレシだけのイベントは緑、極楽とんぼだけのイベントは赤と、マーカーの色が決まっている。もっともカレシはそんなことにはおかまいなしで、どれでもまっ先に手にしたマーカーを使うもので、混乱が起きることもあるけど、まあまあ予定表の機能は果たしている。
いつもほぼ1ヵ月先まで見えるわけで、なんだか先へ先へとせかされているような気もしないではないけど、クリスマスにはツリーの絵、誕生日には花丸と言うように、特別の日には特別の「印」をつけておけば、楽しみに待つ気分になれるというもの。ボードに載った次の季節のイベントは「復活祭」。今年のグッドフライデイは去年よりぐんと遅くて、4月の10日。イースターのチョコレートを買い忘れないようにと、ウサギの顔を描いておいたら、カレシ曰く、「テレビのアンテナみたいだなあ」。ちゃんと目鼻を描いてあるのに。テレビのアンテナみたいって、そんなのいつの時代の話なんだか。フリントストーン氏じゃあるまいし・・・。
だけど、丸い顔と長い耳だけじゃ、やっぱりちょっともの足りないかなあ。というわけで、ちょこちょこっとグレードアップ・・・。[写真]
おりしも通りかかったカレシに「これで文句あっか~」と言ったら、「この赤い花はポピーかい?ポピーは11月じゃなかったっけ?」 あのぉ、それはチューリップなんですけど。黄色いマーカーがなくて水仙を描けないからチューリップにしたの。しげしげとながめたカレシ、「しおれちゃってるよ、このチューリップ」。おいっ、こらっ!
漢字は難しい感じがする
3月15日。そんなに夜更かしをしたわけでもないんだけど、目が覚めたら午後12時半。外を見たら、ありゃ、ま~た雪が降っている。でっかいぼた雪がわんさ、わんさ。はあ、下界はまだ冬なのに、体だけはさっさと春の気分で春眠暁を覚えずなのかな。これじゃあエコーのバッテリを充電するための遠出は中止だねえ。まあ、仕事がきつくなるからその方がいいんだけど。
朝日新聞を見ていたら、国会で野党議員が麻生さんが書いたという論文から難しそうな漢字を取り出してきて、「本当にあなたが書いたのか」と迫ったそうな。その漢字12問とは:
就中、唯々諾々、揶揄、畢竟、叱咤激励、中興の祖、窶し、朝令暮改、愚弄、合従連衡、乾坤一擲、面目躍如
極楽とんぼの答は:
??、いいだくだく、やゆ、ひっきょう、しったげきれい、ちゅうこうのそ、??、ちょうれいぼかい、ぐろう、ごうじゅうれんしょう、けんこんいってき、めんもくやくじょ
正解は12問中8問。ざっと67%。いいのかなあ、これで。だけど、今の時代、漢字そのものは読めなくても「言葉」を知っていれば、コンピュータがちゃんと正しい漢字に変換してくれるからねえ。それでも、言葉を正確に知らなければIMEもお手上げ。ちなみに、麻生さんの読み違いで有名になった「みぞうゆう」を入力してみたら、「未曾有優」と出てきた。極楽とんぼはてっきり「みぞうう」と読むと思っていたから、人さまのことを笑っていられないなあ。ついでに、首相の名前は英語だとASOと書かれるから「あそ」さんと読んでいた。「あそう」さんなんですか。これは、失礼をば。
でも、読めない漢字に出くわしたとき、みんなどうしているんだろう。極楽とんぼにとっては、読めなければ和英辞書を引けないから、機嫌よく進んでいた翻訳作業がそこで頓挫してしまう。英語キーボードで英語版のWordにローマ字入力しているとんぼは、そこでIMEパッドを開いて部首を手がかりに漢字を探す。見つかった漢字の上にカーソルを置くと音読みと訓読みが表示されるというしかけで、これで見たこともないややこしい漢字でもけっこう読めるようになるから大助かり。ただし、パッドに表示されている以外の読みがあると、間違えて覚えてしまうだろうな。
読みを間違って覚えていて、それらしい漢字に変換されなかったら、みんなどうしているんだろう。たとえば、麻生さんが「踏襲」と打とうとして「ふしゅう」と入力したら、まず出てくるのは「腐臭」で、次に「俘囚」と、なんだか意味ありげなことになってしまう。いくら麻生さんだって、「あっ、こう書くのか」とは思わないだろう。極楽とんぼも言葉は知っている(はずな)のに、変換候補にはうろ覚えの漢字さえ出てこなくて立ち往生することが多い。そんなときには英和辞書で英語から言わんとする日本語を引いて「正しい漢字」を探す。とんでもない読み方をしていたとわかって人知れず冷や汗をかくこともしばしば。人前で日本語スピーチをしなくていいいことで暴露されずにすんでいるけど、みんなけっこう読み違い、覚え違いはあると思うから、なんとなくアソさんには同情を感じる。まあ、麻生さんの場合は「KY(漢字が読めない)」という単純な問題だけではないんだろうけど・・・