リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

2009年9月~その2

2009年09月30日 | 昔語り(2006~2013)
きっとまた晴れた日に

9月16日。雨。寒い。まあ、天気予報の通りで、そういう天気なんだけど、本格的な雨が降るようになれば、バンクーバーにも秋が来たってことかな。来週火曜日の秋分の日は「公式に秋初日」。それまで残り1週間の夏だけど、9月だからやっぱり涼しいのがあたりまえ、ということで今日は半袖。もっとも、「~になったら~はダメ」といううるさいマナー警察が目を光らせていないから、ワタシのクローゼットの中は夏物も冬物もいつもごちゃごちゃと同居していて、天気に合わせて臨機応変に七変化。

この年齢不詳ファッションで山手線に乗り込んで、井戸端小町の住人に「いい年をして恥ずかしい人を目撃してしまった」とか書かれてみたいもんだと思ったりする。北海道語に(ルーツは東北弁系らしい)「みったくなし」という言葉があって、今どき語の「ブサイク」という意味だろうか。「みったくなしめんこ」というのはさしずめ「ブサカワ」。ブサカワなんて言われたってうれしくないけど(ほめ言葉なのかどうかもわからないし)、みったくなしめんこの方がユーモアがあって、音の響きからしてもかわいいと思う。子供の頃はなぜか母に「みったくなしめんこ」と言われたけど、ワタシの親が自分の子供に向かって「あんたはブサイク」なんて言うわけがないから、あれは絶対にほめ言葉だったんだ。

左利きに関しては「ムカつく」エピソードがたくさん記憶に残っている。嫁に行けないなんてのは序の口で、高校の就職指導の先生から、就職できないかもしれないと言われたし、親のしつけがなっていないなんて失礼な発言は耳にたこができるくらい聞かされた。二十歳のときのバイト先で、自分の意志で左に戻したと言ったら、「親の顔が見たい」と言ったおじさん。女の子が自己決定権を行使するなんて想像もつかなかったんだろうな。あれは一生結婚しないぞと誓った瞬間だったかもしれない。でも、一番良く覚えているのはランチタイムのラーメン屋でのエピソード。ひとりでカウンターに座ってラーメンを食べていたら、「おい、そこのねえちゃん」と大きな声。顔を上げたとたんに「見ているだけでオレのがまずくなる。さっさと食って出て行け!」と。周りの顔がみんなワタシに集中して、顔に血が上るばかり。泣きたい気持で、(それでも)夢中で食べ終わって店を出たけど、あれは同胞に人格もアイデンティティも否定されたときと同じくらいの屈辱だった。だから、ハンカチに包まれた小さな手と同じに、いつまでも記憶の底のヘドロのように淀んでいるんだろうな。

いつだったか小町に子供の左利きを矯正(やな言葉!)するかどうかのトピックがあって、その中で「お箸は右手で使うのが日本のマナーです!」といきり立っていたおばちゃんがいた。「お箸」は奥ゆかしい日本の伝統なんであって、それをルールを無視して左手で使うなんて到底許せない犯罪だとでもいいたそうだった。あのトピックには「左利きはマナー違反」だとか「見苦しいから迷惑」だとかいう「ぎっちょ撲滅論者」があまりにも多くて、見たくないものを見てしまったみたいに背筋がぞ~っとしたけど、う~ん、ラーメン屋でのあのおやじには顔に熱いラーメンをどんぶりごとばしゃっとぶっかけてやればよかったかなあ。人格否定もいい加減にせんかぁ~ってね。いや、気が強くなった(といわれる)今の方がますますそうしたい衝動を感じる。ひょっとしてあぶないかな、これ。

第二次大戦中のイギリスに、軍の恋人といわれて、兵士や銃後の市民の士気をかきたてた女性歌手がいた。ヴェラ・リンとうのがその名前。1917年生まれで、今年92才。若い頃よりも美人になって見えるくらいのすてきなおばあちゃん。懐メロどころじゃないくらいの『We’ll Meet Again』という戦争中の大ヒット曲の入ったアルバムがなんと今イギリスのヒットチャートでビートルズのリマスター版や今どきのロックグループを尻目にトップになったというからすごい。まあ、イギリスでは、パンクっぽさが売りものだったバイオリニストのナイジェル・ケネディの「四季」がポップとクラシックの両方で同時にチャートのトップになったり、たまに「ええ~、なんで?」という現象が起きるからおもしろい。

「また逢いましょう。それがどこか、それがいつかは、わからない。でも、きっとまた晴れた日に逢える・・・」。ドイツの猛烈な空爆に耐え抜いたイギリス人の深層にしみついているこの歌が70年後の今になって再ヒットした理由は、「イギリス人は自分のアイデンティティを確かめたくなったのだろう」ということだった。イギリスがイギリス人のものだった古き良き時代への憧れというところなのか。いろんな人種が住み着いて、イギリスがイギリス人のものでなくなってしまったのか。そういえば、アメリカでも医療保険制度の改革を進めるオバマ大統領に「私のアメリカを返して」と叫んだ女性がいた。迫害を逃れて海を渡って来た人たちが築いた国だから、アメリカ魂は権力の干渉に猛烈に反発する。「アメリカ人」というのは自らの意志で星条旗に忠誠を誓って「なる」ものだから、多様性の押し付けとさえ感じられる多重文化主義の下で、アメリカはアメリカでなくなりつつあるのか。ま、みんなどことなく疑心暗鬼の不安に苛まれている時代なのだ、今は。

頭痛の種はだれなんだ

9月17日。猛烈な頭痛で目が覚めた。首筋もこちこち。きのう夕食の前に終わった仕事を送り出してからは、次の入稿予定の週末まで「お休み」なんだけどな。とにかく頭の中がごっちゃごちゃにかき混ぜられたような、頭のてっぺんを大きな手でごりごりと締め付けられるような、そんな頭痛。いつものタイミングで血圧を測ったら111/76。おお、上がってるじゃないの。さては、きのうの瞬間風速100メートルくらいのストレスのせいかなあ。ま、ほんの瞬間風速程度のことで、夕食の頃には何ごともなかったようにいつもの2人に戻っていたけど、寝る頃にはどうしようもないくらいの疲労感があった。

原因はどうあれ、これはまたえらい頭痛で、考えることもままならない。しょうがないから、オフィスのソファに横になったら、そのまま2時間くらい眠ってしまった。カレシはやたらとラブラブモードで来る。ははあ、罪悪感にちくちくとやられているらしい。実はカレシがストレスになると無意識でやる「人を試す」行動がぽろっと出て、ひともめしたのだった。でも、この行動パターンは夫婦げんかで解決できるものではないので、ワタシは「好きにしなさい」と突っ放して終わりにするんだけど、その過程で瞬間的に胸がむかついて、吐きそうになることがある。きのうはそんな場面だった。吐くことはなかったけど、ものすごいエネルギーを一瞬のうちに吸い取られたような感じがした。それで疲れて、緊張したままで眠ったから頭痛が起きたというところかな。眠ったら軽くなっていたのでタイレノルを1錠。今日はカレシに甘えまくってやるぞ~。

だけど、やってほしくないことや、やってもらっては困ることで「好きにしなさい」と突っ放すのはけっこう難しい。それがトラウマにつながるようなことだと、もっと難しい。カレシの場合は未だにママに対する交錯した感情に支配されているところがあるから、普通の奥さんのように小言をいうわけにいかない。おまけにワタシは元々人に文句を言うのが苦手らしいし、方やカレシの方は本音を言わないで気持を婉曲にほのめかしたがる、なんとなく日本的なところがある。まあ、どっちかというと、普通の犬も食わない「夫婦げんか」が成立しにくい二人だってことかな。

そこで、「好きにしなさい」と、必要以上の口は出さずに「げた」を預けると、カレシは自分で考えて始末をつけざるを得ない。いい年なんだからあたりまえだと言われたらそうなんだけど、まともな「おとな」の手本がなかったカレシにとっては大変な努力がいることだし、ワタシだって手も口も出したくなるのをがまんするのはけっこう大変なのだ。あんがい、好きでなければできないなあとも思う。でも、どうして女って男を「育てる」ことになってしまうんだろうなあ。ワタシは誰の「母親」でもないんだけど。

まあ、夜には頭痛も治まり、血圧も(下がらなくてもいい数値なのに)下がってくれた。やれやれ。英語教室から帰って来たカレシの発案で酒屋へワインの買い出し。空き瓶12本を返して、新たに18本。切らしていたレミ(VSOP)も追加。カレシが「XOも買うといいよ」とやさし~く言ってくれたので、「そ~お?いいの~?」と(しおらしく)言いながら(いそいそと)XOも追加。「いいじゃないか。いつも仕事、がんばってるんだから」とやさしいカレシ。(そうそう、大黒柱は大切に磨いておかなきゃねえ。)今夜はジャズでも聞きながらレミを傾けて、ゆっくりクオリティタイムしようね!

日本語は変わってしまったの?

9月18日。なぜか首筋の凝りがとれなくて、寝ていて頭痛で目が覚める。位置を変えてまた眠りに着くけど、また頭痛で目が覚める。いやだなあ、こんなの。いろんな痛みには医者がびっくりするくらい耐力があるワタシだけど、頭痛だけはいやだ。なんといっても思考経路がごちゃごちゃになるからいや。なんとなく頭痛が遠ざかったような感じで起床したのは正午過ぎ。今日はけっこう忙しい日なのに。

カレシがたまにはベーコンを食べたいなあというから、ジャガイモを千切りにして、フリーザーに残っていた少しのベーコンも千切りにして、いっしょに炒めたら、なんとなくベーコン風味のハッシュドブラウン。これに目玉焼きをつけて、う~ん、ちょっとコレステロールが高そうな朝食だけど、ま、たまにはおなかにどんとたまる朝食もいいな。脂身がたくさんついたサイドベーコンを食べたのは4ヶ月ぶりかな。おなかがハッピーになれば、頭痛で寝不足の苦難もいずこやらで元気百倍。ほんとうのおいしいもの好きはけっこう単純においしいと思うものが好きなんだと思うけど。

今日は久しぶりにダウンタウンへ出て、HマートとIGAへ行く日。IGAは半年ほどとんとご無沙汰のお気に入りナンバーワンのレストランのとなりにある。魚は二階。う~ん、今日はあんまりおもしろいものがない。(エキゾチックな魚がないのは景気のせいなかな。)それで、冷凍の鴨の足を4本と胸肉を1枚。小粒のホタテとエビのミックスを1袋。ホタテは火を入れたらもっと小粒になるから、キャベツロールにでも使おうか、それともすり身にしてクネルにしようか。Hマートは魚の売り場が肉と入れ替わっていた。おじさんが「サバはどうだ」と売り込み。かき氷の上に大きなサバがごろごろしている。魚のパックの棚の前でイカのパックを品定めしていたら、同じおじさんが「韓国では1分だけ熱湯にいれて、このソースで食べるんだよ」と、横の商品棚にあるソースのびんをさして売り込み。がんばってるなあ、おじさん。うん、今度試してみるからね。

今日の「収穫」はしめじにまいたけ、大豆もやし、まぐろ各種、サーモンとたこの刺身、半干しのからふとししゃも、アルバコアまぐろ、キハダマグロ、イカ、それと(なつかしい)ほっけの開き。ついでに英語表記で「とろのさく」というパックを買った。まぐろなのは確かだけど、「さく」って何だ?まあ、買って帰って、ググって見るか。後はチヂミのミックスと一緒に入れる豚肉の薄切り。これは真夜中のランチ用。好きだった韓国のインスタントラーメンはお買い上げ中止。成分表を見るようになって、アジア食品の塩分の多さにびっくりした。ちょっとした量で1日のナトリウム許容量の半分くらいは軽く行ってしまう。普通に食べるだけでも毎日すごい量の塩分を取っているんだろうなあ。

カレシが「韓国スーパーにしては、日本語しゃべっている人が多いなあ」という。え、そうなの?チャパツ、金髪ですごく気合の入ったファッションの若い女の子たちがかなりいて、日本人かもとは思ったけど、会話が日本語らしくなかったので違うと思っていた。でも、気をつけてみると、たしかになんとなく日本語のような・・・。くぐもった話し方のせいか、それともワタシが日本語が耳から入って来ることがないせいか、頭の日本語中枢が「日本語だ」と言ってくれなかったんだ。日本語に聞こえなかったと言ったら、「ボクにも昔聞き覚えたのと違って聞こえる」とカレシ。う~ん、言語はどんどん変わるから、「イマドキ日本語」がわからないだけなんだろうけど、それにしても、そばでしゃべっている日本語が日本語に聞こえなかったなんて、ありえるのかなあ。神かけて誓って、ほんとに日本語として聞こえて来なかった。きっと日本語が変わってしまったんだ。ま、読めさえすればいいんだけど、う~ん、それもときどき読めなくて困るようになって来たなあ。やっぱり、日本語の方が変わってしまったんだ。ワタシの日本語は35年変わってないんだから、それしか考えられないでしょ?

それはともかく、フリーザーがいっぱいになったところで、日本では大連休だというのに、ぞろぞろと入って来た仕事をなんとかしなきゃ。仕事戦線は少し静かになるかと思ったんだけど、どうもワタシのあては外れっぱなしだなあ・・・

人間の体と自然の摂理

9月19日。起きてみたら、首が回らない。あ~あ、頭痛のおかげで緊張して寝てたのか、左側が突っ張っているから、左側を振り返ると痛い。しょうないなあ。脊椎というのは上の方でも下の方でも、いったん傷めると、もう一生もんみたいなことになるからやっかい。なにかというと「古傷」が痛みだすから切ない。ワタシが頚椎を傷めたときは、ずきずきがんがんする痛みが頭の後ろからてっぺんを回って、鼻の先まで響いてきて、若い頃にやった偏頭痛の痛みどころじゃなかったし、おまけに目も鼻も凍ったように冷たくなって、自分が自分でない感じだった。あの痛みが今でも首のコンディションが悪くなると戻って来る。ワタシはほんとうにドクターに叱られるくらい痛みに鈍感なんだけど、頭痛だけは別の話。特にあの頭痛は考えるだけでもいやだ。

ワタシが第二頚椎を傷めたのは23年前の日曜日の朝。ベッドでごろごろしていて、咳き込んだはずみに盆のくぼのあたりがギクッ。そのときは気にならなかったのが、日が経つうちに頭痛が始まり、吐き気が始まり、寝ていても猛烈な頭痛で頻繁に目を覚ますようになり、しまいに左腕に力が入らなくなって、マヒしたようになった。そこでやっとドクターに行って、頚椎がずれていたとわかって、処方箋をもらって行った物理療法士のところで「頚椎マニピューレション」という療法をやることになった。メアリさんという小柄な女性の療法士が、「怖いことはありませんから」とか何とか言いながら、ワタシの頭をつかんで「えいっ」とひとひねり。一瞬びっくりして息が止まったけど、頭は納まるべきところに納まったらしい。メアリさん曰く、「頭ってすごく重いのよ。中身にもよるけれど」。ワタシの頭がどれくらい重いか知らないけど、それが台座からごろんと落っこちかけたってことだなあ。

自分の頭がごろりと落ちるさまはなんとなく漫画チックな感じがするんだけど、自分でそんな想像をするのは気分のいいものじゃないな。(想像してくれる他人様はいるかもしれないけど、想像に留めておいてくれれば、ワタシとしては御の字・・・。)まあ、頭がうまく納まったら、手のしびれは即解決。後は首の筋力を鍛えて落ちないようにすればいいということで、けっこうまじめにトレーニングをしていたら、何年かの後にはごく普通の(西洋)枕で寝られるようになった。(ちなみにいつでもどこでもできる最も簡単な首の筋トレは、手のひらを耳とこめかみのあたりに当てて、肘をはって頭とおしくらまんじゅうをする方法で、ワタシは両側に手をあてて、右、左、右とやる。)

あちこちに故障が起きるたびに、人間の体というのは実によくできているなあと思う。あまりにも精巧なもんだからいろいろと不具合も故障も起きるんだろう。ひょっとしたら神様の設計ミスじゃないのかと思うようなところもなきにしもあらずだけど、生活環境は日進月歩で進歩したのに、体の機能はまだ原始時代のプログラミングのままでアップグレードされていないせいかもしれない。人間が追求してきた便利性を達成した結果に人間自身が追いつけていないってことかな。まあ、人間の英知が生んだ便利性を享受すると同時にその便利で快楽的な世の中が生み出すいろんな要求を満たそうとしているうちに、人間の体に不具合や故障が起きているとしたら、皮肉な状況と言える。ジャンクフードをたらふく食べて、体を動かさない今の子供たちは、おそらく人類史上初めて親よりも短命な世代になるだろうというニュースがあった。だから、ワタシはいつもほざいているのだ。人類は二十世紀のベビーブーム世代をもって種としてピークに達した、と。

何でもかんでも抗菌グッズでバイキン退治をやり、何でもかんでも抗生物質を飲んでいれば、人間は無菌ネズミになってバイキンへの耐性がなくなり、常に抗菌剤にさらされるバイキンたちは逆に毒への耐性を持つようになる。何でもかんでも薬が解決してくれるとなれば、人間は予防を忘れる。予防策があまり楽しくないことだったらなおさら。そこへ治療法や予防ワクチンがまだない病気が登場したら、安穏すぎて精神的にも耐性のなくなった人間は右往左往して、コミカルな場面があちこちで起きる。人類が自滅しないためにはもうちょっと自然の摂理に寄り添ってみたらいいんじゃないかと思うけど、そんなことを言うと、都会の(エコ、グリーン、ロハスその他諸々)ブルジョワ活動家がしゃしゃり出てきて、なんだかんだと「指導」したがるからうっとおしいったらない。うっとおしさでは対極にある広告メディアと同格だという感じがする。ま、ここは自分でいいと思うことを自己流でやるだけにしておこう。ワタシは活動家ってタイプじゃないし・・・

カルチャーショックの話

9月20日。いい天気。正午に起きてみたら、ポーチの温度計は摂氏16度。うん、さわやかでちょうどいい気温だな。朝食の後にやり残した仕事の仕上げ。この不況で企業も出費をケチろうとして、前の年の決算報告と違っている部分だけを抜き出して来たりする。(翻訳業界にはTRADOSというお高いソフトが幅を利かせていて、IT分野のマニュアルなんかはとっくにそういう方向へ行っている。ワタシはIT分野は好きじゃないから、TRADOSがないことを「IT仕事お断り」の口実にしているんだけど、企業の決算報告には使えたかなと思ったりする。ま、再インストールする気はないけど。)抜粋ファイルもやる気が上がらないときは作業量が見積もりよりぐんと減るからうれしい。今日のファイルは当初の2割。おりしも日本は長連休。連休明けが納期の仕事はあるけど、丸2日は遊んでいても大丈夫そう。しめしめ。

送信し終わったところで午後2時。さて、休み・・・といっても、ここのところ頭痛に悩まされていたから、結局はごろごろモード。ネットをぶらぶらと漫遊。ブックマーキングサイトには「カルチャーショック」に関するWikipediaの記事へのリンクが投稿されていた。記事によると、人が異文化の環境に入って折り合いをつけるまでには3つのフェーズがあるんだそうな。最初のフェーズが「ハネムーン期」。何もかもが珍しくて、何もかもがすばらしくて、興奮状態のとき。これはほとんど誰もが経験するだろうと思う。初めてカナダに来て、日本へ帰ったワタシはカナダかぶれして、えらい興奮状態だったと思うな。でも、この「ハネムーン期」は比較的短くて、次に来るのが「通過期」とでもいうフェーズ。興奮が覚めたところで、文化や環境の違いが見えてくる。ホームシックにもなる。新しい環境の何もかもが嫌いになって苛立つ人も多く、うつ病も起きやすい。で、この時期を乗り越えると「適応期」とでもいうフェーズが来て、異文化に慣れて目新しいことがなくなり、生活は「日常モード」になる。

この最後の「適応期」に、異文化になじめず、同胞で固まって「ゲットー化」し、元の習慣に戻る人たち(「拒絶型」)が60%、完全に同化して新しい文化を全面的に取り入れ、元のアイデンティティをがなくなる人たち(「順応型」)が10%、元の文化と新しい文化をブレンドしてどこにでも適応できる独自の「文化」を創る人たち(「コスモポリタン」)が30%いるんだそうな。人によっては3つのフェーズを全部通らないことがあると書いてあるけど、たしかにその人の性格によってはそれぞれのフェーズをスキップしたり、次のフェーズに進めなかったりするだろうな。一番立ち往生しやすいのは一番きつそうな「通過期」だろう。記事ではだいたい6ヶ月から1年で最後の「適応期」に入ると書いてあるけど、小町やローカル掲示板には、10年、15年と外国に住んでいるのに、その文化も人も何もかもが嫌いでイライラ、鬱々としている人たちが登場する。せっかく結婚した外国人ダーリンまで嫌いになった人もいるけど、こういう人たちは「通過期」を通過できないでいるということなのかなあ。

カレシはボランティア先生をしている英語教室でいろいろな国から移民してきた人たちに出会うから、話を振ってみたら、カナダに来てからの年月と適応レベルにはどの民族でも大きな個人差があるけど、ある程度パターンみたいなものもなきしもあらずという返事が戻ってきた。新しく入ってきた韓国人の生徒は「通過期」の真っ最中のようだし、英語が不自由でも胸を張って「私はカナダ人」という人たちもいる。そうか、嫌々ながら住んでいる人たちは、あんがい一応「適応期」に入ったけど「拒絶型」になったのかもしれない。で、うまく行かないのは言葉の壁、文化の壁、習慣の壁・・・「壁」が通せんぼしているから。あんがい、「来てやった」意識の強い人に多いのかもしれないけど、そうやって外に原因を求めていたら、足が止まったままになるんじゃないのかな。まあ、これも人それぞれの性格や視点だから端から口を出すことじゃないか。だけど、記事によると、この「拒絶型」の人たちが、故国へ帰ると逆カルチャーショックになって、一番再適応しにくいタイプらしい。う~ん、それではどっちにも居場所がない根なし草になってしまわないのかなあ。

そういうワタシはというと、「ハネムーン期」からそのまますんなりと「適応期」に入って、その間の「通過期」があったという記憶がぜんぜんない。こういうと(日本人に)いつも胡散臭そうな目で見られるんだけど、ほんとの話だから他に言いようがないのだ。まあ、風景が生まれ育ったところの風景に似ているし、なによりも水が合い、空気が肌に合っていたからそういう流れになったんだと思う。水が合いすぎて、「適応期」の3つのパターンの中では「順応型」に当たるんだろうな、きっと。独自の文化を持っているのかどうかは不明だけど、今ではどこへ行ってもかなりうまく機能できる自信はある。だけど、それは「旅行者」としてだけのことであって、こと定住するところに関しては「コスモポリタン」という感じじゃないなあ。でもまあ、こういう通過儀礼みたいなフェーズは一世の世代だけで、二世から先はみんなカナダ人。そうして「カナダ人」という混成民族ができるのだ。ローマは一日にして成らず、だからね。

地下鉄に初乗りした

9月21日。今日もいい天気。念のためにタイレノルを飲んで寝たせいかもしれないけど、頭痛に何度も眠りを破られずにぐっすりと寝て、気分は爽快、元気回復。ちょっと上がり気味だった血圧も普通のレベルに戻った。睡眠が足りないと肥満になりやすい(寝ない子は太る?)だけでなく、血圧も上がって心臓血管系の病気になりやすいという記事があったばかり。頭痛のおかげでろくに眠れないでいた数日はたしかにワタシのレベルとしては高めだったから、なるほどと納得。人間の体ってその機能そのものが健康状態のバロメータということか。だからこそ日々のモニタリングが健康管理の基本かも。毎日ほぼ魚ばっかり食べていたら、おなかの辺りがきつくなりつつあった(北米サイズ)4号のジーンズにゆとりができた。着るものを買い替えなくても良くなったということで、とりあえずバンザ~イ!

午後2時で気温は16度と、さわやかな「夏最後の日」。明日の秋分の日からは公式に「秋」なのだ。今日は仕事をしないと決めた日。カレシが地下鉄に乗ってWhole Foodsへ行こうと言い出したので、開通1ヵ月にして初乗りということになった。家から駅までは歩いて10分程度。半袖のTシャツとジーンズにクログ、トートバッグのいでたちで、いざ出発。カレッジの前を通ると、連邦政府の「景気刺激策の対象」みたいな看板が立っていた。そっか、新しい図書館を建てる計画らしいから、そこに政府からの資金が来るんだろう。(いずれは大学への昇格を目指しているのかな。)

ただの四角いコンクリートの箱のようなランガラ駅の階段を下りて、切符を買う。バスには十年も乗ってないし、切符のマシンを使ったのは何年も前のこと。新宿駅での立ち往生のようなことはないだろうけど、うまく行くかな。カレシは割引料金だから、一枚ずつ買うのかなと思いつつ画面を見たら「複数の切符を買う」とある。ポンとタッチしたら普通料金と割引料金のスクリーンが並んで現れた。1ゾーンだから、ワタシは2ドル50セント、カレシは1ドル75セント。それぞれ1枚と入力したら、合計額が4ドル25セントと表示されて、キャッシュかカードで払えと指示。2ドル硬貨を2個と25セント硬貨を1個入れたら、下の取り出し口に2枚の切符が落ちてきた。うん、簡単だ。切符は同じゾーンなら追加料金なしで90分間乗り放題の乗換えのし放題。写真の切符に印刷されている「04:30P」は午後4時30分まで有効ということ。[写真] 切符

改札口がないから、ダウンタウン行きのそのまま手前に見えているホームに直進。右手の階段を下りるとリッチモンド/空港方面。すぐに2両(!)編成の電車が来た。(平日の日中は4分おき。「何時何分」という細かな時刻表は交通機関が電気バスだけだった時代からあったことがない。)写真では小さい電車だなと思ったけど、乗ってみると、まあ普通の「電車」。コンピュータ制御の無人運転だから運転室がなくて、進行方向の窓から線路が見える。両側にドアがある部分の中央には、シドニーの電車にあったのと同じ、四方から使えるつかまり棒がある。自転車を押してそのまま乗れるように、専用スペースもある。車両の中央部分は2人席が並び、両端は窓に沿った長いシートで、端にスーツケースをおけるスペースも作ってある。うん、まずまずの印象だな。

Whole Foodsがあるのは3つ目のブロードウェイ駅のすぐ斜向かい。所要時間は12分だから、買い物の時間は正味70分程度かな。かなりのゆとりで買い物をして同じ切符で帰って来れるわけで、パーキングメーターの料金とあまり変わらない。駐車するところを探して、止めて、そこから店まで歩かなければならないことを考えると、気分的にもかなりのゆとり。オーガニック野菜や肉、健康食品がメインの、いわばブルジョワ趣味的なスーパーだから、さすがに野菜や肉は高いんだけど、普通のスーパーにないものがあるからやめられない。今日の「収穫」は黄色のビーツと3色のプチトマト、大きなオクラ、乾燥ベリーが入った量り売りのシリアル、白トリュフのペースト。そしてカレシのお目当ての減塩ポテトチップ。自分の袋を使うともらえる10セントのリベートは、「寄付か差し引きか」と聞くから、寄付と言うと、「子供、女性、動物のどれ?」と来た。なるほど、いろいろと寄付先があるらしい。じゃあ、今日は「子供」。この次は「女性」にしようかな。

自分で持参のトートバッグに詰めて、駅へ戻ると、ちょうど電車が入って来たところ。ダッシュで階段を下りて、飛び乗った。こんなの、なんだかえらく久しぶりだなあ。去年の春の東京以来かも。途中ですぐそばの2人がけの席が空いたから座ったら、あら、「高齢者・障害者優先席」と書いてある。どうりで立っている人たちの誰も座るそぶりを見せなかったはず。カレシは「ボクは高齢者だからね」と済ました顔。いつもは「ぼくはじじさんじゃない」と言っているくせに、こういうときはちゃんと「おじいちゃん」を主張するからおもしろい人だ。2駅だけ座って、ランガラ駅で降りた。家についたら午後4時5分。一枚の切符で往復して、買い物をして、有効期限までまだ25分も余っていた。いやあ、便利、便利。

オリンピックには市民生活を無視した態度の傲慢さにむかつくけど、地下鉄というご利益に銘じて許してもいいかな。(う~ん、やっぱり早く来て、さっさと終わって静かになって欲しい・・・。)ちなみに、正式な名称は「カナダライン(線)」。(何でも「カナダ」と命名すればいいってもんじゃないのに)オタワの政府がおとぼけな名前をつけるまでは、リッチモンド、エアポート、バンクーバーの頭文字をとって「RAV(ラヴ)ライン」と呼ばれていた。今でもそう呼ぶ人がかなりいるけど、バンクーバーの南端から先のリッチモンドと空港以外はずっと地下だし、将来ブロードウェイ沿いに計画されている東西線もほとんど地下だろうから、単に「地下鉄(subway)」と呼ばれるようになるんじゃないかと思うな。ま、さわやかな午後の地下鉄初乗り体験の評価は、二人とも「グぅ」・・・。

今日は女王様気分!

9月23日。きのうがんばったおかげで、今日は「休みモード」。もっとも、少なくとも日本で大連休明けの仕事日が始まるまでは、だけど、急にどさっと来そうには思えないから、のんきに構えていよう。秋になったにしては、ちょっと暑すぎないのかなあと思う好天。正午にはもう20度を越えて「夏日」。カレシがイアンと一緒にモールの中にある市立図書館の分館に行くというので、便乗して買い物に行くことにした。バーバラが双子の孫のお守りに夢中なもので、イアンはどうやら無聊をかこっているらしい。(来年はひとりで旅行しようかと思っているというから、一緒に日本に来る?と誘っておいた。)約束の時間にやって来たイアンは、なんとショーツ姿。うん、外へ出ると暑い。へたをすると「真夏日」まで行っちゃいそうだから、ワタシもしっかりスリーブレスだもん。

地下にある図書館へ向かう2人と別れて、モールの中へ。まずはデパートの地下にある郵便局の私書箱を空にして、それからなぜかずらりと広げてある大小のスーツケースを見て回る。十何年使ってきたキャリーオンは重くて持込の重量制限にひっかかってしまうから、ニューヨークへ行くときは軽いのを新調したいな。指の先で持ち上げてみると、たしかにすごく軽い。樹脂のもの、ソフトサイドのものと、近頃はいろいろあるんだなあ。真っ赤なのや銀色できらきらのもある。たかがスーツケース、されどスーツケース。ま、ニューヨーク行きは1ヵ月先だから、まだ急がなくてもいいか・・・なんて考えながら、同じフロアにある食器売り場に回って、四角い小皿8枚とワインのびんにつける真空栓。

膨らんだトートバッグを車のトランクにおいて、別のトートを出して、次はトートに入れて歩けるバッグ探し。ワタシは肩幅が狭いので、トートのハンドルとショルダーバッグのストラップを両方とも肩にかけるのはちょっと荷が重い。すとんと入れられる手ごろなクラッチバッグが欲しい。それが財布とカードケースと携帯と老眼鏡と小銭入れを入れてかさばらない、というスペックなものでなかなか難しい。でも、今日はそれを見つけてしまった。ウィンドウにあった革のクラッチ。さっそく店に入って品定め。ストラップの一端が固定されていて、もう一端はジッパーのタブに止めてあるから、バッグを閉じた状態だとストラップが輪になる。中をのぞいて、うわ、けっこうな値段と思ったら、なんだ、Coachの店か。う~ん、ブランド趣味はないんだけど、大きさも形もぴったりだしなあ、とため息を3回くらいついて、ブランド名が目立たないからいいか、ということにした。(他人の持ち物にチェックを入れてる人にはわかるんだろうけど、幸いそういう人は周りにいないし。)

やっと気に入ったバッグが見つかったところで、スーパーへ。いつもの買い物をしていると、カレシとイアンが現れた。バスケットいっぱいの買い物を2人の男性に運ばせて、お、なんだかいい気分。最後の目的地は野菜と果物。いつものようにそれぞれのバスケットを持って、カレシはイアンとおしゃべりをしながら、ワタシはワタシでいつもの野菜を仕入れ。土曜日にカレシの弟のジムとドナがディナーに来るから、今日は特別に手のひらよりも大きなドラゴンフルーツを買った。ピンクと緑色の取り合わせがかわいい南国の果物。値段は2ドル。大きなトートで間に合わなくて、レジバッグが加わった買い物を、またまた2人の従者?に持たせて、しずしずとお車の方へ・・・なんて、まるで女王様の気分。こんなのはめったに味わえないことだよね。うふふ・・・

夕食がすんでも、仕事前線は静か(あることはあるんだけど、これは来週まで無視・・・)。ニューヨークでの会議の参加登録をして、どっちみちさぼるから全セッションを収録したDVDをプレオーダーして、井戸端小町をぶらぶら。『格差社会是正?』というトピックに興味を引かれて、すごい数の書き込みを全部読むのに丸1時間。議論になっているのか、いないのか。おもしろかったから、もう一度じっくり読み直して、あしたにでも書いてみることにするか。暑かった今日の最高気温はやっぱり「真夏日」の27度だったそうな。あの~、自然のお母様、世はもう秋のはずなんですけど・・・

格差社会って何なんだろう

9月24日。さわやかな秋日和(なんて言葉があったっけ?)のなんとなく静かな木曜日。きのうは(予告のあった)仕事の原稿が入って来なかったので、今日も少なくとも夕食後までは「休みモード」の延長1回。請求書の類の支払い手続きを済ませて、ネットでウィンドウショッピング・・・と、思ったんだけど、結局のところ、旅行用品の店でこれはというカードケースを見つけて、ついでにスーツケースの重さを量る秤も買い、勢いに乗ってトロントの「行きつけ」の店で細々したキッチン用品を買い込み、ついでだからと、LL Beanに「足を延ばして」、カタログで目をつけていたラグビーシャツ模様のトートバッグを買ったついでに、ワタシ用とカレシ用のカスタム仕様のトートまで買ってしまい、そういえば、とColdwater Creekのアウトレットをのぞいて、ちょっとすてきなスカートを4枚。はあ、ワタシにヒマさせておくもんじゃないなあ・・・。

きのう井戸端小町で興味を引かれてまじめに読んだ『格差社会是正?』というトピックの議論を午後いっぱいかけて読み直してみた。要するに、今の日本程度の社会でなぜ格差を是正する必要があるのか、という問いかけ。まず、この「格差」というやつがイマイチよくわからない。人間、「差」があるのはしょうがないことだと思うけど、そこに「格」がついているからには、日本語の「格差」という言葉には「上下の差」といった意味合いが含まれているのかな。日本型のみんな「平(たくて)等(しい)」意識だと、それはきっと耐え難い「差別」なのかもしれない。「格差」が二極の間の「ギャップ」というのであれば、それはそれでまた政治やイデオロギーの力でなくせるというものでもないと思うんだけど。社会主義、共産主義の実験でも「格差解消」の結果は出なかったはず。それどころか、「エリート幹部」と「一般人」の厳然とした格差社会ができて、その自重で崩壊したんだと思うんだけど。

ギャップはいつの世にもある。人間はそれぞれに個性を持っているし、その人間が作る社会の構造上、全員がおしなべてまっ平な平等なんてありえない。問題になるのはそのギャップが野放図に拡大するとき、そしてそのギャップを挟んで人間の位置が固定されてしまう、いわば敗者復活戦のない社会になることじゃないかと思う。(それについて言及する書き込みはいくつかあった。)でも、そういうことは曲がりなりにも人間の知恵と努力で対処できることだと思うんだけど。まあ、何をもって「格差はなくさねばならぬ」、「いや格差はあっていい」と言うのか。何をもって「格差は拡大している」、「いや拡大していない」と言うのか。社会福祉のばらまきは是なのか、非なのか・・・とどのつまりは、論旨がよくわからない。一見して熱心に意見を戦わせているようだけど、それぞれが「自分のふところ」や「自分の身近な見聞」を基準にして是々非々を論じているわけで、これではかみ合いない。

つまるところは、「自分は働いているのに、働かずに得/楽をしている連中はずるい、許せない」という感情が水面下に淀んでいるように見える。結局は、小町の他の横丁でときどき巻き起こる「専業主婦対兼業主婦」、あるいは「こぶつき対こぶなし」の議論が非難の応酬で不毛地帯になるのとあまり変わらないような感じがする。どれも「自分は損をしたくない」という感情が根底にあるように感じるんだけど、穿ちすぎかなあ。共働き夫婦の家事や家計の負担比率をめぐる悩みにも、職場の同僚のでき不出来に関する愚痴にも、他人に対するいろんな不平不満にも、深いところにその感情が潮流のように流れている感じがする。それがどこから来るのはワタシには知る由もないけど、あのバブル景気の社会相に源流があるかもしれないなとは思うんだけど、そのバブル社会さえ、遠く海のこっち側で「踊った人たち」にしか会わなかったので、根拠を出せと言われたら、ぐうの音も出ないけどね。

「身の回りの平凡な日常」を表現したらしい「半径5メートル」とかいう言葉はなかなか才気があると思っていたら、それがどこでどう変異したのか、距離を変えて他人の視野の狭さ、自己中度の高さなどを揶揄するのに使われているようで、やれやれ、なんてネガティブなんだろうと思うんだけど、ひょっとしたら、魑魅魍魎の包囲網が半径30センチくらいにまで狭まっているかも。つま先立ちして水平線の向こうを眺めている乱視ワタシは、あんがい遠視の度が強くなって来たのかなあ。ふむ、自分の半径1メートルくらいの身の回りは、いったいどんなことになってんだろう・・・

まあ、こんなくたびれるトピックよりも、『条件の良い方と結婚したいです』というトピックの方がずっとおもしろい。コンカツだかトンカツだか知らないけれど、今どきの結婚願望というのは、結婚式で使われる誓いの言葉をもじって言うならば、「for better but not for worse, for richer, but not for poorer, not in sickness but in health, to be loved and to be cherished, until money do us part」ってところかな。ま、こと婚活については、おもしろそうだから、別のお日和のいい日に、つらつらと考えてみようか。

20年の総決算はいかに

9月25日。金曜日だ。でも、朝食後一番にメールをチェックしたら、あら、予定の原稿が入っている。日本は金曜日で、送信時間からするとまた残業か。前の仕事の続きだけど、「じゃ、これもね」って感じの追加の上に、「あ、もうついでだから、みんなやってもらっちゃうか」みたいな追々加まで。うへ~。何とかの最後っ屁じゃあるまいし、金曜日のぎりぎりにどんと出しておいて、「では、月曜日の朝一までってことでよろしく」って、もう、やだよ、こういう置きみやげみたいなの。外は天気がいいってのに・・・。

とか何とかぼやいてみても、「ま、いっか」とOKしてしまうワタシのワタシぶりが元凶でもあるから、しょうがないといえばしょうがない。だけど、人間には誰だって生活というものがあるだろうに。もっとも、ちゃんと仕事をして稼がなければ、その「生活」も絵に描いたもち、空を漂うピッツァパイみたいなもんだけど。フリーランス稼業には残業手当もなければ休日勤務手当もない。それどころか、昇給だってないに等しいし、退職金も失業保険もないと来ている。リストラも定年もないのは確かだけど、それは「仕事の切れ目が縁の切れ目」だからこその話。

と、どことなく疲れているのか、それともただの仕事倦怠期なのか、最近のワタシはちょっとばかし仕事に気合が入らないなあ。こっちの方もやっぱり困るなあ。いわゆる「定年」まで、あとちょうど3年と7ヵ月。この年月をまだ長いと見るか、短いと見るか。ま、あっという間に過ぎてしまうんだろうけど、ともそもそと仕事の算段をしていたら、来年の会議の組織委員会から「プレゼン、やりませんか」というお誘いが来た。え、ワタシが会議で「発表」するの?うは~、白羽の矢を立てられたってことなのかなあ。まあ、テーマがテーマだから、テクニカルなプレゼンよりも少しくだけたライフスタイル論みたいなものがいいってことかな。来年早々にはフリーランスの看板を出してから満20周年になるし、こんな長い間ベースメントの「オフィス」で食いはぐれることなくやって来れたなら、ひとつやふたつは若い後輩に伝えることがあるかもしれないし・・・と、舞い上がった勢いで承諾してしまった。し~らない。

置きみやげ仕事を始める前に作業スケジュールを確認しようと、ワークログを開いてアップデートしているうちに、ふと「創業」以来19年と6ヵ月の収入を合計したらいったいどのくらいになるのかなと思った。ときにはそこで思い立ったが吉日になるのがワタシ。仕事そっちのけでエクセルの年度ごとのワークシートに「累積収入」のような欄をはめ込んで、毎年の総収入を累計してみたら、いやあ、「継続は力」なりと言うけど、ちりも積もれば何とかで、細腕一本でも20年もやっていればけっこうな数字に積みあがるからたいしたもんだ、と自分で感心。(商売だから当然経費があるけど、会議参加の出張費を除けばほんとに微々たるものだから、利益率を計算したらすごい数字になりそう。)まあ、20年だから、どえらい「高収入」の年もあれば、かつかつの「低収入」の年もある。それで、なにしろカナダは税金が高いから、がっぽり高収入だった年には、所得税だけで秘書時代の年収よりもずっと多かった。(おまけに、連邦と州から付加税を取られ、稼ぎ時には連邦付加税にさらに付加税を取られて、はああ~)

それで、20年間の事業収入の年平均を小町の井戸端統計に照らしてみたら、もしもワタシが日本で30代の独身男だったら、婚活中の嫁さん志願者の長い行列ができるくらいの好条件らしい。いや、女のままでも、ひょっとしたらイケメン男がアプローチして来るかもしれないな。う~ん、残念だなあ。でも、ほんとに日本にいたら、高卒の「低学歴」のワタシがこんなに稼げるわけがないだろうな。まあ、どこでどう転んで、どうやって起き上がって、結局はどこにどうやって行き着くかわからないのが人生なんだろうなあ。こんなの、プレゼンのテーマにしても、おもしろくはないか・・・

漢字変換狂想曲

9月27日。日曜日。インディアンサマー継続中。機嫌よく起きて、普通に朝食。夏と冬の太陽の高さにすごい差があって、真夏は窓のしきいにしか当たらなかった日差しが、秋になると窓際の床に届き、冬が近づくとテーブルに届き、真冬にはキッチンの反対側まで差し込むようになる。バンクーバーでは夏至と冬至で日の出も日の入りも4時間ずつ違う。つまり、日の出から日没までの昼の長さが、夏至の日は16時間あるのが、冬至には半分の8時間しかないということになる。逆に言えば、冬は夜が16時間もあるということで、正午近くに起き出すワタシにとっては、さっき朝食をしたのにもう夕暮れ空・・・ということになるんだけど、それが苦にならないのは、日照時間が少ないところで生まれて育ったからかなあ。うま~く「もぐら」生活向きにできているのかもしれないな。

仕事はすいすいと調子よく進んだけど、何なんだろうなあ、この誤字の多さは。今はみんなワープロだから、誤字というよりは、かな入力の「漢字誤変換」。日本語には同音異義語が多いから、ワタシだってうっかり誤変換することがあるけど、だいだいその場ですぐわかって訂正できるし、英語のスペルチェックの感覚で読み直せば、間違い漢字を見つけるのは難しくない。日本語浦島花子のワタシにできることを、毎日朝から晩まで(あるいは夢の中でも)日本語一本やりの人たちにできないってことはないんじゃないの?変換候補のトップに出て来る漢字が必ずしも正解じゃないことくらいわかっていそうなもんだけど。変換の「学習機能」のおつむが良くないのは確かだとしても、使っている人は高学歴で頭がいいはずだと思うんだけど。ましてや仕事の文書。急いでいるのか、ただのうっかりなのか、めんどうくさいのか、誤変換がてんこ盛りってのはどういうことかなあ。

もっとも、最近は英語圏でも「ミススペリング」が目に付くし、いい加減な「略語」がまかり通っている。特に文字によるチャットの流行やEメールの普及以来どんどんひどくなっているように見える。言語を尊重する気持が世界的に低下しているということなのか。まあ、人間は誰だって誤字、脱字のミスはするわけで、ワタシだってミススペリング(ミスタイプ)はしょっちゅうで、単語の下に赤い波線が現れたらその場で訂正するんだけど、Officeの辞書にないから誤字扱いされるだけで、スペルは正しいとうこともある。やっかいなのは、文脈ではミススペリングなんだけど文字の順序が入れ替わったりして意味の違う別の単語になったとき。別単語としては正しいつづりなもので、赤い波線が現れないし、スペルチェックをしても引っかからない。この手でよくやるのが、「United States of America」を「Untied States of America」と打って、瞬時に「解体」してしまうこと。オバマさん、堪忍してや。

誤変換は小町の井戸端語にも多いなあ。前にひっくり返るような愉快な誤変換を集めた「駄」トピがあってにぎわったけど、漢字が違っていてはせっかくの辛口レスも嫌味レスも台なし。まあ、ワタシはまだ誤変換の漢字を頭の中で(だいたい)正しい単語に解読できるからいいんだけど、日本語のもの忘れがひどくなったら、どうなることやら。いや、物忘れはもう始まっているみたいで、誤変換の漢字が読めないので解読できないことがある。いや、ほんとうに誤変換なのか、正しい漢字なのかもあやふやなことさえある。うん、これはちょっとまずいかも。まあ、日本在住英語人のブログで同じような悩みを読んだから、異言語圏に暮らしていて、元言語が錆びついたり、異常が起きたりするのも人類共通のことなのかもしれない。英語人の場合はカタカナ語が混乱のソースらしいけど、異国の日本人が日本語を忘れたからといって「外国かぶれ」などとこき下ろしている暇があったら、日本にいる純正日本人には漢字くらい正しく変換してもらいたいもんだ。

人生鉄道、各駅停車か特急か

9月28日。うわ、さむっ!秋風の到来。きのうまで夏を引きずっていたのに、なんで急にこうなっちゃうの、もう?まあ、だけどもう9月も終わりだしなあ。もう10月なんだ。ついこないだまで・・・てのはやっぱり年を食った人間が言うことかな。つまり、そんなことを言うのはワタシも年を食ったということなんだ。生きとし生けるものみんな寿命というものがあって、生まれた瞬間からそれぞれの終点に向かって片道切符の旅。乗り換えは自由だし、途中下車もできるけど、出発点方面行きの電車は待っても来ないのが人生鉄道。急いで快速や特急に乗ろうとする人もいるらしいけど、各駅停車でのろのろと車窓の景色を眺めながら、終点まで乗って見るのも悪くはないかも。

今週は大き目の仕事がひとつ残っているだけだから・・・と悠長なことを考えていたのに、少し大きめのを「う~ん」と気を持たせつつも引き受けてしまったので、カレンダーは日曜日までびっちり。まあ、外は寒いし、雨も降ってきたし(バンクーバーの長~い「雨期」の始まり・・・。)そこへもって、お世話になった地元のお客さんからチャリティディナーへのご招待。創業以来のおつきあいだし、電話でのじきじきのお招きとなれば、むげにノーサンキューと言えない。というわけで、フルにやって5日はかかりそうな作業量だというのに、のんきに「操業短縮」。あ~あ・・・。

小町の『条件の良い方と結婚したいです』というお嬢さんと、『夫の稼ぎが悪い、離婚して再婚したい』という奥さんのその後が気になっていたので、突貫工事で仕事にかかる前にと、井戸端の情勢をのぞいてみたら、やっぱりすごい反響。なにしろどっちも、とにかく金、金、金。婚活中のお嬢さんの方は、(持病とやらで)働けないので専業主婦希望。自分の両親に経済援助をしたいので、「良い給料を頂ける職業」の人を「なんとか捕まえたい」ので、コツを教えて欲しいというもの。一方の40代の奥さんは、バブル華やかなりし頃に結婚した三高夫が会社の倒産で年収が激減。そこへ昔の彼氏が現れて「別れて再婚してほしい」と。年収は良いし、貯金も資産もたっぷりありそうなので、「老後を考えるととても安定し、また充実した生活を送れる予感」がする。ついては、離婚して、できのいい長男だけを連れて再婚し、夫からは月賦で慰謝料を払ってもらうつもりだけど、肝心の現夫が離婚に応じてくれないというもの。うはあああ・・・。

こんな人たちが本当にいるのかなあ。つりネタじゃないだろうなあ。小町哲学によると、「愛だけでは結婚できない。生活するにはお金がいる」んだそうな。そりゃ、いくら深く愛し合っていても無一文では生活できないだろうけど、昔から「1人では生活できなくても2人ならできる」というくらいで、1人でも2人でも同じにかかる出費がひとつになれば、1.5人分くらいで2人が暮らせるんじゃないかな。でも、これは「2人が働けば」という前提条件がついているから、「働かなくていいこと」が条件だったら当てはまらないか。結婚「が」したいというのはそういうことかなあ。恋愛「が」したいというのも見るけど、結婚/恋愛を「する」のが唯一の目的みたいで、なんか恋愛している「自分」に恋をして、結婚している「自分」を愛するイメージが沸く。こういう人たちはほんとうは愛というものを知らないんじゃないかと思ってしまう。経済大国に生まれて、物質的に何不自由なく育ち、高い教育を受けた、世界がうらやむほどの「デラックスお座敷列車」に乗っている人たちなのに。

バブル景気で築いた楼閣が崩れて貧しくなったのは家計だけじゃないような。いや、家計よりももっと貧しくなったものがあるような観がある。まあ、ワタシがああだこうだ言ってもよけいなお世話なんだけど(と言いながら言っちゃうんだけど)、件のコンカツお嬢さんのトピックは、別れた彼氏が立てたらしい相談トピックがあったということで、どうも彼氏のお金に執着しすぎて、せっかくのチャンスを棒に振ったらしい。「お金がある人を頼りにして何が悪いんですか?」と開き直ってしまった。かたや、結婚したときの条件から外れたからお金のある方に乗り換えたい奥さんは、相手が「私に浮かれているうちに再婚したい」と躍起。その浮かれている男ってのが、どうも胡散臭いんだけどなあ。いやあ、つくづく人生はドラマだなあと思わせてくれるすごい人たち。小説が半ダースくらい書けてしまいそうなネタがてんこ盛りのトピックだった。はあぁ、ふうぅ・・・

さて、ぐっと腕まくりをして、仕事、仕事。カレシのひとりやふたり(1人で十分以上だけど)、このワタシが養ったるでぇ、という姐御?の心意気で稼ぐぞ~。(ほんとはくたびれてるけど・・・)

鈴木君と佐藤さんを足すと

9月29日。うう、さむ、さむっ。おまけに雨。火曜日。ごみ収集日。寝室が収集車が通る裏のレーンに向いているもので、リサイクル車のガチャン、ドシャンで目が覚め、しばしの眠りに戻ったら今度はごみ収集車のゴォー、ドタンで目が覚める。この収集車が「自動式」というのになってから、まあ、騒々しいこと。トラックの後を人間が歩いていた時代に比べると、容器を持ち上げて空にする機械がついた分だけ騒々しくなった。もっとも、1人でトラックを運転しながら機械を操作してごみ容器を空にするから、市としては人件費削減になったんだから、これも進歩なんだろうな。

朝食が終わって二階のバスルームにいたら、突然どっばぁーっと来た。雨。雹かと思ってしまうような雨がまっすぐに落ちてくる。バケツどころかバスタブをひっくり返したような豪快な降りっぷり。こんな怒涛のような雨はバンクーバーでは珍しい。南洋の島のスコールはこんな感じなのかもしれないな。ま、こういう降りは長く続かなくて、5分もするとおとなしくなり、10分もすると普通の雨になった。寝室のサーモスタットを見たら華氏73度(約摂氏22.5度)。昼間の設定は72度だから、あと1度下がったら暖房が入るじゃないの。雲が切れ始めた午後2時すぎの外の気温は摂氏8度。さむっ。

オタワでは、あさってまた自由党を率いるイギーが不信任案を提出してハーパー政権打倒を試みるらしい。しつこいなあ、イギーも。景気刺激策が効果を挙げていない!もう待てない!ということらしいけど、拳骨を振り上げたとたんに失業保険の受給者が減ったというニュース。消費も増えたし、住宅も売れ始めて、値段も上がり始めた。前回の「不信任案」で保守党政権を支持した社会主義政党の新民主党はあさっても不信任案否決に回るらしい。ケベック連合がどう出るかだけど、少数政権は倒れそうにないな。

仮に倒れて総選挙になっても、政権交代どころか逆に保守党が単独過半数を獲得しかねない雲行きで、イギーは「ジャックとジルが丘を登って行って、その後どうなったか知ってるよね」と新民主党とケベック連合に牽制球。(それぞれ党首の名前がジャックとジル(Gilles)なので、丘を転がり落ちて来る童謡の「ジャックとジル」にひっかけてある。)だけど、イギーは連立政権なんかやらないと言ってしまったから、自由党が単独で過半数を取らなければ総理大臣にはなれない。そんなときに大票田のケベック州でイギーの右腕が突然やめてしまって、党内の内輪もめが表面化してしまった。どうやら巨大票田のオンタリオでも反イギー派がごそごそ動き出したらしい。ますますおもしろくなって来たぞ。イギーはもうアメリカに帰った方がいいかも。

日本では鳩山政権になって、いよいよ夫婦別姓が実現するらしい。小町にもトピックが上がって、反応を読んでみたら、あたりまえだけど、賛否両論。反対派は家族がどうの、日本人のルーツがどうの。賛成派はキャリアがどうの、自分のアイデンティティがどうの。不法入国の温床になるとか、偽装結婚が増えるとか、「外国人」に悪用されそうだからと反対する偏見たっぷりの排外主義者までいた。(日本姓のままの国際結婚妻が諸外国にかなりの数いるけど、彼女たちも不法入国とか偽装結婚とか、疑いの目で見ちゃうの?そんなことを言ったら国際結婚の人たちが気にしちゃうかもしれないなあ。それとも、日本人はそんなことをするはずがないから想定外ってことなの?)

家族の絆が薄れるとか、家庭崩壊につながるとかいう人もいるけど、すでに絆の薄い家族や崩壊家庭がごまんとある現実を知らないのかな。別姓だと法律婚と事実婚/同棲の区別がつかないと言う意見もあったけど、つかなくたっていいじゃないの。でも、そういうと「けじめ」がどうのこうのと言い出すんだろうな。いっそのこと「個人」を基準にした新しい戸籍制度を考案したらいいと思うけど、「家庭内個人主義を助長するから」という反対意見があるように、日本では個人主義=諸悪の根源らしいから、無理か。人は「家」に帰属するもので、その帰属先を示す「戸籍」が社会の最小構成単位、という観念が遺伝子に組み込まれているのかもしれない。ワタシだって今や古くなった結婚観と家族観で育てられた世代だから、何の疑問も持たずにあっさりとカレシの英語姓になったんだし。(はて、あの頃はすでに別姓の選択肢があったのかなあ・・・?)

たしかに新しい制度だから不安や不快を感じる人もいるのは当然だろう。カナダでも、30年前に保守党の若いジョー・クラークが首相になったときは夫人が別姓だったので、すごいスキャンダル扱いだった。でも今は野党の自由党も新民主党もケベック同盟も、党首夫人はみ~んな別姓。ハーパー首相夫人も自分のビジネスを持っていて、夫が党首になるまでは別姓だった。ワタシの周りにも別姓夫婦があたりまえのようにごろごろいる。日本だって、これから結婚する人たちの子供たちの世代になったら、もう誰もぎゃあぎゃあ言わなっているかも。要は「選択性」ということで、法律で夫婦別姓を強制されるわけじゃないんだから何が問題なのと思うんだけど、反対派にはそこが見えていないか、目をつぶっているような感じがする。選択肢を与えられたら自己責任が発生するから嫌なのか、あるいは他人が自分とは違う選択をする(できる)ことが許せないのか、行き着くところはやっぱり「個人の価値観」を排除して「集団の規範」に従うことを善しとする社会なんだろうな。まあ、何千年もそうやって回って来たんだし・・・。

新しい夫婦が新しい姓を作るのも、新しい「家族単位」を創設するということでいいアイデアだと思う。二人の姓を組み合わせるやり方はこっちでやっているハイフンでつないだ連結姓に似ているかな。どっちを先にするかでもめることもあるらしいし、2連結姓同士が結婚して4つの姓を連結したら、次の世代で4連結同士が恋に落ちたら・・・なんて冗談めいた疑問もあるけど、すっかり定着している。小町では、自由に新しい姓を作らせたら、日本中に珍名、奇名があふれると懸念する人もいたけど、子供の名前がとっくに珍名・奇名だらけの観があるんだからいいんじゃないの。いっそのこと、姓名に関しては漢字を廃止して、全部ひらがなもしくはカタカナってことにしてくれたら、「読めない名前」の悩みが解消されるし、ついでに地名もそうしてくれたら、ワタシにとっては大助かりかなあ・・・。