リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

2012年4月~その2

2012年04月30日 | 昔語り(2006~2013)
長いトンネルを抜けてみたら

4月19日。きのうは水曜日だった。(どうもこの月曜日から始まるカレンダーには慣れなくて、そのうちに納期を勘違いしないかとちょっぴり心配。)きのうの起床は午後1時。なんとものんきなもんだったけど、ひと区切りになる仕事が雑誌の記事だったので、同時翻訳的にぶっ飛ばせば5時間くらいで行けると踏んで、いつもの「ま、いっか」精神丸出しで一日が始まった。

午後いっぱい、雨が降ったり、止んだり。なんか今年も去年に続いて肌寒い春だなあという感じがするな。カレシは手術してから丸5日で、抗生物質は今日でおしまい。縫合した糸が見えなくなって来たというから、溶けて吸収されつつあるらしい。自然に溶ける外科用の糸って、昔「刑事コロンボ」で心臓手術で溶ける糸を使って殺そうとしたエピソードがあったな。ワタシが子宮全摘手術をしたときは、糸じゃなくてステープル針(ホッチキスでパチンとやるあれ)で12ヵ所くらい止めてあって、4日目に看護師さんがオフィスにあるようなリムーバーで抜いてくれたっけ。皮下脂肪の厚いところを糸で縛って縫合すると醜い痕が残るからだろうと思うけど、おかげで細い線の両側に小さい点々がやっと見えるくらいに、きれいに治った。(ちなみに、横に切るのでビキニの水着を着ても傷痕が見えないということで、「ビキニ・カット」と呼んでいたからおかしかった。)膝の内視鏡手術のときは、お皿の周辺に3つの穴を開けっぱなしで、圧力包帯を巻いておしまい。ほんと、手術の縫合のしかたにもいろんな方法があるもんだ。

仕事の方は、その前にやっていた決算報告に比べたら何十倍もおもしろかったもので、4時間くらいで済んでしまった。あと半ページくらいになって終わりが見えて来たところで、夕食の支度にキッチンに上がったら、外は青空。カウンターの窓から見たら、いつの間にか桜はすっかり散ってしまっていた。

[写真] 流しとレンジの間のワタシの作業スペースの窓。毎日料理をしながら、この窓から外を見ていたはずなのに、桜の季節が終わってしまったなんて、全然気づかなかった。穴ぐらに篭っているうちに外界ではどんどん季節が移り変わってしまうみたい。長いトンネルを抜けると、桜の季節は終わりだった、なんて。仕事、しすぎだなあ、やっぱり。・・・。

[写真] カレシの手術とワタシの篭城仕事のおかげで買出しに行けなかったもので、冷蔵庫の野菜ケースはほんっとに空っぽ。何とか見つけたのが「レインボー」にんじんの紫と黄色のやつ。ということで、急ぎのディナーはオレンジラフィーにミックスライスとごく軽く蒸したにんじん。紫のは中がきれいな黄色で、味はすごくマイルド。このレインボーにんじんは色が薄いほどにんじんの味が濃くなるから不思議・・・。

たまたま成り行きでそうなった在宅で翻訳の仕事

4月20日。金曜日。目覚ましがなる2分前の午前11時53分に目が覚めた。カレシは今日から週一で午後の英語教室を再開。前にやっていた午後のクラスの生徒さんがどうしてもと生徒集めをして、その中のひとりが自宅でやっている塾のような教室を使わせてくれることになって、それならばと腰を上げた。いつまで続くかどうかはわからないけど、テーマは生徒さんたちが決めるので準備は不要。楽ちん、楽ちん、と勇んでおでかけ。

ワタシは所得税申告の手続きが全部終わったことだしと、今日は休みを決め込んでのんびりと小町横町の井戸端バトルを岡目八目。ときどき出て来る翻訳関係のアドバイスを求めるトピックがなぜか次々と3つも上がっている。翻訳ビジネスにどっぷり浸かっているワタシとしては500文字のアドバイスがどれだけ役に立つかわからないから書き込みはしないけど、他の人たちがどんなアドバイスをするのか興味津々だし、ついでに業界の見えない部分を見ることができたりする。タイトルから察するに、「在宅で翻訳の仕事をしたい」という人、「医学・薬学翻訳コースに入学したけど」という人、「医療事務よりも医療翻訳の方がやりがいがありそうだけど」という人。翻訳をやりたい人は引きも切らずというところは今も昔もあまり変わっていないな。

在宅で翻訳の仕事をしたい人・・・いったい日本中にどれだけいることやら。質問の主は40代の主婦で現在海外在住、英日翻訳の仕事をしたいけど、海外にいて日本から仕事をもらえるのか、具体的にどうやって翻訳の仕事を始めたら良いのか。う~ん、こういう質問が一番答えにくいな。この業界は年令、性別不問だから問題なし。主婦・・・だから「在宅」なんだろうけど、働きたいのか、小遣いが欲しいのかによって微妙かな。本気で働きたいのなら話は別だけど、小遣い稼ぎのつもりで「そんなに稼げなくてもいいの」なんて超格安料金に甘んじられたら、生計を立てている人が困ることになる。がんばっているシングルマザーも多いんだから。海外在住・・・これはもう何の意味もないかな。海外にいて日本から仕事をもらえるか・・・もちろん。現にワタシの仕事は90%以上が日本から来る。ネットがなかった昔は仕事のほとんどが地元の需要だったけど、今は原則的に世界のどこにいても世界のどこからでも仕事をもらえる。メールでもらって、メールで返す。いい時代になったもんだなあと思う。

具体的にどうやって翻訳の仕事を始めたらよいのか・・・う~ん、これは難しい質問だなあ。会議などでたくさんの仲間に会って来たけど、翻訳者になった動機も経緯も実に千差万別。結婚と似たようなところもなきにしもあらずで、ワタシのような古だぬき世代には「たまたま」とか「成り行きで」というのがかなりいる。ワタシは勤めた先々で翻訳をやらされて来たもので、「まあ、転職のオプションとしてそのうち考えてみてもいいかなあ」と思ってカレッジの通訳コースを取ったのが、気がついたら勤めを辞めて「在宅で翻訳の仕事」に首までどっぷりと浸かっていて、いつのまにか23年目。おまけに他人には翻訳業はビジネスなんだと説教しておきながら、自分はろくに顧客開拓の営業もやらないで、翻訳者の協会に加入して名簿に名前を載せて、後は「果報は寝て待て」みたいな何とも他力本願なビジネスをやっているから何をかいわんや。

まあ、「海外」に住んでいて英語が「できる」という以外には、学歴も専門もなくてこんなにも長くやって来られたのは、幸運な「たまたま」が重なってくれたからだと思うしかない。だから、具体的にどうやって翻訳業を始めたらいいのかと聞かれても答に詰まるんだけど、これじゃあ、ただの古だぬきになるばかりで、ちっとも後進の役には立たないよね。アドバイスしてあげられることが何にもなくて、ごめんね・・・。

日本は近いようでも、やっぱり遠い

4月21日。土曜日。カレシがもぞもぞと寝返りばかり打つので、ぐっすり眠れなくて、起床は午後1時。カレシは寝つけなかったんだというけど、きのうは久々に英語教室をやったりしたもので、くたびれて長い昼寝をしてしまったせいだと思うけどなあ。

今日も「あと1日だけ!」のぐうたら。仕事で首までずっぽり埋まっていたのがすぽっと抜けてしまうと、今度はなかなか穴に戻れなくなる。もっとも今年はもう平均的な年の半年分の仕事をしてしまったから、ついもういいかなという気分になるのかもしれないけど。でも、のんきにぐうたらを楽しんでいたら、あ、カレンダーに赤い印。今日の夜中が期限の仕事があったんだ。小さい仕事だからと思っているうちに忘れていた。やれやれ、あぶない、あぶない。納期厳守は命だからね。まあ、別に泡を食わなくても良かったんだけど、そこは気分だけでもという感じで泡を食って、バンバンと1時間で仕上げ。さっさと送ってしまって、ぐうたらモード再開・・・。

何だかかんだ言いながら、やっとのことで「一応」確定したバケーションの日程を見ながら、ホテルや飛行機の予約を確認をしていて、よく見たら北海道へ行く飛行機の予約ができていない。次々に仕事が入ってくるもので、「いつになったら手が空くんだよっ!」とむくれるカレシをなだめながら全日空の何便と決めたのを、カレシがオンラインで予約したはずなんだけどなあ。印刷したものを良く見たら「20日までに支払がないと自動的にキャンセル」と書いてある。そういえば「すぐに払わない仕組みになっているらしい」と言っていたけど、何でなの?初めての仕組みにどうやら支払の方を忘れてしまったらしい。当然フライトの予約はキャンセル。やれやれ。カレシ曰く、「日本国内の電話番号じゃないと受け付けなかったから、外国のクレジットカードだとダメかもしれない」。外国から直接の予約はダメってことなのかな。まあ、元々日本でやってもらって日本にある円で払おうと思っていたからいいけど。

ということで、さっそく妹にお願い。(お願いばっかりしているなあ、いつも。妹よ、ごめん!)選んでいた座席の番号が何だかヘンなんだけど、そのまま知らせたら、「それだと前後になるよ」との返事。何でなの?並んだ席を取ってくれたからいいけど、どうも古くて解像度の悪いモニターでアルファベットのHとKがぼやけて見えて、どっちもHと読んだらしい。あのさあ、新しいモニターを買った方が良くない?まあ、あっちこっちをキャンセルしたり、変更したりでややこしいのはわかってるけど、「日本に行ってから満室、満席では困る、全部手配して確認して行かないんだったら、オレは行かない!」とぶっち切れたのはどこの誰だったかなあ・・・。

それにしても、日本へ行くとなるとなぜかもめるねえ、ワタシたち。アメリカへ行くときは全然もめないし、ヨーロッパに行ったときも一度だってもめなかったのに。何でなの?あのさあ、かってはアナタがひとりで行ってウハウハと楽しく暮らすつもりだった「夢の国」でしょ?あんがい日本語ができないカレシには自分で想定通りにすんなりとやれないことが多いからなのかなあ。まっ、カレシも来年は70歳だし、ワタシも年金をもらい出したら仕事を減らして行くつもりだし、2人して日本へ行くのもこれが最後になるかもしれないから、いいけど・・・。

北海道への飛行機の便が確保されたので、釧路で待っている友だちに電話して知らせなきゃ。小学校1年生から6年間同じクラスだった大の仲良し。この前会ってからもう20年近い。メールもネットもやっていないから、連絡は昔ながらの手紙。それはそれでまた味わいがあっていいんだけど、泊まって行けというから、泊めてもらうことにした。コミュニティ活動に勤しんでいる彼女のこと、どうやら社会人になってからも釧路に留まった同級生たちに声をかけてくれているらしい。「食事会するからね」と。50年ぶりに会う人ばかりで、まるで同窓会だなあ。なつかしさと、覚えていてくれたという感動で胸がじ~んとなってくる。よ~し、電話しようっと。

昭和30年代、さ霧閉ざせる蝦夷の地に・・・

4月22日。日曜日。いい天気。今日は正午前に起きたので、早々と朝食を済ませて、早々とオフィスに「出勤」。早く始めれば、午後5時の期限まで余裕しゃくしゃくで、後は休み。いつもこういうペースならいいんだけどな。

ゆうべ(というか午前2時過ぎだったけど)、友だちに電話した。お互いにああ~っと声をあげて、それから10分くらい2人とも興奮してきゃあきゃあとおしゃべり。「あのさ、食事会には○○クンも来るって言ってるよ」。あ、よくけんかしたあいつだ。なつかしいなあ。「それと○○クンも。いいおじさんになっちゃったけどいいかいって。かわいいよねえ」。うんうん。「○○子ちゃんは孫がいるんだよ~」。うはあ。そうだろうなあ、だって、みんな揃って今年64歳だもの。そうやってひとときおしゃべりして電話を切ったら、カレシが「小学生が騒いでいるかと思ったよ」と呆れた顔。だって、小学校時代の友だちなんだからあたりまえ。父の転勤で釧路を離れてから50年。ちょっとばかりタイムスリップした気分だったな。

でも、いいニュースばかりではなかった。「○ちゃんは認知症になっちゃって、調子のいい日もあるんだけど・・・」。ええ、あの○ちゃんが。高校に入って間もなく中退して結婚したものの、学校教師だったダンナのDVにあって、やっとの思いで離婚して、娘を抱えて死にもの狂いで働いて、地元の会社の取締役にまでなった○ちゃん。思春期の一人娘が一時荒れたときは母子心中を考えるほど思い詰めたという○ちゃん。ほんとに大変な苦労ばかりだった人生の最後に待っていたのが認知症なんて、不公平すぎると思わないの?え、神さま?

電話した友だちも、離婚してからずっとひとり暮らし。子供はいない。釧路で短い期間を過ごした石川啄木の足跡にマーカーを建てて回るんだと、市役所に掛け合ったり、寄付を募ったりの旗振りに忙しい。子供の頃からバイタリティが溢れる子だったな。カレシが50年も経ってもみんな覚えていることに感心するけど、まだ「戦後」だったあの頃(昭和30年代)は今とは比べものにならない「絆」があったと思う。復興中の日本は発展途上国並みで、みんな押しなべて貧しかった。今の人が見たら「仮設住宅」と思いそうな二軒長屋の社宅の天井裏をねずみが走り回っていたし、ワタシが幼い頃は父が娘に卵を食べさせようとニワトリを飼っていた。秋になると沢庵漬けを作るために馬車いっぱい運ばれて来た大根を隣近所が家族総出で洗って干したし、どの家にも子供が何人もいて、テレビ放送が来るまでは、上は中高生から下は幼稚園児までよく外で群れ遊んでいたし、近所のお母さんたちはみんなの「おばさん」みたいなところがあった。何だか一種のコミューンみたいだけど、あの昭和30年代がワタシの原風景なのだ。

50年といえば、織田信長の時代にはそれが人の寿命だったわけだけど、1世紀の半分。それを「半世紀」といえば、すご~く長い年月に感じる。はて、みんなどんな50年を歩いて来たんだろうな。小学校は(中学校も)とうに廃校になってしまったけど、「さ霧閉ざせる蝦夷の地の・・・」で始まる校歌は今でも覚えていて歌える。あんがい感極まって歌い出してしまうかも・・・。

人間が好きといえる幸せ

4月23日。月曜日。今日は特に仕事をしなくてもいい日。なのに、そういう日に限ってごみの収集日だったりして、早くに目が覚めるなあ、もう。でも、今日もいい天気で、気温も平年並み。ワタシの誕生日の予報はあまり良くないけど、初夏のような気候だったトロントに急に雪が降ったのに比べたらごく普通。雨はバンクーバーの名物だし・・・。

朝食後、カレシのリクエストで大好きなラタトゥイユをスロークッカーに仕込む。病み上がり期?を卒業したらしいカレシは少しずつ庭の仕事を始めて、今日は雑草刈り。池を撤去したときに掘り起こされた土はかなりの粘土質で、コンクリートの下になっている間に痩せてしまったらしいので、これから堆肥を混ぜたり、ライグラスを植えたり、1シーズンをかけて土壌改良をやらないと野菜作りはできそうにないと、カレシはぶつぶつ。ま、いつでも「来年」というものがあるんだから。(去年優勝を逃して今年こそと期待されたカナックスは第1ラウンドであっけなく敗退してしまって、こっちも「また来年があるさ」。もっとも、こっちはその「来年」がさっぱり来ないんだけど・・・。)

ゲートのチャイムが鳴ったので出てみたら、知らない人が「ご主人と前にお話したんですけど」と、ガレージセールのちらしをくれた。故国のトリニダードに帰ることになったんだそうで、少し前に家の外にいたカレシと庭中にある植物を売る話をしたことがあったらしい。「帰ったらビーチがすぐそこの丘に家を建てるのよ~」とうれしそう。うはあ、海辺の家だって。いいなあ。トリニダードはカリブ海の国だ。ますます、いいなあ。うらやましいっ!電気屋のロウルもそうだけど、カリブ海の人たちはほんとに楽しい人たちが多いなあ。それも意識してふるまっている「陽気さ」じゃなくて、根っからの陽気さから来るポジティブなオーラかな。知らない人なんだけど、こっちまで楽しくなってしまった。

散歩に行く途中だという彼女と「じゃあね」と別れて、家の中に戻ってふと思い出した。先週、再開した英語教室で「バンクーバーのどこが一番好きか」というディスカッションをしたんだそうな。ちなみに、この教室の生徒さんは台湾系の奥さんたちで、移民して来て10年くらい。ほとんどが夫婦や個人で何らかの仕事をしていて、それなりに生活は安定しているし、英語も中級かそれ以上。で、持ち寄ったテーマのひとつが先の質問だったわけだけど、カレシが「答は何だったと思う?」と矛先を向けて来たので「人」でしょと答えたら、カレシが「どうして知ってるの?」とびっくり顔。どうしてって、ワタシも聞かれたらまずそう答えると思うからそう言ったまでなんだけど、と言ったら、「そうか。まあ、バンクーバーは昔から寛容なところがあったけど・・・」と。

うん、そうだと思う。最近たまたま別々のところで「他文化に寛容で住みやすいイメージがある」とか「人がやさしい」とかいうコメントを見て考えていたことだと思う。バンクーバーは(北海道もそうかもしれないけど)草分け時代は東からいろんな背景事情を持つ人たちが流れて来た「線路の果て」の吹き溜まりみたいなところだったから、「異なるもの」に対して寛容になれる素地があったと思う。もちろん、中国人移民に人頭税をかけて流入を阻止しようとしたこともあったし、こまがた丸に乗って来たシーク教徒を上陸させずに送り返したこともあったし、戦争中に日系人を強制収容所に送り込んで、戦後はカナダ各地に離散させたこともあった。いずれも一部の狂信的な人種差別主義者の煽りが時の政府を動かして起きたことで、近代の政府が過去の過ちを認めて正式に謝罪や補償をしたし、カナダ社会も歴史の汚点ともいうべき事件を風化させない努力をしている。

戦後になって異言語、異文化、異宗教と、あらゆる「異なるもの」が流入して来てからは、努めて異なるものと共存しようとする「tolerance(寛容)」が根付いたと思う。でも、その根源になっているのは、草分け時代に培われた、異なるものを自分たちの基準に合わないと言うだけでむやみに拒絶したりしない「open-mindedness(寛容)」なんだろうと思うな。だけど、そうやって新しい隣人たちに心を開いて接しても、相手が心を開こうとしなかったり、(遠い外国の)自分たちの常識や規範を鎧のようにまとったままでいたら、バンクーバーっ子だってそうそう寛容にはなれないな。これは決して一方通行ではない人間関係の基本だと思うから、人間が作るコミュニティにはどんなところでも多かれ少なかれそういう寛容と非寛容のせめぎ合いがあるだろうと思う。

つまり、バンクーバーの好きなところを「人」と答えた人たちは、寛容に寛容をもって応えることができた人たちなんだろうな。それなりの苦労はあっても、この人たちはこの国で前向きに暮らせているということか。小町の国際結婚トピックで「こちらでは日々外国の悪習を目のあたりにして、外国人として戦いのような日々を・・・」という、まるで敵地に乗り込んだような書き込みがあって思わず噴き出したけど、こういう(たとえそれが「愛する人」の国であっても)移り住んだ国の習慣を「悪習」と言って否定してしまえる人は、異なるものに心を閉ざしているのか、それとも元から非寛容なのか、それとも単に思うように行かない生活の不満を募らせているだけなのか。(それで、「悪習」に染まった同胞を許せないのかも。)まあ、周囲の寛容さに気がついていない場合もあるだろうし、人それぞれの感じ方があるのはわかってはいるけど、寛容に非寛容をもって応えても、ネガティブなオーラを撒き散らすのが関の山で、そのうちに暮らして行くのが辛くなってしまいそうに思える。ま、お好きなようにどうぞ、と言うしかないんだろうけど・・・。

いわしのつみれを作ってみた

4月24日。火曜日。天気は下り坂。起床午後12時40分。やっと仕事のペースが緩んだというのに、なぜか夢の中でせっせと仕事、仕事。フリーランス根性もここまで来たというのか、それとも単に混乱はなはだしい言語中枢をデフラグしているのか(だけど、仕事をだしにしてデフラグってのはなしにしてほしいなあ・・・)。

ペースが緩んだと言っても、まだ手持ちの仕事が2つか3つ(ん、どっちだ?)あるんだけど、仕事前線は急に静かになった感じ。ええ?と思ったら、日本ではそろそろゴールデンウィークが始まるんだった。つまり、あと3日静かでいてくれたら、そのまま来週1週間はずぅ~っと静かってことか。うん、いいね<!

仕事がペースダウンすると、食事にちょっと手をかけてみようかという気になる。きのうはラタトゥイユにいわしのフライ。大きなイワシが6尾入っていたのをぜんぶ解凍してしまったはいいけど、食べきれない。そこで、うろ覚えに聞いたことがある「いわしのつみれ」(つみれ?つみいれ?)というものを作ってみようと思い立った。ところが、聞いたことはあるけど、実は見たことがないし、食べたことがあるかどうかもわからない。そこでいつものようにググったら、「白ごはんdotコム」というサイトに懇切丁寧な説明。ぐうたらしてフードプロセッサでガガ~っと練って、できあがったのがちっちゃなひと口「つみれ」(カレシには「いわしダンプリング」と言っておいた)。味見をしたら、うん、いける。

つれみができたから、今日のディナーはなんちゃら日本風という流れになる。つみれ汁にスティールヘッドの照り焼き(くるくると剝いただけの大根を添えて)に発芽玄米のごはん。それとやっぱり何かもう1品いるかなあ、と考えていて、はたと思いついたのがごぼうのきんぴら。ごぼうがあるし、韓国にんじんがあるし、しらたきもあるから、これでワタシの好みのきんぴらができる。思い立ったが何とかで、ついでに甘さを抑えたしらたき入りきんぴらごぼうも作っちゃった。

おかげで、なんとか「なんちゃら和風」の体裁がついたから、今日のディナーはトレイに並べて「極楽とんぼ航空」の機内食。これで日本酒があったらよけいにいいんだけど、それでも、乱気流もなく、快適なフライトを・・・。[写真]

つみれ、おいしかった。カレシも「おお、うまい!」うん、魚料理は何といってもやっぱりアジアのレシピが一番相性が良くておいしくできるね。

誕生日はお遊び料理で

4月25日。バースデイディナーは金曜日にHawksworthへ行くことにしたので、1日中雨模様の今日は(誕生日の主賓の)極楽とんぼ亭シェフが勝手気ままに思いつき料理で遊ぶ日ということにした。

今日のメニュー: アミューズブーシュ(トマトゼリーとトマトエッセンス)
         焼きフォアグラとチェリーブランディのリダクション
         ビーフのフィレと玉ねぎガーリックジャム、舞茸のソテー
         鶏もも肉のアスパラガスロール、野菜添え

まずはマティニで乾杯して・・・。

[写真] トマトエッセンスはトマトから抽出した透明な液体で、エッセンスの名の通り、トマトの香りが味の中に濃縮される。抽出方法はいろいろあるらしいけど、ここはトマトの缶詰を開けるたびに汁を捨てずにコップに取り、ひと晩冷蔵庫においては、分離した上の透明な液体(エッセンス)をガラス瓶に集めて冷凍してあった。大きな缶詰4個分から集まった液体をコーヒー用の紙フィルターで最後まで残ったトマトの実を漉して、ほんのり黄色みがかった透明な液体が大さじ2杯分。これだけの量にかなり手間がかかったけど、完熟トマト本来の味がなんともいえない。トマトのパサタにブランディとビーフのブイヨンを少しずつ混ぜて、寒天パウダーを加えて固めたゼリーに、クリーム用のピッチャーに入れた冷たいエッセンスを添えて、誕生日の晩餐の始まり・・・。

[写真] こういう特別なときのためにと、冷凍効率の良い貯蔵フリーザーの奥深くに霜焼けしないように大事にしまい込んであったフォアグラからスライス2枚。これにごく少量なのであっという間に煮詰まるチェリーブランディのリダクションソースを添える。玉ねぎのスライスをさっと焼いてから、フォアグラを焼いた。ソースがチェリーだから別にフルーツ風味がなくてもいいかと、薄くスライスしてトーストしたローズマリー風味のフォカッチャを添えた。

[写真] ビーフのフィレがあったので、ちょうどいいから今日は久しぶりにステーキ。といっても、ほんのひと口サイズに胡椒をたっぷりまぶしておいて、後はソースの算段。フォアグラにチェリーソースを合わせたので、どうしようかと冷蔵庫をのぞいて見つけたのが、ローストした玉ねぎとにんにくの「ジャム」。残りが少量だったので、温めて緩めたものを添えたら、これが意外においしかった。

[写真] 鶏もも肉のロールは骨をとって、開いて、アスパラガスの茎の部分を2本ずつ巻き込んだものに冷蔵庫にあったタマリンドソースを適当に塗って、ホイルに包んでオーブン焼き。付け合せはスイートポテト、オレンジピーマン、アスパラガス(しっぽ)のミルポワ風。ステーキに付け合せた舞茸をソテーしたフライパンをそのまま使い、ったので、同時に隅っこでズッキーニも焼いて、なかなかいい味。彩りは金柑。

ディナーの後で、カレシからプレゼント。郵便で届いたままの包みに入っていたDVDは大好きなコリン・ファースが主演した映画『The Importance of Being Earnest』。(舞台劇は『真面目が肝心』だけど、映画版の邦題は『アーネスト式プロポーズ』になっていた。)おなかがいっぱいでランチは不要になりそうだから、寝酒とおつまみをやりながらゆっくり見ようね。ハッピー・バースデイ・トゥ・ミー!

自分に誕生日インタビューしてみた

4月25日。水曜日。正午ちょっと前に起きたら、暗い。予報通りの雨。今日はワタシの64歳の誕生日。極楽とんぼのワタシはこの年になってもまだ誕生日が大好き。ビートルズの楽しいラブソング、「When I`m sixty-four」を口ずさんでいるうちにやって来たその日。ちょっと自分にインタビューしてみた・・・。

Q: 今日で満64歳だね。どんな感じ?

えっ、ほんと?という感じ。へその緒で自分の首を絞めて、大変な難産で仮死状態で生まれて、それでも脳に(少なくとも目に見える)障害が残らずに生きられたのは神さまのおかげ。人生って、チャンスはいつも五分五分ということなのかな。

Q: 年を取ることは気にならない?

年を重ねるのは生きている証拠で、すばらしいと思う。だいたい、年は「取る」、「食う」という自動詞的な現象だから、どういう風に年を取るかは自分しだいじゃないのかな。でも、有名人が亡くなったニュースがあると、享年が80代なら「あ、そうか」、70代なら「まだそんな年じゃないのに」、60代だったら「早すぎるなあ」と感じる。つまり、ワタシの中では80代になって「老人」、90代になったら「高齢」というイメージがあるから、64歳はまだ人生の半ばみたいで、たぶんこれからもっと楽しくなるような気がする。でも、のんきすぎかな、これ。

Q: 来年からいよいよ年金をもらえるけど、仕事、続ける?

それが一番の悩み。仕事以外にやりたいことはたくさんあるんだけど、仕事にはまた趣味とは違った刺激があって、急にやめたら禁断症状が起きるかもしれない。それに心の奥深くに「経済的に自立しなければ」という強迫観念みたいなものが常にあったような気もする。日本の両親が他界してしまって、自分は子供を持つことを諦めた時点で「いつかはひとりきりになる」という自覚ができて、目の前に「離婚」がちらついていた時に一気に濃縮されたのかもしれない。実際にワタシの経済力の方が上で、離婚しても生活には困らない状況だったから、逆に離婚に至らなかったんだろうと思う。だから、年金をもらい始めたら、趣味を優先しながら仕事を少しずつ減らして行くことになるだろうと思うね。

Q: カナダ暮らし、もうずいぶん長いけど・・・

あと2週間ほどで満37年。1975年5月12日。月曜日だった。スーツケースを3つ持ってひとりで「海を渡って」来たんだけど、カレシのほうの問題を片付けなければその先へ進めなかったから、実際にこの国での地位が固まったのは1年とちょっと経ってから。それまではやっぱり精神的にきついときもあったけど、あの頃は日本から来る嫁なんて片手で数えるくらいしかいなかったし、移民局の担当者もめんどうな状況を理解してくれて、親身になってサポートしてくれた。今はとてもそうは行かないだろうから、いい時代に来たんだと思うな。

Q: 自分のいいところは何だと思う?

たくさんあると思うんだけど・・・。

Q: 自分の欠点は何だと思う?

たくさんありすぎて・・・。

Q: 日本のことをどう思っている?

遠きにありて思うべき・・・というよりはもう外国。わからないことが多くなりすぎたもの。

Q: じゃあ、自分のことを何人だと思っているの?

日系カナダ人。10年くらい前に幽霊戸籍を抹消するために行った日本国領事館で、20年以上も前に無効になった戸籍の名前がワタシの唯一の名前で、カナダが法的に認める英語の名前は「別名」に過ぎないと、まるでワタシが「偽名」を使っているようなことを言われたときに、初めてはっきり実感したと思う。ワタシは「日本生まれ」のカナダ人なんだと。ま、カナダは「○○生まれ」のカナダ人だらけの「咲いた、咲いた、チューリップの花が」の歌みたいな国だから。

Q: これから先、老後に不安はない?

まったくないと言えば嘘になるけど、この国はワタシを見捨てないと思うから、大丈夫だと思う。義理の家族は、カレシにとっては問題が多かったかもしれないけど、(たぶんにカレシが作った)先入観を乗り越えてワタシを受け入れてくれたし、ワタシも肩肘を張らずに自然体で接して来て、「義家族」という違和感を持ったことは一度もなかったな。ワタシたち夫婦が危機に陥ったときはみんながワタシの後ろ盾になってカレシを慌てさせたけど、第一、離婚した「嫁」を新しい伴侶ごと受け入れる家族なんて世間にそうあるもんじゃないと思う。2人の義妹たちとはもう「義」を意識しない仲良し3人姉妹だし、甥や姪たちも小さいときから「アンティー(おばちゃん)」と呼んで懐いてくれていたし、まあ、たとえ年を取ってひとり暮らしになったとしても、見守ってくれる家族がいるという精神的な安心感は心強いよね。

Q: どっちかというと良い人生だったと思う?

思う。人生のできごとをサイコロになぞらえるとしたら、いい目が出たときの方がずっと多かったかな。人間、ある種の「運」を持って生まれて来るのかどうかわからないけど、まっ、これからも自然体で行けば、なるようになるだろうと思うね、うん。

東西の多彩な食材を東西の多彩な味で食べる

4月28日。土曜日。目が覚めたら午後12時50分。4月最後の週末。日本がゴールデンウィークに入って、仕事戦線は静かなり・・・といいたいところだけど、案の定、ばたばたとメールが来て、あれもこれもと置きみやげ。おまけにニューヨークからもスケジュールのお伺い。んっとにもう・・・。

きのうはワタシの誕生祝いとカレシの快復祝いを兼ねて、久しぶりにHawksworthでディナー。季節の「お試し」メニューが魚介類中心で最後に鴨だったので、あっさり意見が一致して、久しぶりにコースメニュー。(どこでもコースメニューはテーブル全員が注文する決まりになっている。)料理を待つ間にカクテルでリラックス。カレシが注文したLiquid Sword(液体の刀)というおもしろい名前の創作カクテルはテキーラがベースで、何だろうなあというエキゾチックな味。メニューはイカ、マグロ(アンチョビの天ぷら添え!)、ホタテ、スティールヘッドと続いて鴨。デザートはバニラプディングと練乳のアイスクリーム。アイスクリームの上にはきれいなオレンジ色のにんじんのキャラメルクロカンが載っていた。練乳とにんじん・・・おもしろい思いつき。

ワタシたちは普段から夕食の時間が早いから、レストランでも早番の午後6時に予約を取るんだけど、7時過ぎにはもうほぼ満員御礼になったから、バンクーバーのナンバーワンシェフの店だけある。バンクーバーの「グルメ」はフランス料理をベースに、アジアの食材や調味料を取り入れて発展して来た「ウェストコースト料理」。フランス人は種類の限られた食材を多彩なソースで食べ、日本人は多彩な食材を単純なソイソース(醤油)で食べるといった人がいたとかいないとか。その延長線で行くと、この20年ほどの間に、バンクーバーっ子は洋の東西の多彩な食材をこれまた洋の東西の多彩な調味料やソースで、しかも素材の味を生かして食べるようになったと言えるかな。最近は地元のセレブシェフたちが一緒になって「地産地消」を推進しているけど、それも西に太平洋があり、東に肥沃な農業地帯があるという「地の利」があればこそで、それがミシュランも知らない「ウェストコースト料理」の真髄だと思う。ワタシにはこの地球上にバンクーバー以上の「おいしいものいいとこ取り」の天国はないと思うな。

帰ってからレストランのサイトでカクテルの材料を調べてみたら「スダチ」と唐辛子。カレシはさっそくどこでスダチ果汁を買えるかとリサーチ。カリフォルニアから通販で買えることはわかったけど、「東京で買った方が安いよな」と。う~ん、いつでもどこでも売っているもんじゃなさそうだし、東京は広いしねえ。そういいながら今度はワタシがリサーチ。最初に2泊するホテルから駅ひとつのところに徳島県の産物を売っているところがあって、「スダチ果汁」もあると書いてある。店があるビルには他にもおもしろそうな店があるよと言ったら、「これだと帰りの予定を変えなきゃダメだな」。広島行きをやめたら、東京で何日もやることがないと、400ドル払って最初の5日をばっさり切ったカレシ。今度はどうやら尻尾の方を2、3日延長か。早く決めないと、近くなるほど変更料金が上がるから、今度はいったい何百ドルかかることやら。ま、いいけど、スダチ、ちっとも安くないじゃん・・・。 

さて、今日はバンクーバー交響楽団のMusically Speakingシリーズ最後のコンサート。来シーズンからは別のシリーズに鞍替えするから、ワタシたちにはほんとに最後の最後。女王様の即位60周年を記念して、前半はウォルトンの戴冠式のマーチとアイアランドのピアノコンチェルト。後半の部の出し物はギルバート&サリバンの1幕もののオペレッタ『Trial by Jury』。うん、これはおもしろそう。置きみやげ仕事に埋もれる前に、ちょっとばかり息抜きして来ようっと。

食べていけなくても職業として成り立つのか

4月30日。月曜日。2人揃ってはっと目が覚めたのが午後1時。ごみ収集日なのに、いつものようにトラックの音で目が覚めなかった。年を取ってくると、この時期にはどうしても生理的なシステム全体が何となくもや~っとするように感じるんだけど、春眠暁を覚えずと言った孟浩然センセもあんがいそういう年だったのかもしれないな。でもまてよ、次の行で「夜来風雨の声」って言っているから、単に春の嵐のせいで寝つきが悪くて、朝方に寝入ったから目覚めが遅かっただけなのかも・・・。

きのう、やっと日本滞在を3日延ばすことで「合意」が成立して、カレシに帰りのフライトとホテルの予約を変更してもらった。料金に変わりはなかったけど、また変更手数料が1人100ドルずつ。これで日程は確定だよね?と念を押したら、「ウェブでチェックインするときに空席があったらビジネスクラスにアップグレードしようかなあ」とカレシ。こらっ。あんまり何度も変更したら、そのうちへたをするとビジネスクラス並の料金でエコノミーってことになっちゃうって。まあ、いくらかかるかによってはそれも悪くないなあとは思うけど・・・。

ま、すったもんだのあげくだけど、とにかく日本旅行の日程が確定したので、ワタシは大車輪でまず今日が納期の仕事を済ませ、今日が期限の売上税の四半期申告を済ませ、日本の協会の会費の支払を済ませ、レンタル携帯の予約を入れて、ずっと目の前にあったポストイットをべりっと剥がしてポイ。やれやれ、これでもうちょっと仕事に気合を入れられそう。カレシは何年か前に英語留学に来たことがあるワタシのいとこの息子(英語だとfirst cousin once removedと長ったらしい関係になるけど、日本語では従甥とか従兄弟ちがいとかいうそうな)とメールで食事をする日を相談。後はぼちぼちと東京で人と会ったり、ショッピングしたりする日程を詰めるだけになったけど、こっちは昼の部と夜の部の二交代になるかも・・・。

会費を払ったついでに協会のイベントカレンダーを見ていたら、5月に東京である月例セミナーのタイトルが『翻訳でメシは食えるか』。曰く、「景気低迷の長期化やグローバル化、低価格化で翻訳だけで家計を支えるのが難しくなり、専門性の高い分野の人でさえ生活が厳しくなりつつあるような今の時代、そもそも翻訳でメシは食えるのか」。東京にいたらぜひとも行きたいところだけど、残念。専門性の高い人も苦労していると言うけど、専門化するか、しないかは古くて新しい問題だけど、専門化できないから「何でも屋」のワタシから見ると、専門性が「高すぎる」のが足かせになっている場合もあるんじゃないかと思う。専門分野の業種が不況のどん底になったら否応なしに仕事は減るだろうし、そういうときに他の分野の仕事を拾うというのもあんがい難しいことなのかもしれない。まあ、潰しが利かないというか・・・。

でも、どうなんだろうなあ。今どきは初めから翻訳者になることを目指して大学院などで勉強して来る若い人たちが増えているけど、メディアが描く「フリーランス」のイメージ先行で翻訳者になりたいという人たちも相変わらず星の数ほどいるようだし、自動翻訳サービスも台頭して来ているし、これからの時代、ほんとに翻訳1本で食べて行けるんだろうか。これはワタシの偏見ではあるけど、大学院で修士号を取って来る人たちは理論武装はたしかかもしれないけど、悲しいかな実務経験や知識が乏しいことが多い。翻訳をやりたいと言って、翻訳学校で実入りの良さそうな分野を「勉強」して来る人たちはそもそも頭の中の「翻訳をやっている知的な私」のイメージが強すぎて、プロ意識に欠けることが多い。翻訳コスト削減の担い手となる自動翻訳はまだとても「翻訳」ができる段階に至っていない。じゃあ、「翻訳業」はこれからどういう方向に進むのか。

ワタシはこの先3、4年くらい自分の食い扶持を稼げたらいい年令だから、特に深く考えることはないけど、これから入ってくる人たちにとっては敷居の高さは変わらないか、あるいは低くなることはあっても、職業として「メシを食う」のは難しくなるという予感がしないでもないな。(それ自体では食べて行けない職業というものあるのかもしれないけど。)まあ、深く考えずに足を突っ込んでそのまま深く考えずにやって来たワタシは、いろんな世間のいろんな「常識」に対して統計などでいうoutlier(外れ値)。よく考えると、たしかに仕事は(北海道語で言うと)はっちゃきこいてやって来たけど、そのために「血のにじむような努力」をしたという記憶がないから、ほんっとにどこまで逆説的にできているんだろうな。やっぱり幸運の星というものがあるのかなあ。