廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

トム・ウィルソンの自負と苦心 ~その2~

2018年06月03日 | Jazz LP (United Artists)

Cecil Talor / Hard Driving Jazz  ( 米 United Artists UAL 4014 )


セシル・テイラーをもっと多くの人に訴求するためにトム・ウィルソンが最初に考えたのは、有名人気アーテイストの力を借りようということだった。
ジョン・コルトレーン、ケニー・ドーハムというシーンの中心にいた2人を連れてきて、"The Cecil Taylor Quintet" としてアルバムが制作された。
尚、コルトレーンは契約関係に配慮して、"blue train" という変名で表記されている。 これじゃ、聴く前からバレバレだけど。

2人のソロ演奏の背後でテイラーがコードを使ってバッキングを取る、という驚きの演奏が聴ける。 こんなセシル・テイラーが聴けるのはこのアルバムくらい
なのではないだろうか。 自身のソロ・スペースでは精一杯破壊されたコードをまき散らすけれど、演奏できる小節数が短く、本来の持ち味は出し切れない。

コルトレーンはプレスティッジからアトランティックへ移籍しようとしていた時期で、そのプレイは自信に満ち溢れて力強く、1年後の "Giant Steps" を
予感させる雰囲気がある。 演奏自体はオーソドックスなスタイルだが既に独特のムードを発散し始めていて、それがこの特異なセッションの方向性に
一応はマッチしている。

問題はドーハムで、彼だけが相変わらずの何の進歩もないバップ・トランペットを吹いている。 ウィルソンからは普段通りに演ってくれていいという指示が
あったのかもしれないけれど、それにしてももう少し何かしらの工夫があってもよかったんじゃないかと思う。 この人の音楽家としての力量の無さが
悪い形でモロに出てしまっている。

スタンダードが2曲、チャック・イスラエルが書いたパーカーの "Ah-Leu-Cha" に似たオリジナル曲、ドーハムが書いたオリジナル・ブルース、という構成で、
主流派の器の中でテイラーがどう演奏するかが試された作品だが、テイラーはその枠組みを壊そうとはせず、あくまでも法定速度を守った巡行に徹している。

正統派の管楽器とコードレスなピアノ、という対比の構図はチャーリー・ラウズがいたモンク・カルテットのそれと似ている。 その類似は形だけに留まらず、
サウンドの妙なる響きにまで及んでいるけど、常設グループとしての溶け合ったモンク・グループの音楽とは違い、この刹那的なスタジオ・セッションには
そういう纏まりはあるはずもない。 本来必要な時間的な積み重ねを無視した演奏は当然ながら中途半端な結果に終わる訳だが、それでもウィルソンは
プロデューサーとしてこのセッションが必要だと思ったのだろうし、セシル・テイラー自身も逆らうことなくそれに従っている。 この2人の間にはそういう
信頼関係があったのだろうということが偲ばれる。 だから、これを単にちぐはくな失敗作として切り捨てる既設の多くの観賞態度には感心できない。

ひとつ気になるのは、このモノラル・プレスの音場感の悪さ。 このアルバムは同じタイミングでステレオ・プレスが "Stereo Drive" というタイトルで
併行発売されていて、もしかしたらそちらの方が音はいいのかもしれない。 ちょっと興味があるので、ぼちぼちと探したいと思う。

コメント
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