俳句が役に立つのか? ということを先日書きましたが、そのほかにも、20年以上俳句をやっている理由があると思いました。
句会という「座」が好き。
波田野爽波さんという俳人は、「俳句スポーツ説」をおっしゃってますが、句会という2~3時間の間、そこに集った人は浮き世の地位も悩みも横において、座を作ります。俳句は、その場で初めて目にするものばかり。無記名でだれの句なのかわからなくして、その一句を好きかどうか、選びます。先生も俳句を始めたばかりの人もその時点では対等なのです。だから、誰にも選ばれないという悲しい結果になる場合もあるのですが、選ばれなかったからといって、自分の句がだめというわけでもない。
などなど、その時間、ほかのことを考えないという状況、確かに、軽いスポーツをやったような感覚です。脳が活性されるわけです。
利害関係のない関係の成り立っている「座」が心地よく、日頃の疲れがいやされます。
吟行もまた楽し。です。同じところに行き、同じものを見て、なるほどこう作るのか。とほかの方の句をに目を見張る。観光旅行で写真を撮るのに少しにているけど、全然違う。くっきりと心に刻まれるのです。
俳人として命をかけ、句を作ってらっしゃる方もいるわけで、そういう方には申し訳ないけれど、上のような理由で句会に行くのだという人間をも許容してくれる懐の広さが俳句にはある。だから、江戸時代から累々と句座に集まる人たちが絶えないのだろうなと思うわけです。古くは芭蕉の周りに集まった人達、近年では正岡子規の周辺に集まった人たち。夏目漱石もそうですね。