俳友Mさんからメッセージをいただきました。ピース又吉さんの俳句の本、おもしろいそうです。『芸人と俳人』読んでみよう。
さて。先日、いろいろ整理をしました。
いろいろ出てきて、捨てたのもたくさんあったのですが。
かつてまじめにハウツーものの本を読んで、その中から、抜書きしたものがあったりして。
改めて、(そうだそうだ)と、読み直しました。
『新人賞の獲り方教えます』というもう絶版になっている久美沙織さんの本とかねえ。
面白い、悲しい、悔しい、じれったい。そういった、ひと言で言ってしまうと簡単きわまりないんだけど、それ自体には喚起する力があんまりない言葉っていうのがある。文章の中にこういった安易な言葉を出して逃げてもいい場合と、それはなるべく避けて別の言い方をしたほうがいい場合がある。
この世にただひとりしかいない自分だから、この世にただひとりの自分の書くものだから、価値がある。しかしあなたがちっぽけな自分でしかないうちは、人の心をうつ作品はできない。(『新人賞の獲り方教えます』)
とか。(私は実にちっぽけだ・・・。踏ん張りましょう)
作者が楽をすると、読者が苦労するのです。
本当に言いたいことは、モロに文章化してはいけません。それは伏線よりも、さらに巧妙に隠さなくてはならない。どこに隠すか。そう、行間です。なにも書いていない部分で、それを書かなくてはならない。(『もう一度だけ新人賞の獲り方教えます』)
とか。(この頃、書いてしまってるなあ。ちょっと考えなくては)
深淵すぎる言葉はほとんど何の意味ももたない。言葉を空回りさせて酔ってはならない。(『エッセイを書きたいあなたへ』木村治美)
とか。 (うんうん。俳句もそう)
佐藤さとるさんの『ファンタジーの世界』からも書き抜いています。
そして、なぜか千住明さんの『美術の授業』からかなりの量を書き抜いています。美術論なのですが、堅苦しくはなく、小説とかなりの部分がオーバーラップすると私は感じたものでした。余白について。作家というものについて。(「私たちは余白の中に生きている」という一文はよーく覚えています。それは、私が作品を書くとき、頭から離れないこと。私にとっては書く上での基本です。興味ある方はぜひ読んでください)
そしてそして、まったく覚えていなかったのが、横山光男さんの『児童文学の書き方』。へえーっと驚いています。実は読んだ記憶はまったく残っていないのです。でも書き抜いた部分、耳が痛い。