又吉直樹さん(ピース又吉さん)は、俳句の本も出されているようですね。
小説家で俳句をやっている方って、結構いらっしゃいます。横溝正史さん、瀬戸内寂聴さんなどが有名ですが、川上弘美さん、長島有さん、きっともっとたくさんいらっしゃると思います。児童文学の世界の方たちも、実際に句会に出てるという話を聞きますし、今やってらっしゃらなくても「やりたい」と何度も聞きました。
俳句は、小説を書く上で役に立つのかな。ということを改めて考えてみたいと思います。
私自身も、児童文学を書いている上で、俳句は根っこのところにあると捉えています。俳句をやっていなかったら、こうしてある程度人に認められるものを書くことはできなかっただろうとも思うのです。
となると、役に立つということになると思うのですが。でもでも、じゃあ俳句を始めたらいい作品が書けるようになるよ、とは、ちょっと言えないかなあとも。
私の場合、一つの句会に出たら、紙一枚分勉強できたと思えばよい、と言われたことがあります。出るたびに新しいことをひとつくらいは覚える(言葉や、読みなど)それでいいとも。それが、直接的ではなく間接的に塵も積もれば山となるとなり、土台を作ってくれているのかなと感じるわけです。それは、一回の句会で、ひとつの石を積むかのようなもの。
虚子は、「俳句とは夏炉冬扇(かろとうせん)のようなもの」と言っています。つまり役に立たないものだということです。
虚子がつくった某巨大結社は、でも言葉を大事にしていて、NHKのアナウンサーが、「爽やかな5月の空でした」などと言おうものなら、即座に抗議の電話を入れるとか。私もそういう表現に出会うと、「やれやれ」と思います。俳句をやっている人なら、絶対にしないであろう表現。← 何が悪いのか、わからない方はメールをくださいな。
こういうように、言葉の本質を知ることはできるな、と思います。季語の本意なんて、よく言いますが。文学をやるにあたっては、大事なことだと思うわけです。文章のリズムや助詞のひとつひとつを大切にするとか、ほかにもありますが、日本語、日本文化の奥深さを感じられるというのも大きいですね。
秋田市お堀の蓮の実