たかたかのトレッキング

駆け足登山は卒業、これからは一日で登れる山を二日かけ自然と語らいながら自由気ままに登りたい。

戦国の世に散った最後の城主・長野業盛の墓

2020年03月12日 | 散歩

休日とあって上毛野・埴輪の里(家から車で10分ほど)は多くの人で混みあい駐車場もほぼ満杯状態でした。 運よく停める場所を見つけた私達は、そこへ車を置き今日の目的である業盛の墓を訪ねます。

冒頭の写真は八幡塚古墳、こちらは二子山古墳  此処にはもう一つ薬師塚古墳と三つの古墳が残されております。 古代の長閑さがそのまま伝わって来そうな雰囲気ですよね

高崎から家に向かう県道沿いに掲げられている長野氏の墓の案内板が随分前から気になっておりました。 墓と言うからには当然、寺に埋葬されているのだろうと向かった先は大円寺 静まり返った寺の西側に広がる墓地をウロウロとしましたが、それらしきを見つける事は出来ませんでした。     尋ねる人の姿も見当たらず道路沿いの看板を再確認に行きますと運よく直ぐ脇の住宅で庭仕事をしていた男性が居りましたので声をかけてみますと面倒臭い顔もせず、わざわざ出てきて道順だけでは無く墓に纏わる経緯を語って下さったのです。                                           箕輪城を陥落させた武田信玄は自害した業盛の遺体を、どの寺にも葬る事は許さぬと言い渡し暫くは大円寺の境内に置かれていましたが丁度、そこへやって来た京都の僧が「余りにも不憫である」と遺体を貰い受け井野川の畔に葬る事にしたとの事です。(井野川は先日、アップしました野焼きの場所です)                         

仕事中の手を止めさせてしまった侘びを言い教えられた道順に従って常夜燈(↑)を過ぎ幾つか角を曲がりながら行きますと田圃が広がる中に標識を見つける事が出来ました。  

  

                                       

終に辿り着きました。 享年19歳の業盛は人知れず井野川の畔にひっそりと葬られていたのですね。 教えて下さった方が語っていた通り墓は武田の地、山梨を恨むかのように南西の方角に向けられておりました。

 

近年「業盛墓苑」として整備され祠一つが佇む当時の面影は無くなってしまい私としましては整備の行き過ぎを残念に思う面も無きにしも非ずでしたが、どうなのでしょうね。                                            

周辺は梅が咲きミツマタ、サンシュユが花盛りです。 無理矢理、土手を這い登ってサンシュユの近くまで行きますとモズがノンビリ日向ぼっこ、私達が感じている様にモズも春を感じているのかな!

農作業をしていたサンシュユの持ち主である男性が「サンシュユ持って行く?」と声をかけて下さいましたので遠慮なく戴く事に。歩けばこんな嬉しい事も有るものなのですね。

尚も歩き古墳が近くになった頃、これは何でしょう? パンパスグラス? 午後の日を受けて光る穂を風になびかせておりました。             回れる範囲に戦国の世に名を馳せた業政の墓や落ち延びた業盛の子ゆかりの場所が在る事も最近知りましたので近々、そこを廻ってみたいと思います。

一日おきにアップしておりますので記事が溜まって日にちが追いつきません。 暫くは毎日アップする様になると思いますが、お付き合い頂けますならば嬉しいです。