続き
この出入口は搦手口、いわゆる裏口です
屈折した石垣が敵の侵入を拒むかの様な防御の造りが面白いですね
土塁を支える石垣の組み方が中々モダンです。(矢筈積みと仰っていた様な気がしますが)
石垣の間を進むと空堀に掛かる木橋はあり畑に続いておりました
石垣を挟んだ北東の一段高く盛られた土塁は櫓台と言う名称となっており、ここからは桐生の町並みが見通せました
その櫓台に在った珍しい合体木です。1本の木が別れたのでなく異なる3本の木が成長し合体したものなのだそうです
客間
家族団らんの間 (説明をして下さる彦部家49代目の当主)
此処の床敷きは畳ではなく竹のすのこが敷いてありました
奥にお軸が掛かっている場所が床の間で奥行きが随分浅く押し板の厚さだけでした(客間の床の間も奥行き45cm位)
母屋の奥には織物全盛時代に利用された工場が残されていました。彦部家は古くから染繊を営み明治期には30人の女工を住まわせ本格的に織物業に取り組んだそうです。19世紀には黒染技法を習得し黒じゅすを生み出しました。
丁寧な説明を受け帰りにはお茶まで馳走になり彦部家を辞した時には長屋門を潜ってから2時間の時が流れていました。
ガチャ万という時代があったと聞いたことがあります。
何でも織機をガチャンと動かすごとに、当時の金で万というお金が入ってきた時代が
あったようです。
この彦部家も、そんな良き時代に染繊で財をなした家なのでしょうね。
石垣なんかを見ると、個人の家というよりは城のような感じを受けます。
素晴らしい建物が保存されていますね。維持管理が大変なのでしょうね。
桐生の織物は有名ですよね。
彦部家もすごい歴史のあるお家なのですね。
群馬も見どころ満載ですねやっぱり夫はしらなかったです。
いいもの見せていただきました。
石の組かたに 遊びごごろのある石垣ですね。
見事な石垣 丸い石を交互に組んでる
珍しいです
合体木面白いですね
こうなるとどれか育たなくなったりして強いのが残りそうなものだけ仲良く3本同じ様に育ってる仲のいい木ですね
49代当主って凄いですね
いったい何時の時代から続いてるのかな
様々な大きさの丸石を組み合わせで石垣を作られてるのですね。
石の声を聞きながら石組を作る、そんな言葉を思い浮かべる風景です。
人も石も組み合わせ次第という味わいが少なくなりましたね。
ガチャ万ですか。恥ずかしいですねぇ、漫画に登場するガチャマンやガッチャマンが頭に浮かんでしまいました。そうですか良き時代だったのですね。
彦部家は7世紀後半、天武天皇の息子・高市親王を祖とする旧家で室町時代に足利将軍の直参として使え京都で活躍後
関東の動静を幕府へ注進するため広沢豪に留まり1561年、太田金山城主から土地を賜り現在地に屋敷を構えたのだそうです。
丁寧な説明を受けたものの私も今一、掴み切れておりませんので後でネット検索をしながら彦部家の歴史を探ってみようかと思っている所です。
私も石垣のこの「やはず積み」という組み方は初めて見ましたし知りました。
この様な組み方をするには選ばれた石しか使えませんから石を揃えるだけでも大変な事ですし費用も相当なものだった事でしょう。
如何に彦部家が有力者であったか石垣一つを見ても分かりますよね。
関東に住み着いたのは江戸時代からですが室的時代から連綿と引受け継がれて来た彦部家の歴史は、やはり重文に値する価値は有りそうです。
石垣の組み方を見ても、ここまで気を配って施工させた彦部家が一筋縄では無い事が良く解りますよね。
長い年月彦部家の歴史を支え続けて来た石の一つ一つを見ていますと建物も然ることながら、こんな所に時の流れを感じてしまった私でした。
合体木も両端の木に圧されて中央の木は太くなれないのではないかと思いきや3本が同じ様に伸びています。国内でも珍しく類例は少ないそうですよ。
現在で49代目(50代目の当主は東京在住)ですからザッと数えて室町時代でしょうか。 現在の彦部家は江戸時代に此処に移り住みましたので、この地に来てからは17代目だそうです。その頃から染繊を営み桐生でも有数の織物経営となったと仰っておりました。
>石の声を聞きながら石組を作る
奥の深い言葉ですね。 組み合わせを間違えたら石垣は崩れてしまいます。職人さんは、まるで石と対話する様にジックリ眺め
一つ一つを丁寧に納めて行くのでしょうね。
この石が何処から運ばれて来た物か分かりませんが、この様な整った石を集める事は並大抵の事では無かったはずです。 しかし手掛けた職人さんの「矢筈積み」技法。この遊び心は素晴らしいですよね。