たかたかのトレッキング

駆け足登山は卒業、これからは一日で登れる山を二日かけ自然と語らいながら自由気ままに登りたい。

(5)安中歴史探訪・新島襄と湯浅治郎

2022年10月04日 | 史跡

続き

新島家の旧宅。見た目、戸建てに見えますが当時は二軒長屋で、境界は壁で仕切られていた様です。

   

新島襄            八重

安中藩士の長男として生まれアメリカで洗礼を受けた新島襄は帰国後キリスト教の伝道に努め後に八重の実兄・山本覚馬(元会津藩)らと共に同志社英学校を設立しました。後に八重と結婚する訳ですが戊辰戦争の際、黒髪を断ってスペンサー銃と刀で戦った男勝りの八重は大河ドラマ「八重の桜」でご存知方も多いと思います。襄は若くして亡くなりますが八重は同志社の発展に努め自らも教授となって教育に関わり87歳でこの世を去りました。書は八重の直筆、達筆ですねぇ。

襄氏がアメリカの友人に語った言葉「夫が東を向けと言ったら3年も東を向いている様な女性は嫌です」「彼女は見た目は決してハンサムでは有りません、ただ生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です

 

藩士だったとは言え当時の暮らしはこんなものだったのですね

襄直筆に寄る拓本と軸

新島襄旧宅を後にやはり新島襄とゆかりのある「有田屋」へと向かいました。現在も昔ながらの天然醸造の製法に拘った醤油づくりを続けているとの事です。創業は1832年、初代当主が若くして亡くなった後、妻であるまささんは二人の子供を育てながら家業を守りました。店が安中藩ご用達になる迄に持って行った2代目・次郎吉に寄り明治時代には醸造家としての有田屋が確立しました。

 

「富國」の銘柄が見えます。大きなレンガの煙突が此処へ来る時に見えましたが、ここからは見えませんね。店の隣に記念館がありここの醤油を使ったドーナツやお饅頭、お団子が食べられる様ですが、この日はあいにく売り切れでした。 

    

写真の人物は3代目当主次郎氏。明治11年、襄より洗礼を受けキリスト教に入信、翌年、県議会議員に当選し廃娼運動に尽力したり市内に日本初の私設図書館「便覧社」を開設、明治17年に妻の茂登子が亡きあと徳富蘆花の姉である初子を後妻に迎えます。明治21年、同志社社員に就任、襄が永眠した後、同志社理事となり82歳で永眠致しました。因みに今も現役の新島学園は次郎氏の弟、5代目正次氏が設立したものです。この5代目も詩や絵画に優れ二科会の創立に参加している人物です。余談となりますが私の姪二人も新島学園から同志社大学へ進みました。

江戸時代、参勤交代が盛んに行われていた頃の安中はこんな感じだったのでしょうね。長い安中歴史探訪となってしまいました。最後までお付き合いして下さった事に感謝しております。有難うございました。


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20 コメント

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Kさんへ (たか)
2022-10-06 14:50:15
こんにちわ、Kさん
4時限目からの授業に又お越しいただき有難うございます。
寺院巡りは前回しませんでしたので新鮮な気持ちで回る事が出来ました。城下町特有な寺の数ですので全部を廻っていたら、それだけで一日かかってしまいそうです。でも何かしら謂れが有りますので何時か又、回ってみたいとは思っております。
新島襄を取り巻く人物は私が知っているだけでも錚々たるメンバー揃いです。そこに一人、私の知らなかった人物が加わったのはJFKさんのブログに書かれていた熊野若王子神社の宮司・伊藤快彦氏でした。
当時はキリスト教に対する偏見から埋葬地の問題があった訳ですが、それを提供してくれた人物が伊藤氏だったわけです。今、神社の裏山は同志社墓地として十字架を付けた墓石がずらり並んでいる様です。
私は「八重の桜」を観ておりませんが八重が戊辰戦争で戦った女性で有る事、後に新島襄と結婚した事については知っておりましたが有田屋三代目当主・次郎氏は今回、初めて知った人物でしたので店で頂いた4枚つづりの印刷物で勉強させて貰いました。
私のブログ形態は余り長いと見る人も書いている私自身も疲れてしまいますので、なるべく単体形式でアップさせて頂いております。なので一日で終わらせず続き・続きとなってしまいますが多分この形態は変わる事は無さそうです。宜しくお付き合い下さいます様に。
今回は6時限目までの授業、お付き合い頂きまして有難うございました。
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okeiさんへ (たか)
2022-10-06 14:19:36
こんにちわ、okeiさん
板鼻や安中は明治の頃から国道が開通しましたので中山道を通る人は無くなり板鼻も安中も松井田も市街地は置き去りにされてしまいましたね。
これだけの歴史を持ちながらネームバリューが薄いのはやはり国道、そして高速道路の為なのでしょう。道迷いして偶々市街地に入ってしまったと言う事さえ絶対に有りませんものね。
山の傾斜地に建つ東邦亜鉛は物心ついた頃から建っていた工場ですが夜、長野方面からの帰り道には煌々と点く灯りに目を奪われたものです。それはそれはドキッとする程の美しさでした。 その夜景が見納めと言う噂が囁かれたのは今年春の事。工場側では多少の縮小は有るものの稼働はしているので、あの光景が消える事は無いとの事です。
一時、公害問題で川の水が汚染され魚の大量死、桑の立ち枯れで蚕が生育不良を起こし絹織物に大打撃が生じましたが、その後、訴訟問題は解決されたのでしょうか。
歴史探訪もあらかじめ知識が有ると無いでは面白味も変わって来ますよね。是非訪れてokeiさんの視点でブログを完成させてください、楽しみにしております。
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いちごみるくさんへ (たか)
2022-10-06 13:55:02
こんにちわ、いちごみるくさん
昨夜、来客が有りましてお返事が遅くなってしまいました。ごめんなさいね。
いちごみるくさんにとりまして安中は馴染みが無いと思いますが同志社=新島襄、大河ドラマ「八重の桜」と言えばご存知かと思います。
安中には襄ゆかりの新島学園が在りますので子供の頃から知っていた人物でした。エピソードの「彼女は見た目は決して・・・」と言った事に対して八重は襄の事を「ジョー」と呼び捨てにしていたそうですから、あの時代の事、八重さんの性格が良く現れていますよね。
醤油の有田屋さんも代々素晴らしい人材が世に排出されています。初代当主は若くして亡くなってしまいましたが店も畳まず二人の子供を育てながら店を守った精神が代々に受け継がれたのでしょう。まささんの力は凄いものです。私にそれが出来るかと言われればとても自信はありません。
スーパーで大量生産され安価な醤油が店頭に並ぶ中、結構なお値段では有りますが富國醤油は不動です。
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Unknown (たか)
2022-10-05 22:15:05
いちごみるくさん、okeiさん、Kさん
明日ゆっくりコメントさせて下さい。
申し訳ございません。
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又お邪魔します。 (小父さんK)
2022-10-05 13:54:36
妙光院はりっぱなお寺ですが、この回は意匠瓦に注目されたんですね。

いろんな飾りがついていますね~。裕福なお寺さんのようです。

世の中を動かすようになる人は皆、東京が基本なんですね。
しかし襄さんそこで志を立て函館に潜伏して米国に密航とは大胆ですね!

うわー、彼岸花が眩いです。
銀モクセイのが漂っているとは、最高です。

>心を虜にする品の良さと奥ゆかしさが有ります。

このような、人生の楽しみ方を私はまだ経験しておりません(泣)

>戸建てに見えますが当時は二軒長屋で、境界は壁で仕切られていた様です。

屋根に趣きを感じます。

>八重の実兄・山本覚馬(元会津藩)らと共に同志社英学校を設立しました。

そんなことだったんですか!

「八重の桜」は、綾瀬はるかの勇ましさばかりをボーっと観ていましたが、へ~っ、今確認しましたら「京都編」で兄・山本覚馬(西島秀俊)が京都に居て八重が訪ねたところまでは、ぼんやり覚えていますが、その後、新島襄との出会いがあり、同志社大学設立へと向かったなんて、そう言えばそんなテレビも観たような観なかったような・・・懐かしく思い出しています。

でも新島襄と八重が結婚したことなど完全に忘れていました。

>・・・ただ生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です」

粋ですね~。

でも、テレビをご覧にならない、たかさん「黒髪を断ってスペンサー銃と刀で戦った男勝りの八重」なんて書物から得た知識なんですか?

天然醸造の醤油~3代目当主次郎氏~襄より洗礼~県議会議員としての活躍~徳富蘆花の姉を後妻~同志社社員から理事~新島学園~二科会の創立
(たかさんも出展しました?)~姪二人も新島学園から同志社大学

いやはや、小説みたいですね!

江戸時代、参勤交代人形を拝見すると街道の旅籠ほかは相当潤ったことでしょうね。
中山道の黄金時代だったんでしょう!

たかさんの文筆ほかのページ作りには尊敬します。
すっかり楽しませていただき、有難うございました。
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たかさんへ (okei)
2022-10-05 12:50:04
安中市の歴史探訪大変興味深く読ませて頂きました。
安中市と言えば長野方面に遊びに行く時に通る道中でしたが、私が中高時代はその左手に大きな東邦亜鉛がそびえ立ち公害問題が大きな話題になっていました。
そのために何となくマイナーなイメージが強く残っていました。
思えば通過点で市内に立ち寄ったことは記憶にありません。
この投稿を読み込んでから散策したらきっと違った目で歴史を感じる事ができると思いました。
いずれ是非行ってみたいと思います。
そう言えばこの辺りには少なかった私立高校、家の近所からも稀に新島学園に通っていた人が居たなぁって思い出しました。
夫の同級生も新島学園から同志社大学に進んだ方が居たそうです。
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Kさんへ (たか)
2022-10-05 11:33:51
こんにちわ、Kさん
3時間目までの授業を脱落せず長々と有難うございました(笑)感謝です。
安中は小さな町ですが中山道の宿場町として当時は大変な賑わいを見せていた様です。今、町は寂れてしまいましたが交通の要所に変わりなく国道、高速道路が敷かれ人間に変わって車が頻繁に通り軽井沢の帰りなど渋滞は覚悟の道でしたので私達は裏道を通って帰ったものでした。県内を走る中山道も松井田、安中、板鼻、豊岡、倉賀野の宿場町を抱えておりますが今では殆ど名ばかりです。
ロマネスク様式の安中教会は新島襄の死後、湯浅治郎氏に寄り大正8年に「新島襄記念館」として建てられたもので現在も牧師さんに寄る日曜のミサが行われている様です。
Kさん、ご実家のポンプが陶製とは貴重ですね。文化財ではないですか。
安中城の絵が残っていた事で当時のお城がどのような物であったか知る事が出来ますね。箕輪城が現存していないだけに私もこれには興味を持ちました。猪狩氏のお陰で廃藩置県迄の安中藩の全容が明らかにされ当時が見えて来るおもいでした。
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ケイさんへ (たか)
2022-10-05 10:48:49
私の家にテレビが有りませんので「八重の桜」は観ませんでしたが数年前、友人の案内で碓氷郡役所を訪れた時、丁度「八重の桜」の企画展が模様されており興味深く観た事が思い出されます。
新島襄は群馬出身ではなく両親が安中藩の江戸詰めだった頃、江戸で生まれ江戸で育った人物ですがアメリカから帰国した時に両親が安中に戻っておりましたので両親に会うため写真の長屋で過ごしたのは僅か2週間くらいの事なのだそうです。
その間、仏教徒ばかりの田舎町でのキリスト教の布教活動はさぞや身を粉にするものだった事でしょう。でも捨てる神あれば拾う神ありで熱心な不況により襄は多くの賛同者を募る事が出来たのですよね。 テレビを観て直ぐに行動を起こされたケイさんも凄いなと思いました。まるで八重さんの様では有りませんか。
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ベルさんへ (たか)
2022-10-05 10:10:44
こんにちわ、ベルさん
たった一日のプチ探訪記でしたが長いブログになってしまいました。此処は観光客がツアーバスで押し寄せる様な観光地ではなく、どちらかと言うと知る人ぞ知ると言った場所ですが保存状態が良く当時の生活がリアルタイムで伝わって来る事が観る者に満足感を与えてくれます。
「明治に作られたR18号」「渋滞緩和の為、新たに作られたバイパス」「高速道路」と言う3つの道路に挟まれた安中市街地は置いて行かれた観光地になってしまったのです。勿体ないですよね。そういう私も数年前に友人が案内してくれなかったら知らなかった歴史町でした。
今度は安中の隣に在るここも安中と同じ運命に埋もれた板鼻宿も回ってみようかなと思っております。昔の交通の要所であり宿場町で栄えた「中山道」ですが、まるでゴミ箱を漁る様な地味な探訪なのですよ。
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イケリンさんへ (たか)
2022-10-05 09:33:52
国道17号→18号の間違いです。
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(5)安中歴史探訪・新島襄と湯浅治郎 (いちごみるく)
2022-10-05 09:24:49
たかさん おはようございます。

安中歴史探訪、詳しく教えて下さってありがとうございました。

妻の八重さんも幕末のジャンヌダルクと云われるほど活躍された方だったのですね

アメリカの友人に「彼女は見た目は決してハンサムでは有りません、ただ生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です」と語った襄氏も人からそう想われる八重さんも素敵な方だったのでしょうね


老舗の醤油屋さん、初代まささんの並々ならぬ
仕事と子育てを見事に両立されてその思いが実って
長年にわたり守り受け継がれてこられたのですね
素晴らしいですね
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イケリンさんへ (たか)
2022-10-04 23:34:32
こんばんわ、イケリンさん
安中の旧道(中山道)は国道17号線が出き、その上、近年バイパスも作られましたので旧市街を通る事は無くなりました。
確かイケリンさんも通られた事が有りましたよね。あの時は達磨の少林山へも行かれたのでしたっけ?
私達も登山の為に安中は良く通りますが単なる通過点に過ぎませんでした。
数年前、安中・松井田の友人が案内してくれなかったなら私も宿場町の印象だけで終わっていたでしょう。
と言う事で、この日は主人を案内しながら安中の歴史をお浚いして参りました。
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まるこさんへ (たか)
2022-10-04 23:15:42
こんばんわ、まるこさん
上毛かるたに詠われた新島襄ですね。
それをご存知と言う事は群馬県に所縁が有ると言う事ですね。
群馬県の小学生は誰でも上毛かるたを学んで育ちました。
子供会では毎年かるた大会が行われますよね。
真剣な目で札を見つめる姿は可愛くも有り頼もしくも有ります。
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JFKさんへ (たか)
2022-10-04 23:04:34
こんばんわ、JFKさん
2015年のブログ、拝見させて頂きました。
宗教の問題はお墓一つにしても当時は面倒な事だったのですね。
伊藤快彦宮司さんの功績は歴史に刻まれる1ページと言えましょうか。
恥ずかしながら私の知らなかった事です。
私のブログの最後をまとめて下さったJFKさんのブログに感謝しております。
有難うございました。
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Unknown (小父さんK)
2022-10-04 21:12:06
さあ~て、どうやって書きましょうか

前橋、富岡、箕輪、安中をグーグルマップでぼんやりとイメージできました。

へーっ、井伊直弼が13代目で井伊直政が初代なんですか・・・。
もう頭がスト起こしそうです(笑)
正室の墓というくらいだから、側室の墓はあっちこっちにあったのでしょうね(笑)

「碓氷郡役所」って、あれ碓氷の宿場はないのですか?
YAMAP には 碓氷峠がたくさん出ているようですが・・・。

中山道って69宿もあるんですか!
私はちょっぴり興味があるんです。
輿入れの皇女和宮が通ったし、JRも中央線という名があるのに単線だったり無人駅も多くて・・・。
奈良井、妻籠、馬籠でちょっと写真を撮っただけですが、どうして東海道にお株を取られてしまったのかって?

中山道上州七宿画展真田重吉画展(常設展)のページがヒットしました。

ロマネスク様式の安中教会(新島襄記念会堂)はモダンな建物ですね。
新島襄もここで伝道していたのですか!

>このポンプ、私が子供の頃、家にも有ったっけ

福岡で私が育った家のポンプ本体は瀬戸物でしたよ(笑)、古い農家から買った家でしたが・・・。

>敵の侵入を防ぐ為の堀や鍵型の路地が

戦の知恵は全国に存在したんですね。

安中城、とても興味深いです。
天守建築(戦国時代からか?)以前は皆このような平城だったんでしょうね。
西部劇に出てくる砦や要塞に似ていると思います。

>旧安中藩郡奉行役宅

なるほどなるほど。

>曲り家形式

「母屋と厩(馬屋)がL字形に一体化していることから、『曲り家』と呼ばれる。」
又、賢くなりました。
どこかで見たことがあるような、ないような。

>80cmある夫婦雛

りっぱです!

>猪狩氏の肖像画。当時には珍しい油絵の具で描かれています。

へーっ!

>桐の木で作った火鉢

当時の最高の贅沢品でしょう!?

>武家長屋が見えて来ます

これは写真でも初めて見ました!!!

庭園風に野菜栽培ですか!
映画『たそがれ清兵衛』暮らしもこんなだったのか?
       ↓
https://blog.goo.ne.jp/goo221947/e/3c122aa7fc8bdaebc91c7c1617ee18f7

>安中城は箕輪城の支城として・・・廃藩置県に寄り機能を閉じました。

いやー、すばらしい。
まだ3時間目の授業でしたね(笑)、ひとまず休憩させていただきます。

有難うございました。
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Unknown (ケイ)
2022-10-04 21:05:32
たかさん、こんばんは。
大河ドラマで八重の桜が放送された後に安中市に行きました。
安中教会と新島家の旧宅の写真を懐かしく拝見しました。
でも安中全体をこんなに詳しくは知らなかったです。(^^;
詳しく説明して下さって勉強になりました。
ありがとうございます。(´艸`*)
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Unknown (ベル)
2022-10-04 20:14:42
こんばんは
超大作お疲れさまでした
雄さんが行ったことない安中ってどこだろうって
イケリンサン同様気になって地図見てみました
あまりに近くてなかなか気が付かなかった(笑)
お隣なんですね  古い物訪ねて彼方此方行ってるのにここは行ってなかったんですね
これだけのものが残ってる場所かなり有名な観光地なんでしょうね
何時でも行けるから後回しってやつですかね
よくここまで風減されてる
っ当時の生活がよくわかりますね
返信する
安中市 (イケリン)
2022-10-04 18:35:01
たかさん
安中市は高崎市のお隣になるのですね。
比較的お近くではあっても、訪れられたことがなかったご主人を案内しての
隣町探訪も、古い歴史的建造物もたくさん残されていて、見るべきところが多かったようですね。
新島襄といえば同志社の創設者であることは知っていましたが、ここがゆかりの地であったとは
知りませんでした。
このように隣町へ、ぶらっと出かけるのも、旅の一つであることには間違い無いですね。
新しい発見もあって十分楽しめたようです。
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Unknown (まるこ)
2022-10-04 18:01:07
平和の使い新島譲❣️
上毛かるたで鍛えました。懐かしい。
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Unknown (JFK)
2022-10-04 17:23:20
こんにちは。
2015年5月16日の私のブログで、新島襄の話を書きました。
よかったら覗いてみてください。
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