6歳と8歳の孫達。そして私。タブレット・デビューです。
タブレットを持つべきか?必要ないか? と。 迷い続けていた私です。
迷っているそんな時。
孫から連絡あり。
「英会話クラスの宿題がタブレットに送られてくることになったので、タブレット・デビューだよ!』 ですと!
ネイティブの先生が一週間分の英語の会話をタブレットに入れる・・・孫達は毎日先生の会話を聞きながら真似して繰り返す。
『タブレット宿題』です。
世の中変わりました。
6歳と8歳といえども・・・タブレットに対する特別感はまるでない。 『タブレット宿題』も普通のこととして考えている。
私の購入した 『タブレット』
まさか! 孫達に負けてはいられない!
迷いは吹っ切れて・・・私も、孫達と同時の、『タブレットデビュー』です。私も変わりますよ!
そして。
今日は3月5日。四旬節第三土曜日。
『今日の福音 イエスの言葉』 義とされたのはどちらのお方?
『二人の人が祈るために神殿に上った。
ファリサイ派の人は立って、心の中でこう祈った。
「わたしは週に二度断食をし、全収入の十分の一を捧げています。」
徴税人は、遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら(回心の印)言った。
「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」
イエスは、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、話された。
「義とされて帰ったのは、徴税人であって、あのファリサイ派の人ではない。
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」ルカ福音書 18章9-14節
つまり。こういうことです。
イエスは、
義とされるのは、『へりくだる徴税人』である。
『高ぶるファリサイ派の人』は、義とはされない。
・・・・と断言なさるのです。
ファリサイ派の人は。
正しい生活を送る、週二日の断食と収入の1/10の献金、とてもすばらしい人です。
しかし。
彼は神に何も願いません。自分の正しい立派な行いで、もう救われていると思っているのです。
自分は、自分自身を救うことができると思う、『高ぶる者』 傲慢な人なのです。
一方。
徴税人は。
神に願っています。「主よ私を憐れんでください。あなたなしに私は救われません。」と。
神の許しを願う、『へりくだる者』 謙遜な人なのです。
『救い』は、神の恵みです。神が無償でなさることです。
『救い』は、私たちの正しい生活で保障されるのではありません。
私達は、神から赦しを受ける必要があることを認める時、『義』とされるのです。赦されるのです。
皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
赦して・・・赦される。 ではなく逆です。 神に赦されたので・・・私達は赦すことができるのです。
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今日3月5日の走行距離:14㎞。
5時半。足底の故障をかばいながらのラン・・・あと一週間後です
3月走行距離合計:62㎞