『預言者 エレミア』
ミケランジェロ作品。システィーナ礼拝堂天井画。
『預言者』は、
自己の思惑ではなく、啓示された神の意思を伝達、あるいは解釈して、民に伝えます。
しばしば
社会常識をくつがえすような『改革』をもたらすことも多く、
社会に受け入れられず、窮地に立たされることが多く、エレミアのように、『苦しみ哀しむ姿』が見られます。
『今日の第一朗読 エレミヤのの預言』 預言者・エレミアの哀歌です。
『主が知らせてくださったので、わたしは知った。
主が、彼らが何をしているかを見せてくださった。
彼らはわたしに対して悪だくみをしていた。
「木をその実の盛りに滅ぼし、生ける者の地から絶とう。
彼の名が再び口にされることはない。」
正義をもって裁かれる主よ。
わたしに見させてください、あなたが彼らに復讐されるのを。
わたしは訴えをあなたに打ち明け、お任せします。』 エレミア書 11章18-20節
預言者・エレミアは
自分に託された『神の意志』を民に伝える程に、民からの迫害が大きくなります。
成すべき方法が見つからないエレミアは、主に祈ります。
”主よ、私はやるべきことをするのみです。
民が正しいのか?私が正しいのか? あなたにお任せしますので、結果を見せて下さい!”
『わたしは訴えをあなたに打ち明け、お任せします。』 と。
そして。イエスも。
今日は3月12日。四旬節第四土曜日。
四旬節も大詰めを迎えてきて、イエスの受難の前、『哀しみの聖句』が続きます。
『今日の第二朗読』 預言者・イエスの哀歌です。
『イエスの言葉を聞いて、群衆の中には、
「この人はあの預言者だ」と言う者や、「この人はメシアだ」 「メシアはガリラヤから出るだろうか。」
こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。
すると、ファリサイ派の人々は言った。
「律法を知らないこの群衆は、呪われている。」
ファリサイ派の中の一人で、以前イエスを尋ねたことのあるニコデモが言った。
「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何を確かめたかでなければ、
判決を下してはならないことになっているのではないか。」
ファリサイ派の人々は答えて言った。
「ガリラヤからは預言者が出ないことが分かる。」』 ヨハネ福音書 7章40-53節
イエスの話を聞いて・・・
群衆・一般の人は、
信じる人も、信じない人もいます。今までの考えと違っていたので、理解が難しかったのかもしれません。
ファリサイ派の律法の達人は、
”メシアはガリラヤの出身者であるはずがない!”と、自分の知識に頼り、頭を切り替えられません。
議員の一人・ファリサイ派の一人・ニコデモは、
イエスに関心を持ち、以前にイエスを訪ね、話を聴いて・・・感心しました。興味を持ちました。
人は・・・
先入感で人を判断しがちです。
「メシアはダビデの町であったベトレヘムで生まれるはずだ!」と。
「メシアはダビデの子孫であるべき!」と。
(イエス)事実を見ることなく、自分の知識に頼ります。
エレミヤやイエスの哀しみの姿を思うと・・・
思い出します。
『涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。
種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、
束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる』 詩編126章5&6節
私達も・・・
まず先入感を捨てて、まず本人から話しをまじめに聞かなくてはいけません。
まず、人や物事を判断するには、『柔軟な心』が必要ですね。
イエスの言葉をよく聞いて、イエスを信用できると楽しいですね。
皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
寒さがぶり返す明日・日曜日のようです。暖かくして、素敵な日曜日をお過ごしください!