今日は1月9日。月曜日。 『主の洗礼 祝日』
『イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。
彼から洗礼を受けるためである。
『主の洗礼』 エル・グレコ作品
『ところが、ヨハネはそれを思いとどまらせようとして言った。
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
しかし、
イエスはお答になった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」
そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。』 マタイ福音書 3-13~15節
『主・イエスの洗礼』の不思議・・・一つ。
罪の汚れもしみもない神の御子に、どうして洗礼が必要なのでしょうか?
それは・・・
イエスが、
『ヨハネの洗礼』を受けるのは、、
洗礼を必要とする人間たちと同列に加わる。 という意味があったのです。
『キリストは神の身分でありがなら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。』
フィリピの信徒への手紙 2章6-8節
ヨハネは、
将来、罪の赦しを得させるために、『悔い改めの洗礼』 を人々に宣べ伝えていました。
今、神に背を向けている生き方を方向転換して・・・
『神の方を向いて生きる』 その 『方向転換の印』 としての洗礼を授けていました。
では・・・
『洗礼』とは何か?
人祖・アダムとイブが、
神への背信=禁断の実を食べる=によって、楽園・神の国を追われて、『罪人』としてこの世に送り出されました。
そして。 この世での生を終えたのち、
罪が許されて、楽園に戻るためには、水をくぐり生まれ変わる『洗礼』が必要だということです。
旧約時代・・・『ノアの洪水』: 義人・ノアとその家族が洪水から箱舟で救われたことは、『洗礼による救いのしるし』です。
『エジプト脱出』:イスラエル人が紅海を渡って解放されたことは、『洗礼による救いの前表』 でした。
新約時代・・・『キリストの磔刑の受難』: キリストは、『自分の受けるべき洗礼』と言いました。
『十字架上のキリストの血と水』:新しい命の秘跡である、『洗礼と聖体』の象徴といわれます。
キリストは、
人間と同列の立場から、人間の苦しみに寄り添いながら・・・
御自分の死と復活により、『死』に勝利し、
洗礼を通して、私達に、『復活の新しい命』 をもたらし、『神の救い』を完成させたのです。
『イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な祭司となって、民の罪を償うために、
すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。
事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。』
ヘブライ人への手紙 2-18
以上。 『カトリック教会の教え』 を参考にしました。
イエスが洗礼を受けた後・・・
『驚く事実』が起こります。
『イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。
イエスは、神の霊が鳩のように御自分に降って来るのを御覧になった。
もう一つ。 『主の洗礼』 エル・グレコ作品
『そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」 という声が、天から聞こえた。』
マタイ福音書 3-16&17
ここで。
『主・イエスの洗礼』の不思議・・・二つ目。
天から聞こえた 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」 の意味は何?』
それは・・・
キリストこそ、神の愛する子、神の心に適う者、『神の僕』 『救い主』。 ということです。
天から聞こえた『言葉』 は 『神の宣言』でした。
キリストは、
イザヤ書42章1-7で言われている 『神の僕』 の預言の成就なのです。
『見よ、わたしの僕、私が支える者を。 彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。
見ることのできない目を開き、捕われ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために。』
イザヤ書 42章1-7
イエスは、
『ヨハネの洗礼』を受けた時・・・
天から預言とおりの神の声が聞こえ、聖霊がイエスに降り、
神の人間救済計画を実現するための力が、イエスに与えられました。
ヨハネの洗礼によって・・・
聖霊が降り、神の人間救済計画を実現させる活動を始める、『出発点』を迎えたのです。
私達も、
『イエスの洗礼』を受ける時・・・
聖霊がイエスの上に降ったように、私達にも聖霊が降るのです。
聖霊の力が私達にも働き、知恵も信仰も深まっていくのです。 嬉しいですね。
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
今日はおめでたい成人の日。 皆様はいかがお過ごしでしたか? 熟年者の我が家は、夫はゴルフ。
私は、新聞の「終活として、書きにくくなったボールペンなどから、一日3点捨てましょう」の『記事』に啓発され、断捨離の一日でした。