今日は3月6日。四旬節第四主日。
回心の道を歩むクリスチャンたちの『四旬節』。半分まで来ました。
今日は、『放蕩息子』 と 『マラソンランナー』 の青年たちの姿から、人生を学びました。
どんな『人生』を描くのか? 『人生』は、その人その人、自分が決めるものと学びました。
午前中。 主日ミサで教会。
『福音書の中の真珠』と言われる『放蕩息子』のたとえから、ミサ参加者は回心を深めます。
『放蕩息子の帰還』
レンブラント作品。1666-68年。 エルミタージュ美術館。
『放蕩息子』のたとえは、こういうことです。
ある人に、二人の息子がいた。
弟の方が、まず、『自分の人生』を自分で決めて、親元を離れて、歩き出します。
まず・・・
弟の方が、親が健在なうちに、財産の分け前を請求します。
そして、
父は、弟の要求通りに、財産を二人の息子に分けてやります。
次に・・・
弟は、
生前分与を受け、数日後に、全財産をお金に換え、遠い国に旅立ち、そこで放蕩に生きて、散財します。
大飢饉が起きて、その放蕩息子は、ユダヤ人が汚れているとしている豚の世話の仕事をして、生計を立てる。
豚のえささえも食べたいと思うくらいに、飢えに苦しみます。
弟は、
そんな惨めな日々に、我に返えり・・・『帰るべき所は父の所』 と思い立ち、帰途に着く。
父は、帰ってきた息子を遠くから見つけ、嬉しく、走りよって抱きしめます。
息子の悔い改めの前に、まず、『父の赦し』があるのです。
父親は、弟のために、最高の洋服を準備し、最高の祝宴を開きます。
一方。
兄は、
与えられた父の財産は大切にしまい込み?
『自分の人生』を自分で決めて、親元を離れず、今まで通りの『畑仕事の道』を歩き出します。
後に、
兄は、父親が破産して父の元に戻った弟を許し、更に大宴会まで開く父親を許せず、
父親を妬んで、父親に不満をぶつけ、弟を軽蔑します。
父親は、そんな兄をたしなめるのです。
『今日の福音 イエスの言葉』 『放蕩息子とその家族たち』 のたとえ。
昨日の、『へりくだる者・徴税人』 と 『高ぶる者・ファリサイ派の人々』 のたとえ、と重なります。
『「この人(イエス)は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と
不平を言いだしたファリサイ派の人々や律法学者たちに、イエスはたとえを話された。
『ある人に息子が二人いた。
弟の方が父親に、『お父さん、私が頂くことになっている財産の分け前を下さい』と言った。
父親は財産を二人に分けてやった。
何日もたたないうちに、下の息子(弟)は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、
そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 彼は食べるにも困り始めた。
食べ物をくれる人はだれもいなかった。
そして、彼(弟)はそこをたち、父親のもとに行った。
ところが、まだ遠く離れていたのに、
父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
息子は言った。
『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
しかし、父親は僕たちに言った。
「急いでいちばん良い服を持ってきて、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
それから、肥えた子牛を連れてきてほふりなさい。食べて祝おう。』
『この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
兄は父親に言った。
『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。 言いつけに背いたことは一度もありません。
それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子ヤギ一匹すらくれなかったではありませんか。
ところが、
あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰ってくると、肥えた子牛をほふっておやりになる。』
すると、父親は言った。
『子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。
だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。
祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
ルカ福音書 15章1~32節
この話しの『主題』は、『父親=神の愛』 です。
差別されている者を受け入れて、神に逆らった罪人を迎え入れてくださる、『神の愛』です。
『心を満たす真の糧』 を下さるのは神のみです。
『兄にねたみ』 の質問に対する 『御父の答』
『子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。』
これ以上の『愛の言葉』の返事はありません。
兄に欠けていることは、『父の愛、父の善、父の豊かさ』 に気づかないことです。
ファリサイ派の人々に欠けていることも、兄同様に、自分の正しさを計りにして、人を裁くことです。
以上。
私は、『神の愛』に気づいているだろうか? 人を、自分の基準で裁いてはいないだろうか?
回心は出来ているでしょうか?
以下は。
今日の『司式司祭の言葉』です。
『神の兄弟として生きる私達の中での『ねたみ』は、どんな小さな共同体でも、共同体をむしばみます。
兄は、ねたみから、弟を、『あの息子』と呼び、『私の弟』と呼ぶことがない。
私達は、全ての人が『御父の子供』であり、全ての人は『兄弟』なのです。
兄弟間のそれぞれの『神の恵み』を、 『ねたむ』のではなく、単純に喜び合うことが大切です。』
そして。
午後。 『第71回びわ湖毎日マラソン』 の観戦。
スタート5分前の・・・ 『マラソンランナーたち』
『人生』 を思いながら、見守りました。
沢山のそれぞれの『人生』を振り返りながら、応援観戦しました。
弟のように・・・
『神の愛』に気づくための『荒野』を自ら選択して、歩み続け、『朽ちることのないゴール』を見つける人生。
兄のように・・・
自らの『人生』の選択に自信がなく、人をねたみ、自分の行いにのみ頼り、『神の愛』に目を向けるのが難しい人生。
琵琶湖マラソン選手のように・・・
自ら選択して、全力を尽くして目標に向かって、集中力、エネルギー、忍耐力の 『極限に挑戦する人生』。
使徒パウロも・・・
『神と人々に仕える人生』を自ら選択して、人生をレースを走りぬくことにたとえ、走り抜きました。
『わたし自身は、世を去る時が近づきました。
私は戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走り通して、信仰を守りぬきました。
今や、義の栄冠を受けるばかりです。』 テモテへの手紙Ⅱ 4章6-8節
オリンピック出場に全てをかける。 一方。 神に全てを献げる。
それぞれの『人生』において、最高のものを得る『ゴール』のために、情熱を注ぐのです。
限界に挑むランナー。 病む人を癒す医者。 人の人格を守る弁護士。 安全な建物を建てる建築家。
将来の人材を育てる教育者。人の命を守る農業者。 愛を教える母親。等等。
『それぞれの選択の人生』において・・・責任を持って迷うことなく、最善をつくして、人生を走り抜く!
神が与えて下さった賜物と才能を用いて・・・この世で、創造主に栄光を帰す!
な~んて。
回心しながら・・・穏やかな暖かい主日でした。
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
人生に満足ですか? 難しい質問ですよね。 でも、自らに問い続けなくてはならない質問ですね。
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今日3月6日の走行距離:12㎞。
5時半。 出会ったランナーは5人。皆さんお若い。 散歩の方は、皆さんお布団から出られないのか? ゼロ。
走り込んでいた頃と、体重も筋肉量も皮下脂肪率も変わらない。でも、あの頃より更に遅いのは、年ですね!
3月走行距離合計:74㎞