仕事をしていて「出来ない」とか「分からない」と言うのは恥ずかしいことだと思っていた。
出来ないなら出来るようになる、分からないなら分かるようになる。
給料をもらうって、そういうことだと思っていた。
そんな風にしていると、頼りにされたり疎まれたり、肩肘張ってるように見られたり色々だったけど
そのうち「出来ない」とか「分からない」と言える人は
見栄を張ったり知ったかぶりをしない偉い人なのかも・・・と考えるようになったりもした。
でも最近、やっぱりそんなこと口に出せる人って
そういうことを口にしても、自分の価値が目減りしないって確信がある人なんだろうなって思う。
そもそもわたしが頑張るのは、頑張らなかったら職場でわたしに価値があるか?
と思うからで、それはそれで問題だけど。
ちょっと頑張れば出来るようなことを、本当は分かるようなことを
出来ない、分からないって言ったほうが喜ぶような男もいるし。
だからなんだというわけでもない。
こういうこと、もやもやしたって、結局うらやましいんでしょって思われちゃうし。
男受けするのがうらやましくないと言い切る自信はないが
助けてもらうのが嫌だから、助けてもらわないで済むようにしてきたんであって。
こういうのって性分でしょう。
助けたい人助けられたい人。
男とか女にかかわらず。
こういうことでもやもやしてる自分を青臭いと思う。
多くの頑張り屋が、このもやもやをくぐり抜けてきたんだから。
女性が輝く社会っていうと、すぐに働く女性しか輝かないのかとか
そういう議論になるけれど、基本、働いてる人は輝いてないから。
働く男だってちっとも輝いてないのに、女だけ輝くわけないし。
輝かなかったらいけないのか、女が仕事してたら。
そもそも仕事が楽しいとか、仕事で輝くとか、まやかしだから。
楽しかったら遊びだし。
結果として、達成感や充実感を得られることはあるにしても
働いてる時のほとんどは、神経すり減らして体力消耗してぐったりだ。
何のために働くって、生活のためです。
税金を払ってゆくためだ。
やりがいとか輝きとか、きれいな言葉で仕事を冒涜しないで。
目の前の仕事を不足なくこなすこと、それだけで充分なのに。
だからやっぱりわたしは、出来ないも分からないも言いたくない。
言える人をうらやむ必要も蔑む必要もない。
ただ目の前の仕事をガツガツするしか能がないのだから。
出来ないなら出来るようになる、分からないなら分かるようになる。
給料をもらうって、そういうことだと思っていた。
そんな風にしていると、頼りにされたり疎まれたり、肩肘張ってるように見られたり色々だったけど
そのうち「出来ない」とか「分からない」と言える人は
見栄を張ったり知ったかぶりをしない偉い人なのかも・・・と考えるようになったりもした。
でも最近、やっぱりそんなこと口に出せる人って
そういうことを口にしても、自分の価値が目減りしないって確信がある人なんだろうなって思う。
そもそもわたしが頑張るのは、頑張らなかったら職場でわたしに価値があるか?
と思うからで、それはそれで問題だけど。
ちょっと頑張れば出来るようなことを、本当は分かるようなことを
出来ない、分からないって言ったほうが喜ぶような男もいるし。
だからなんだというわけでもない。
こういうこと、もやもやしたって、結局うらやましいんでしょって思われちゃうし。
男受けするのがうらやましくないと言い切る自信はないが
助けてもらうのが嫌だから、助けてもらわないで済むようにしてきたんであって。
こういうのって性分でしょう。
助けたい人助けられたい人。
男とか女にかかわらず。
こういうことでもやもやしてる自分を青臭いと思う。
多くの頑張り屋が、このもやもやをくぐり抜けてきたんだから。
女性が輝く社会っていうと、すぐに働く女性しか輝かないのかとか
そういう議論になるけれど、基本、働いてる人は輝いてないから。
働く男だってちっとも輝いてないのに、女だけ輝くわけないし。
輝かなかったらいけないのか、女が仕事してたら。
そもそも仕事が楽しいとか、仕事で輝くとか、まやかしだから。
楽しかったら遊びだし。
結果として、達成感や充実感を得られることはあるにしても
働いてる時のほとんどは、神経すり減らして体力消耗してぐったりだ。
何のために働くって、生活のためです。
税金を払ってゆくためだ。
やりがいとか輝きとか、きれいな言葉で仕事を冒涜しないで。
目の前の仕事を不足なくこなすこと、それだけで充分なのに。
だからやっぱりわたしは、出来ないも分からないも言いたくない。
言える人をうらやむ必要も蔑む必要もない。
ただ目の前の仕事をガツガツするしか能がないのだから。