小説やドラマや映画の感想で「見事な伏線回収!」とか「伏線が回収されないままなのでもやもやが残った」などと言われることがあり
確かに、ああここでつながるのか!などと感心することもあるけれど
伏線って、そんなに大事だろうかと思うことがたまにある。
それは、有名ではない昔話を読んだ時。
童話と民話の違いも良く分からないわたしだが、昔話が好きで日本のものも外国のものも読む。
昔話にもお国柄は現れることがあり、寒い国と暑い国では考え方からして違ったりする。
よく知られて有名なお話、グリムとかアンデルセンなどはなぜ有名かと言えば
やっぱり物語としてまとまっていて、人の心も惹きつけて伝承もしやすい内容だからだろう。
貧しくても優しい子が報われたり、賢い子が大金持ちになったりする。
勇気のある人が悪い魔物をやっつけてお姫様と結婚する。
聞いた人も納得できるはなしである。
ところが、最近読んだイタリア民話がことごとく、納得しづらいというか
なんでやねん!とツッコミを入れたくなるような内容で面白いのだ。
全然苦労をせずに、何かを手に入れたり、なんならちょっとずるい方法で幸せになったりしている。
しかも伏線が全く回収されないことも多く、例えば「さらわれたお姫様は農家で暮らすことになりました。そこには5人の娘がいました」
とあるから、5人の娘が意地悪するのかな?
それにしても人数多いな、と思っていると全く5人の娘のエピソードは出てこないうちに
場面はお城にうつり、王子さまに4人の姉がいた、という展開。
4人、多いなと思っていると上の3人は意地悪で末娘だけが優しいという、やっと王道に戻ったか?と思いきや
末娘のおかげで王子と幸せになれたお姫様に末娘が言うのである。
「あなたのためにいろいろしてあげたわたしには、何もないの?」
見返り強め!
優しい娘のまさかの見返り要求に脱力。
なんか、吉本新喜劇を見ているみたいなんである。
もしかして寝る前に子どもにお話をせがまれて、早く眠らせるために
5人の娘とか4人の姉とか適当な数字言ったのかしらん。
なんだかイタリアの適当さと陽気さが感じられて、これを読んでいると
伏線なんかどうでもいいじゃん、面白ければ!という気持ちになるのである。
確かに、ああここでつながるのか!などと感心することもあるけれど
伏線って、そんなに大事だろうかと思うことがたまにある。
それは、有名ではない昔話を読んだ時。
童話と民話の違いも良く分からないわたしだが、昔話が好きで日本のものも外国のものも読む。
昔話にもお国柄は現れることがあり、寒い国と暑い国では考え方からして違ったりする。
よく知られて有名なお話、グリムとかアンデルセンなどはなぜ有名かと言えば
やっぱり物語としてまとまっていて、人の心も惹きつけて伝承もしやすい内容だからだろう。
貧しくても優しい子が報われたり、賢い子が大金持ちになったりする。
勇気のある人が悪い魔物をやっつけてお姫様と結婚する。
聞いた人も納得できるはなしである。
ところが、最近読んだイタリア民話がことごとく、納得しづらいというか
なんでやねん!とツッコミを入れたくなるような内容で面白いのだ。
全然苦労をせずに、何かを手に入れたり、なんならちょっとずるい方法で幸せになったりしている。
しかも伏線が全く回収されないことも多く、例えば「さらわれたお姫様は農家で暮らすことになりました。そこには5人の娘がいました」
とあるから、5人の娘が意地悪するのかな?
それにしても人数多いな、と思っていると全く5人の娘のエピソードは出てこないうちに
場面はお城にうつり、王子さまに4人の姉がいた、という展開。
4人、多いなと思っていると上の3人は意地悪で末娘だけが優しいという、やっと王道に戻ったか?と思いきや
末娘のおかげで王子と幸せになれたお姫様に末娘が言うのである。
「あなたのためにいろいろしてあげたわたしには、何もないの?」
見返り強め!
優しい娘のまさかの見返り要求に脱力。
なんか、吉本新喜劇を見ているみたいなんである。
もしかして寝る前に子どもにお話をせがまれて、早く眠らせるために
5人の娘とか4人の姉とか適当な数字言ったのかしらん。
なんだかイタリアの適当さと陽気さが感じられて、これを読んでいると
伏線なんかどうでもいいじゃん、面白ければ!という気持ちになるのである。