まりはな屋

地方都市で、清貧生活  

ほどほど

2016年02月20日 17時40分21秒 | 日々雑感
安っぽいドラマで「俺を信じてくれ!」なんてセリフが出てくると笑ってしまうのに

なぜか信じることは正しいような気がするし、疑うことには後ろめたさを感じる。

「信じる」という感情が「疑うことを知らない」=「純粋」のような

簡単な図式に当てはまるからだろうか。

そもそも「信じる」ことは本当に純粋だろうか。

疑うことを知っているからこその「信じる」であって、

「信じる」というのは、ほのかな疑いを打ち消すために出てくる感情ではないだろうか。

自分の中の疑いを打ち消してまで信じるというのは無責任ではないかと思うのだ。

仮に、全く疑いを持たずに信じていたにしても「信じてくれ」と懇願されたにしても

信じたのは自分なのだから、「信じていたのに裏切られた」などと言うのはどうだろう。

わたしは子どもの頃から、自分の見ている世界さえ夢じゃないかと思っていたくらいだから

(テレビの対談で同じことを言っている人がいた。ちょっと嬉しかった)

何かを信じるということはなかった。

といって、なんでもかんでも疑って生きてきたわけではないのだが

どこかで、何かを信じられる人のほうが偉いんじゃないかと負い目を感じてきたのだ。

最近、やっと吹っ切れた気がする。

人が何かを信じるのは構わない。

信じるという感情が安らぎをもたらすこともあるだろうし。

でも自分は、信じる=「丸投げ」としか思えないし

そもそも自分の意志でどうにかなる感情ではないので

これから先、どうなるかはわからないけど

(だって、自分の気持ちが変わらないことなんて信じられないからね)

信じられなくてもいいと、思えるようになった。

期待しなければ絶望しない、とか信じなければだまされない、とか

とかくネガティヴと思われがちな考え方だけど

逆に言えば、絶望しないのであればいくら期待してもいいし

だまされてもいいのであれば、どんなに信じてもいいかもね。






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