新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

国立競技場は設計が悪い

2014-01-12 16:03:56 | コラム
観客にとっては球技が見にくいこと考えていない:

11日はアナウンサーが「最後の国立」だの「高校生あこがれの聖地」などと連呼する国立競技場で開催された高校サッカーの準決勝戦の2試合をテレビ観戦していた。「最後」という意味は2020のオリンピックのために国立が今年7月に取り壊されて再建されるかららしい事である。

ここで一寸話しを逸らすが、1945年に旧明治神宮外苑競技場が進駐軍に接収され(たのだろう)、戦死したアメリカの大学フットボールの優秀選手、Nile Kinnickに因んで「ナイルキニックスタジアム」と改称された頃から慣れ親しんでいたこの競技場はアジア大会のために一度改造され、東京オリンピックの主会場になって現在の形に更に改造(改良に非ず)されたと理解している。

この競技場で球技等を観戦された方の中にはお気付きの向きもあるだろうが、ここは極めてサッカー等の球技を観戦しにくく出来ているのである。それはオリンピックのような催し物のためには仕方がないのだが、フィールドの中央にある球技場の回りに陸上競技用に一周400メートルのトラックを付けてしまったためだ。即ち、観客席から遙か遠いところでサッカー、ラグビー(本12日にも大学選手権の決勝が行われていた)、フットボールの試合が行われているのを見なければならないのだ。私などは「これならばテレビ観戦の方が余程よく見える」とすら思うほど遠くて見えにくいのだ。

25~30年ほど前だったか、アメリカの大学フットボールの試合がここで行われた時に「良い席が取れた」と招待され喜び勇んで行ってみれば、スタンドの一番下の席になる低い位置でトラックに最も近かったのは結構だったのだ。だが、目の前のベンチにいる大柄のアメリカの選手たちの背中は良く見えただけで、遠くてプレーされていたフットボールは偶にしか見えなかった。

しかし、問題はここだけないしは、これだけに止まらないのだ。我が国の大きな地方都市の設けられたスタジアムはこの国立に倣ったのか、あるいは持ちまわりで開催される国民体育大会の開会式か主競技用の場にしようとしたのか、ほとんどが陸上競技用のトラックを付けてしまう。即ち、中央の芝生で行われる競技を遠くから観戦させられてしまうのだ。私は全国津々浦々でそう頻繁に陸上競技の大会が開催されるかどうかまで知らないが、この手の設計は観客の不便さを全く考慮していないと思っている。

そこで国立競技場だが、昨日は偶々カメラが観客席がどのように芝生のフィールドとトラックを囲んでいるかが見える画面を見せてくれた。遠近感は不明だが、スタンドは円形のようでハーフラインの辺りが最も遠くなっているかに見え、あれでは見にくくなっている訳だとあらためて納得した。しかもスタンドの勾配がなだらか過ぎるので、上に行くほどフィールドから遠くなっていくという不親切な形である。これは経験したから言っているのだ。

何れ、ここは改造というか新しい形になるのだろうが、当然ここには陸上競技用にトラックが付くのだろう。その際には観客が見やすくなるような工夫が少しは施されるのだろうかと、生きて見られるかどうかの見通し不明なオリンピックの後を心配している。何が言いたいのかと言えば「余程スタンドの勾配の角度を考え直さないと、双眼鏡か望遠鏡でも持参しないとフィールド(ないしはピッチ)で何が起きているかを窺い知れなくなりはしないかという意味だ。

アメリカで色々なゲームを見てきた経験から言えることは「あちらではスタンドはかなりな急勾配の設計だし、スタジアムが3~4階建てになっているものだ」である。大きな大学のフットボールスタジアムでは7万人は収容する設計だ。しかも、土地に余裕があるアメリカでは周囲に膨大な面積の駐車場が設置されている。Rose Bowl Stadiumの駐車場では、自分の車のにたどり着くまで20分ほども歩かせられた。我が国では駐車場が付くのだろうか。

これから選ばれる東京都知事と組織委員会の会長をお引き受けになった森元総理も、こういう点までにご配慮願いたいものだと秘かに願っている。

ところで、昨日の高校サッカーだが、決勝戦に残った富山第一も星陵もA代表のような(あるいは一回戦で負けてしまった國學院久我山のような)パス回しでもパスのためのパスもしない、一見粗野と言うか未だ原石のような力一杯のサッカーをやっていたのには興味があった。あれが、上に行ってしまうとパス回し尊重(偏重?)で思い切ったことをやろうとしないサッカーにならないことを望みたいもの。