トーナメント制の弊害か賜物か:
昨5日も室内に閉じ籠もってテレビのスポーツ中継ばかり見ていた。午前中にはNHKのBSでNFLのフットボールの録画があって十分に楽しんだが、これを採り上げて語ろうというのではない。その後の高校サッカーが面白くもつまらなくもあった点である。
中でも注目したの高校総体で優勝したと聞く市立船橋と昨年準優勝だった京都橘の準々決勝戦だった。日頃、我が国のA代表や女子の代表のゴール前の危機的状況からのクリヤーでも繋いで綺麗なパスのサッカーを展開する試合運びを見慣れていた目には、この我が国の高校サッカーを代表するのだろう両校のやり方は極言すれば「粗野」だったと見えた。
兎に角両方とも細かく繋いでいこうという意図が見えず、力強く前にいる味方にパスかとも見えるような強いキックで繋いでいき、走りまくってシュートに持っていこうとする、一昔前の力任せのサッカーかのように見えた。しかし、負ければそこで終わりのトーナメント制のゲームなので、飽くまでも安全を期して決して無理することなく、自分のゴールのそばからは細かく繋ぐ意思がなく大きく遠くに蹴って危機を未然に回避して、もしそのクリヤーからチャンスが生まれれば上出来だと考えているかのような蹴り合いで、高い水準の個人技を活かさないかの如き大味なサッカーに見えてしまった。
A代表との違いは「確かに高い水準にある個人技で攻め上がってパスをするのではなく、何とかシュートにまで持っていこうとの意図が見えた」のだったが敵も然る者で下がって待っているので、恰も壁に向かってシュートを蹴っているのかの如くだった。結果的には想定上位校の船橋は無得点に終わり、Jリーグ入りが決まっていると聞いた橘の小松屋の2点で京都が勝ち上がった。
私には今日の我が国のサッカーの原石のような形を採りながら、自分のゴールの近くからは逃げて安全を期そうという策を採って、組織的な攻め方をしないのは矛盾かなと思いながら見ていた。しかし、高校の頃から「パス回しのためのパス」をしないサッカーをやっているのは救いであるとも感じていた。
小松屋君だが、2点目を左サイドを走ってドリブルしながらボールを右足に回して「ゴールに対する角度を広げた形」にして決めたのは理にかなっていて良かったと評価している次第だ。あれを左足に回すと、右足が球の進む方向の角度を狭めてシュートの精度が低くなると、昭和20年に中学で教えられていたものだった。
現在の高校サッカーを見ていると、優れた素材は高校で部活をせずにJリーグ等の下部組織でサッカーの訓練に励んでいると見えて仕方がない。正確に数えたことはないが、A代表で一軍に残っている者や選ばれてきている者には下部組織から上がってきた者が増えているようだ。
これが良いことかどうかは別問題だが、私はサッカー部を持つ高校が4,000を超えている現状では、4,000人以上もの将来のA代表の原石となる素材を教え込める優れた監督やコーチがいるわけなないと考えている。それに、トーナメントを勝ち上がるためには子供たちを小さくその水準に合わせて育てていく結果になってしまうので、大成しない人材を育てる危険性が高いと考えている。この辺りは、大学に駅伝のためにマラソンの優れた走者が育ってこないのと同じだと言いたいのだ。
昨5日も室内に閉じ籠もってテレビのスポーツ中継ばかり見ていた。午前中にはNHKのBSでNFLのフットボールの録画があって十分に楽しんだが、これを採り上げて語ろうというのではない。その後の高校サッカーが面白くもつまらなくもあった点である。
中でも注目したの高校総体で優勝したと聞く市立船橋と昨年準優勝だった京都橘の準々決勝戦だった。日頃、我が国のA代表や女子の代表のゴール前の危機的状況からのクリヤーでも繋いで綺麗なパスのサッカーを展開する試合運びを見慣れていた目には、この我が国の高校サッカーを代表するのだろう両校のやり方は極言すれば「粗野」だったと見えた。
兎に角両方とも細かく繋いでいこうという意図が見えず、力強く前にいる味方にパスかとも見えるような強いキックで繋いでいき、走りまくってシュートに持っていこうとする、一昔前の力任せのサッカーかのように見えた。しかし、負ければそこで終わりのトーナメント制のゲームなので、飽くまでも安全を期して決して無理することなく、自分のゴールのそばからは細かく繋ぐ意思がなく大きく遠くに蹴って危機を未然に回避して、もしそのクリヤーからチャンスが生まれれば上出来だと考えているかのような蹴り合いで、高い水準の個人技を活かさないかの如き大味なサッカーに見えてしまった。
A代表との違いは「確かに高い水準にある個人技で攻め上がってパスをするのではなく、何とかシュートにまで持っていこうとの意図が見えた」のだったが敵も然る者で下がって待っているので、恰も壁に向かってシュートを蹴っているのかの如くだった。結果的には想定上位校の船橋は無得点に終わり、Jリーグ入りが決まっていると聞いた橘の小松屋の2点で京都が勝ち上がった。
私には今日の我が国のサッカーの原石のような形を採りながら、自分のゴールの近くからは逃げて安全を期そうという策を採って、組織的な攻め方をしないのは矛盾かなと思いながら見ていた。しかし、高校の頃から「パス回しのためのパス」をしないサッカーをやっているのは救いであるとも感じていた。
小松屋君だが、2点目を左サイドを走ってドリブルしながらボールを右足に回して「ゴールに対する角度を広げた形」にして決めたのは理にかなっていて良かったと評価している次第だ。あれを左足に回すと、右足が球の進む方向の角度を狭めてシュートの精度が低くなると、昭和20年に中学で教えられていたものだった。
現在の高校サッカーを見ていると、優れた素材は高校で部活をせずにJリーグ等の下部組織でサッカーの訓練に励んでいると見えて仕方がない。正確に数えたことはないが、A代表で一軍に残っている者や選ばれてきている者には下部組織から上がってきた者が増えているようだ。
これが良いことかどうかは別問題だが、私はサッカー部を持つ高校が4,000を超えている現状では、4,000人以上もの将来のA代表の原石となる素材を教え込める優れた監督やコーチがいるわけなないと考えている。それに、トーナメントを勝ち上がるためには子供たちを小さくその水準に合わせて育てていく結果になってしまうので、大成しない人材を育てる危険性が高いと考えている。この辺りは、大学に駅伝のためにマラソンの優れた走者が育ってこないのと同じだと言いたいのだ。