私のアメリカにおける人種差別論:
尾形美明氏からこの件について問題提起があったので、私の経験し、そして認識したアメリカの差別論を。
私は戦後間もなくアメリカ人と直接日常的に英語で話す機会を得て1~2年後には英語でかなり自由に自分の思うことを言えるようになっていました。そして、子供のくせにアメリカ人の世界に意識することになく自然に入っていました。新卒で就職後に17年間の英語と無縁の日本の会社の国内市場向けの営業担当を経て、考えてもいなかったアメリカの会社に1972年に偶然の機会で移籍しました。そして19年間在籍した二つ目のW社を1994年1月末でリタイヤーしました。
即ち、アメリカ人の中で仕事をしていたのですが、日本人なるが故に差別された感触も記憶もないのです。しかし、これまでに繰り返し言ってきたように「アメリカとは階層と階級が厳然とある世界で、階層間の横の移動も階級間の上下の移転もない国」と知りました。この辺りは我が国のような民主的と言うべきか悪平等と非難すべきか解らない国にいては、容易に想像出来ない世界かと危惧します。
更にW社のように、私の入社した頃にはトリプルA(AAA)に格付けされた会社にいれば、日本人を含め、所謂少数民族がマネージャーのポジションにいることは極めて希で、被差別の人たちとの接触の機会はないのです。故に、22年間に一度もアフリカ系アメリカ人と私的にも公式的にも膝つき合わせて、腹を割って語り合う機会など皆無でした。と言うことは、差別の対象の如くに言われている人たちから話を聞く事は出来ないのです。
同じ社内でも出世のスピードトラックに乗った者と、生涯一クラークに甘んじる者との間の厳然たる差と言うか違いがありま。出世というか身分の垂直上昇を諦めきっている連中とは語り合う機会があって「(偉くなっている連中は)好きで且つ成りたくてあの地位にいるのである。俺はあの地位を望まない。少し収入が増えても朝は早くから夜は遅くまで働き、尚且つ土日もない暮らしなど要らない。現状で結構」と聞かされました。
私は(思い上がった表現だったらお許しを)幸いにも英語のお陰でアッパーミドルの連中にも副社長兼事業本部長とも十分に話し合える機会を作り出せたので、それなりの待遇はして貰っていました。だが、クラーク級の者が少しでも怠惰であれば遠慮せずに叱りつけて「お前らがチャンとしないから、俺が日本市場でお客を満足させられずに恥をかく。日本市場の厳しさと恥の文化を理解して、日本市場で我が社がNo.1シェアーホールダーになれるように懸命の努力をせよ」と諭しました。「俺が言っても許される」との自信はありましたが、少なからぬ波紋を巻き起こしはしました。これは「彼等は言わないと解らない人種」と知ったからで、何時か解ってくれるだろうなどという腹芸は通じないお国柄だから言ったのです。
こんな事をするのは危険だと思いましたし多少は怖かったですが、言わないことには自分の身と自分の日本市場での信用と顔が守れないので、謂わば決死の覚悟で言いました。会社のためは二義的でした。多くの連中からは「お前の英語と着ている物から判断すると、如何にも我々の仲間風だ。だが、それに誤魔化されてはいけない。実態は違う。お前は骨の髄まで日本人だ(=You are a Japanese to the core.)と言われたものでした。誇りにすら思いました。
私の結論は「差別があるなどと思うな。言いたいことと言うべき事を言っていれば、何時かは厚くて高い人種の壁等を飛び越えらて彼等らの身内と認識されるようになる」でした。因みに、私のW社での生涯の最高の上司だった副社長はノルウエー系、最初の直接の上司もノルウエー系。今でも親しくしている二度目の上司というか本社の部長は典型的な富豪でWASP。最も長時間共に仕事をした技術サービスマネージャーはチェコスロバキア系。女性のCustomer services managerはドイツ 系。副社長秘書は母親が日本人。という具合で人種の坩堝のような事業部でした。こういう世界では差別などしている暇は無いでしょう。
しかし、彼等同士では平然として自分の家系は何処の国かという話題が出てきます。でなければ、上記のように彼等の家系を語れないでしょう。一寸我が国では想像も出来ない会話でした。
感覚的にはそういう垣根を越えて融合し、Team effortで成績を挙げていた事業部でした。そうでもしないとと言うか、結果が出なければ何にもならない組織ですから、人種がどうのこうのと陰で言っていることがあっても、極めて良く出来た同志的結びつきがあったティームと言うか集団でした。従って、あの世界での「人種差別」については語る材料は余り持ち合わせがありません。だが、上記のように階層も階級があるのですが、他の階層と階級のことは知り得る機会がありませんでした。
W社のように4~5万人もいる会社でも、本社機構にいるのは精々800人ほどで、そこには如何に法律で少数民族を雇用せよとなっていても身体障害者を除けばそういう人たちがマネージャー以上のポジションにいることは例外的ですから、白人以外の人種との接触は先ずなかったと言えます。尤も、それこそが差別だといわれればそれまでのことですが。
尾形美明氏からこの件について問題提起があったので、私の経験し、そして認識したアメリカの差別論を。
私は戦後間もなくアメリカ人と直接日常的に英語で話す機会を得て1~2年後には英語でかなり自由に自分の思うことを言えるようになっていました。そして、子供のくせにアメリカ人の世界に意識することになく自然に入っていました。新卒で就職後に17年間の英語と無縁の日本の会社の国内市場向けの営業担当を経て、考えてもいなかったアメリカの会社に1972年に偶然の機会で移籍しました。そして19年間在籍した二つ目のW社を1994年1月末でリタイヤーしました。
即ち、アメリカ人の中で仕事をしていたのですが、日本人なるが故に差別された感触も記憶もないのです。しかし、これまでに繰り返し言ってきたように「アメリカとは階層と階級が厳然とある世界で、階層間の横の移動も階級間の上下の移転もない国」と知りました。この辺りは我が国のような民主的と言うべきか悪平等と非難すべきか解らない国にいては、容易に想像出来ない世界かと危惧します。
更にW社のように、私の入社した頃にはトリプルA(AAA)に格付けされた会社にいれば、日本人を含め、所謂少数民族がマネージャーのポジションにいることは極めて希で、被差別の人たちとの接触の機会はないのです。故に、22年間に一度もアフリカ系アメリカ人と私的にも公式的にも膝つき合わせて、腹を割って語り合う機会など皆無でした。と言うことは、差別の対象の如くに言われている人たちから話を聞く事は出来ないのです。
同じ社内でも出世のスピードトラックに乗った者と、生涯一クラークに甘んじる者との間の厳然たる差と言うか違いがありま。出世というか身分の垂直上昇を諦めきっている連中とは語り合う機会があって「(偉くなっている連中は)好きで且つ成りたくてあの地位にいるのである。俺はあの地位を望まない。少し収入が増えても朝は早くから夜は遅くまで働き、尚且つ土日もない暮らしなど要らない。現状で結構」と聞かされました。
私は(思い上がった表現だったらお許しを)幸いにも英語のお陰でアッパーミドルの連中にも副社長兼事業本部長とも十分に話し合える機会を作り出せたので、それなりの待遇はして貰っていました。だが、クラーク級の者が少しでも怠惰であれば遠慮せずに叱りつけて「お前らがチャンとしないから、俺が日本市場でお客を満足させられずに恥をかく。日本市場の厳しさと恥の文化を理解して、日本市場で我が社がNo.1シェアーホールダーになれるように懸命の努力をせよ」と諭しました。「俺が言っても許される」との自信はありましたが、少なからぬ波紋を巻き起こしはしました。これは「彼等は言わないと解らない人種」と知ったからで、何時か解ってくれるだろうなどという腹芸は通じないお国柄だから言ったのです。
こんな事をするのは危険だと思いましたし多少は怖かったですが、言わないことには自分の身と自分の日本市場での信用と顔が守れないので、謂わば決死の覚悟で言いました。会社のためは二義的でした。多くの連中からは「お前の英語と着ている物から判断すると、如何にも我々の仲間風だ。だが、それに誤魔化されてはいけない。実態は違う。お前は骨の髄まで日本人だ(=You are a Japanese to the core.)と言われたものでした。誇りにすら思いました。
私の結論は「差別があるなどと思うな。言いたいことと言うべき事を言っていれば、何時かは厚くて高い人種の壁等を飛び越えらて彼等らの身内と認識されるようになる」でした。因みに、私のW社での生涯の最高の上司だった副社長はノルウエー系、最初の直接の上司もノルウエー系。今でも親しくしている二度目の上司というか本社の部長は典型的な富豪でWASP。最も長時間共に仕事をした技術サービスマネージャーはチェコスロバキア系。女性のCustomer services managerはドイツ 系。副社長秘書は母親が日本人。という具合で人種の坩堝のような事業部でした。こういう世界では差別などしている暇は無いでしょう。
しかし、彼等同士では平然として自分の家系は何処の国かという話題が出てきます。でなければ、上記のように彼等の家系を語れないでしょう。一寸我が国では想像も出来ない会話でした。
感覚的にはそういう垣根を越えて融合し、Team effortで成績を挙げていた事業部でした。そうでもしないとと言うか、結果が出なければ何にもならない組織ですから、人種がどうのこうのと陰で言っていることがあっても、極めて良く出来た同志的結びつきがあったティームと言うか集団でした。従って、あの世界での「人種差別」については語る材料は余り持ち合わせがありません。だが、上記のように階層も階級があるのですが、他の階層と階級のことは知り得る機会がありませんでした。
W社のように4~5万人もいる会社でも、本社機構にいるのは精々800人ほどで、そこには如何に法律で少数民族を雇用せよとなっていても身体障害者を除けばそういう人たちがマネージャー以上のポジションにいることは例外的ですから、白人以外の人種との接触は先ずなかったと言えます。尤も、それこそが差別だといわれればそれまでのことですが。