新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

何れが勝つのかは閃いていたが

2014-01-14 13:26:33 | コラム
13日の高校サッカー決勝戦:

私は試合が始まった時の画面から「富山一高が勝つのでは」と閃いた。そして富一は力任せに蹴っては走って攻め抜いたが、雨あられの如くに放つシュートは星陵の守りの壁に当たって撥ね返されていた。謂わば、星陵は試合開始とともに全力で守り続ける状況に追い込まれたのだった。その限りでは、私には富一が簡単に点を取れるとは思えなかったが、それでも最後には勝てるのだろうとボンヤリと考えていた。

ところが、試合とは解らないもので、劣勢だった星陵が富一が前半に足を上げて靴の裏で当たりに行くという明らかな反則を犯してPKで得点し、後半には力任せではない鮮やかな折り返しから2点目を取ってしまった。この辺りの流れは「全員で引いて守って逆襲で点を取る」との戦法の如きだが、星陵は決してそういう積もりはなく、対等に蹴り合っていたものが偶々深く蹴ったパスが実を結んだのであろうと見えた。

多くの方にはこの2点は大きいハンディキャップのように富山にのしかかったと見えただろう。即ち、富一が勝つためにはそう沢山残っていない時間内で3点取らねばならぬ立場に追い込まれたのだから。私はこれまでに「アメリカ系の球技は流れが変われば勝敗の行方もそれに伴って大きく変わってくるという、謂わば"momentum"(=弾み)のスポーツである」と言ってきた。

だが、サッカーはUK系でモメンタムで動くとは思えなかった。即ち、富一は力で取り返していくしかなかったである。私はこの辺で星陵が逃げ切ろうと思ったのか主将の寺村を引っ込めたことが禍根を残さねば良いがと思ってみていた。それと、あの富一の力任せでどちらかといえば外連味のない攻めを、守りに守ったことでバックス陣が疲弊していないかとも思っていた。

果たせるかな、後いくらも時間が残っていないところでGKと1対1になる形に持ち込まれ、GKが触っただけで止めきれず1点取られて、カタカナ造語で言う「ロスタイム」に入った。私は富一が如何なる形で同点に追いつき延長戦まで持っていくのかと考えたが、本当に閃き通りになるのかとも疑いだしていた。すると、どうだろう。星陵の守りは力尽きたのか、ペナルティーエリア内に入ってきた富一の選手を押し倒してしまった。

これで追いつくと決まったのだが、凡庸の解説者・城は「大変なプレシャーでしょう」などとほざくだけで、変化を読めていないかのよう。富一の監督の息子で主将は堂々と蹴り込んだ。延長戦になった。テレビ観戦していた当家の次男は「これでは富一が勝つしかないだろう」と予測した。結論的は「あの富一の最初から最後まで攻めきった力に遂に星陵の守りが力尽きて、PKを与えたのだった」となるし、「延長後半の見事な富一の決勝点のシュートは力の差を示したものだ」となるだろう。

何れにせよ、両校とも小細工をせずに持てる力(実力のことだけではない)を懸命に出し切って蹴り合って好ゲームとしたことには好感が持てたし、2点を取り返し3点目をもぎ取った富一の力と精神力は賞賛に値する。あの両校の11人プラス3人が上に行っても力一杯に蹴っていく志を忘れず、小細工とパスのためのサッカーに走らないことを望む。

成人の日とその式典に思う

2014-01-14 08:53:09 | コラム
私は成人式があったとは知らなかった:

昨13日は休日でジムの開業が午前10時だったのでゆっくり出かけた。すると、この時刻には既に成人式用なのだろうが、半数以上がレンタルと報じられた振り袖姿にお定まりの白いフワフワの襟巻きをした若い女性と何人かすれ違った。

私は明治38年生まれの母親に育てられていたり、周囲には和服を当たり前のように着ている女性が多かったし、花柳小菊や山田五十鈴のような和服の女優を数多く見て成長してきたので、和服の優雅さとその着こなしの美しさを見慣れていた。だが、現代の成人式用に着飾っている振り袖姿には和服風の洋装をしているかの如くに感じられて、あの独特の美しさを感じないのだ。簡単に割り切れば、時代の違いだろう。

さて、成人の日だが、昭和20年に旧制中学に進んだ者としては全く馴染みがないし、当時住んでいた藤沢市でそういう式典があって成人を招待し下さったという記憶もない。そこで、Wikipediaに縋って「成人の日」なるものを検索してみた。それは昭和23年7月に制定された「国民の祝日に関する法律」で1月15日に定められたようだった。成人式を催せとは定められていないようだが。

20歳で成人と規定されるならば、当方が成人となったのは1953年の大学在学中で、多くの神父が厳格に規則を守らせる大学で懸命に授業に出ようとしていながら、当時としては未だ珍しい学費を稼ぎ出すためのアルバイトにも精を出していた。それだけではなくサッカー部の一員で練習にも出たしリーグ戦もあった。それにあの堅苦しい大学では少数派の麻雀にも没頭して不謹慎な学生だった頃だった。

藤沢市が昭和23年に成人式を催して我々の成人を祝って下さったかどうかの記憶は全くない。だが、もしそのような通知を戴いても、上記のような多忙振りでは到底出席出来る時間の余裕はなかったと思う。また同期の連中で式典に出席したという者がいたという話を聞いた記憶もない。これは嘆いたり悲しんだりしているのではなく、それほど成人の日とその式典に関心が低かったと言いたいのだ。

実は話は変わるが、私の世代では中学1年の時に軍事教練もあれば勤労動員で農家の手伝いにも行けば、鵠沼と辻堂の海岸の防風林で飛行機の燃料にするための松根油(ショウコンユ)掘りもした。だが、戦後の物不足の時代だったせいか修学旅行はなかった。勿論、学校給食など知らない。だが、昭和23年に福岡国体に出場した際には、全員が家からなけなしのお米を持ち出して遠征したものだった。

こういう時代を経て今日に至っている昭和一桁生まれの我々から見れば、あの成人式のお祭りが主催者の意図を何処まで正確に反映しているのか、我が国の好ましい経済成長と発展ないしは単なる時代の変化なのか、はたまた若者のための虚飾の祭典なのかを容易に判定しきれない気がしてならない。