私の商社論:
振り返れば十大綜合商社の時代があった。
ここからは言わば回顧論でもあるが。1977年に十大綜合商社の一角を占めていた安宅産業がカナダ東部での石油の投資に失敗し、伊藤忠商事に吸収合併された形で消滅するまでは、三菱商事、三井物産、住友商事、伊藤忠商事、丸紅飯田、日商岩井、日綿実業(ニチメン)、東洋綿花(トーメン)江商(兼松)、安宅産業を十大商社と呼んでいた。
ここまでで既にお気付きの向きもあるかと思うが、十大商社の中には繊維を中心にした関西を拠点とする商社が多かったのだ。それが伊藤忠、丸紅、日綿、東綿、江商の5社で俗に五綿と称されていたのだった。その5社が時代の流れの中で多角化して総合商社に発展していったと私は解釈している。現に伊藤忠商事の社員には「当社の公用語は関西弁」等という冗談を言う者がいた。
上記の十社は時代の流れと言うか我が国の経済発展に伴って輸出入の花形となって一躍エリート集団ともなり、商社金融の力を発揮する時を経て、何時の間にか「商社冬の時代」に入っていった。その結果というのか、整理統合が急速に進み今や三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、住友商事、丸紅、双日、豊田通商の所謂七社となっていたのだった。
この歴史の中で私にとって最も印象が深かったのが、伊藤忠商事が住友銀行の要請(があったと聞くが)によって安宅産業を吸収した一件だった。因みに、我々紙パルプ業界にいた者はこの合併を「安宅崩壊」と呼んだほどで、安宅産業は鉄鋼業界に強かったのと同様に我が業界ではパルプ、それも輸入パルプでは最強の商社として誰知らぬ者なき存在だったのだから。
しかも、個人的に言えば、私はその安宅産業のパルプの最前線で活躍していた多くの精鋭が伊藤忠以外の大手商社に転身していく様を非常なる興味と関心をもって見守っていたし、パルプ流通業界が様変わりしていく状態を驚きを持って受け止めていた。と言うのも、その頃は私は最初の転身先のアメリカの大手メーカーのM社で対日パルプ輸出を担当していたのだったから。
これは冗談のような本当の話で、安宅の伊藤忠商事との合併以前に外資等に勧誘されたと同時に危機を察してW社に転身した1人のFM氏は「さー、これから新天地で長年安宅で鍛えた腕を振るって見せよう」と張り切ったところ、何と最も頼りにしたかった肝心要の安宅産業が消滅していた」と秘かに私に嘆いて見せたのだった。実は、私も1975年に全く別な理由でFM氏より前にW社に入社して紙部門を担当していたのだった。
他の産業界がどうなっているかは私の知るところではないが、紙パルプの分野ではアメリカやカナダの大手メーカーの東京乃至は日本支社の幹部には商社出身の人が矢張り圧倒的に多かったのだ。現にW社の東京事務所には最大5人の商社出身者がいた時期もあったほど。しかし、何れ触れるかも知れないが、商社から製造業に移って働くことは外から見ておられるほど簡単なことではないのだ。それは経験してみなければ解らないことだった。
この項続く)
振り返れば十大綜合商社の時代があった。
ここからは言わば回顧論でもあるが。1977年に十大綜合商社の一角を占めていた安宅産業がカナダ東部での石油の投資に失敗し、伊藤忠商事に吸収合併された形で消滅するまでは、三菱商事、三井物産、住友商事、伊藤忠商事、丸紅飯田、日商岩井、日綿実業(ニチメン)、東洋綿花(トーメン)江商(兼松)、安宅産業を十大商社と呼んでいた。
ここまでで既にお気付きの向きもあるかと思うが、十大商社の中には繊維を中心にした関西を拠点とする商社が多かったのだ。それが伊藤忠、丸紅、日綿、東綿、江商の5社で俗に五綿と称されていたのだった。その5社が時代の流れの中で多角化して総合商社に発展していったと私は解釈している。現に伊藤忠商事の社員には「当社の公用語は関西弁」等という冗談を言う者がいた。
上記の十社は時代の流れと言うか我が国の経済発展に伴って輸出入の花形となって一躍エリート集団ともなり、商社金融の力を発揮する時を経て、何時の間にか「商社冬の時代」に入っていった。その結果というのか、整理統合が急速に進み今や三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、住友商事、丸紅、双日、豊田通商の所謂七社となっていたのだった。
この歴史の中で私にとって最も印象が深かったのが、伊藤忠商事が住友銀行の要請(があったと聞くが)によって安宅産業を吸収した一件だった。因みに、我々紙パルプ業界にいた者はこの合併を「安宅崩壊」と呼んだほどで、安宅産業は鉄鋼業界に強かったのと同様に我が業界ではパルプ、それも輸入パルプでは最強の商社として誰知らぬ者なき存在だったのだから。
しかも、個人的に言えば、私はその安宅産業のパルプの最前線で活躍していた多くの精鋭が伊藤忠以外の大手商社に転身していく様を非常なる興味と関心をもって見守っていたし、パルプ流通業界が様変わりしていく状態を驚きを持って受け止めていた。と言うのも、その頃は私は最初の転身先のアメリカの大手メーカーのM社で対日パルプ輸出を担当していたのだったから。
これは冗談のような本当の話で、安宅の伊藤忠商事との合併以前に外資等に勧誘されたと同時に危機を察してW社に転身した1人のFM氏は「さー、これから新天地で長年安宅で鍛えた腕を振るって見せよう」と張り切ったところ、何と最も頼りにしたかった肝心要の安宅産業が消滅していた」と秘かに私に嘆いて見せたのだった。実は、私も1975年に全く別な理由でFM氏より前にW社に入社して紙部門を担当していたのだった。
他の産業界がどうなっているかは私の知るところではないが、紙パルプの分野ではアメリカやカナダの大手メーカーの東京乃至は日本支社の幹部には商社出身の人が矢張り圧倒的に多かったのだ。現にW社の東京事務所には最大5人の商社出身者がいた時期もあったほど。しかし、何れ触れるかも知れないが、商社から製造業に移って働くことは外から見ておられるほど簡単なことではないのだ。それは経験してみなければ解らないことだった。
この項続く)