新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

10月17日 その2 三井不動産レジデンシャル

2015-10-17 10:08:29 | コラム
データ改ざん:

三井不動産レジデンシャルが建設・販売した横浜市の大規模アパートで、建築工事のデータの改ざんがあったことが連日報じられている。同社は全棟建て替えを含む三案を居住者に提案した事も聞いている。この事案の成り行きがどうなっていくかは部外者には到底予測も出来ないが、同社にとっては物質的にも信頼を失うことでも大きな損失となることは間違いあるまい。

ここで面白いと言えば居住者に失礼に当たるかも知れぬが、その問題を居住者と話し合い謝罪する場に問題の杭打ちを請け負った旭化成の系列会社の社長も登場したことだ。しかも報道では建築したのは三井住友建設だということも明らかだ。私も常識的に建設業界の仕組みを知っているが、この問題が発生するや請負というか下請け組織の責任者までが当たり前のように登場したと報じられたのには少し意外な感があった。

当然のことだが、三井不動産レジデンシャルは販売会社であって何も造っていないのである。だが、金銭的な補償をするのならばこの会社になるのだろう。その補償というか弁済は請け負った会社に回ってくるのだろうが、その請負会社の社長までがあの会合に出てきたのは建設業界の仕組みを居住者のみならず世間一般にまで明らかにした先例は余り記憶にない。

三井不動産レジデンシャルは事の重大さを十分に自覚して工事の手抜きやデータの改ざんの直接の責任の所在は自社にはないが、請負先を登場させることで、「可能な限りの補償は致します」とは言いたかったのかとすら、一瞬考えてしまった。戸建てであれ集合住宅であれ、その建築を1社のゼネコンが全ての機能を備えて自力でやる遂げることはないと世間でも知られているだろうが、あそこまで明るみに出した感覚は凄いのではないかと思ったのだ。

そう言いながら、自分自身は今年で「築28年目」に入った1棟に192戸あるアパート(マンションというカタカナ語は採らない)に住んでいながら、対岸の火事だと思って眺めている。その背景にはここは既にコンクリート住宅の権威にその耐震性も何も保証されているし、つい半年ほど前に大規模補修工事が終わったばかりだから。

序でだが、ここで英語論を。三井不動産レジデンシャルという社名には興味がある。それは「レジデンシャル」=”residential”は形容詞で「住宅向きの[に適した]」とジーニアス英和にも出ているからだ。名詞ではない。三井ともあろう会社だから、英語の意味は承知でお使いになってるのだろうが、何となく違和感が残るのだが。

出会い

2015-10-17 08:20:34 | コラム
出会いは運命だったのかも知れない:

昨16日には元NHKの故大谷英彦氏の告別式に参列してきた。大谷氏は嘗てニュースセンター9時のデスクを務められた方で、私は初めてお目にかかった2005年6月には「何処かで見たような顔」と思ったのはそのせいかも知れない。私のこれまでの人生では向こうから私に向かってきた運命というか偶然の出会いに大きく影響されてきた。この1995年の大谷さんとの出会いもその一つであったかも知れない。

2005年に上智大学で大学の主催で卒業50年の記念式典が催され、その後に言わば卒業生が記念パーティーを自主的に開催した。その中締めに事前に何の相談もなく幹事だった篠宮良幸君が私を指名したのだった。私は元々は人前で話すことを得手としていなかったが、幸か不幸か1996年から静岡放送のラジオコメンテーターをお引き受けしていたので、何を言ったかも記憶はないが何とか無事に切り抜けたのだった。

ところが、その49年も会っていなかったという篠宮君から、翌月の彼が主宰する勉強会で一言語ってくれとの依頼が舞い込んできた。正直なところ、私は彼の就職先を知っていただけで彼が何者になっていたかなどはまるで知らなかった。だが、頼まれれば断れない性格で潔く引き受けて当日は得意の「日米間の文化の違い論」を許された短い時間の範囲内で語った。聴衆というか会員の中で良い反応を示されたのが大谷さんだった。

その会が終わった後に篠宮君から講師は二次会にも参加する義務があると強制?されて、最も苦手とする座敷で畳に座って飲食するという有志の飲み会に参加した。お断りしておくと、私は酒類は体質に合わず病院ではベッドの頭のところに「禁アルコール」と掲示される。これは飲むなと言うのではなく消毒にアルコールを使うなという看護師さんたちへの警告。この頃は幸いにも心筋梗塞発症の前だったが、飲めないことは同じだった。

その席で私の目の前に座られたのが大谷さんでその隣が佐藤隆一氏だった。勿論お互いに初対面だったか、何故か私に何か閃くものがあってお二方と気持ち良く調子よく素面で歓談したのだった。そしてメールアドレスを交換して再会と交信を約束したのだった。記憶ではその席でB級グルメの会をやろうじゃないかという話が誰からともなく出たのだった。そして、その食べ歩き会が始まった、大谷さんがそんな著名人とは知らずに。

この会はかなり長いこと続いた。そして3人で時間が許す限り語り合ってお互いの理解も進んだ。大谷さんが酒豪である事もイヤというほど解った。そして、その会を「3人だから鼎談会としよう」と意見も一致した。最早時間の経過も記憶にないが、そこに篠宮君の会合の会員の中からも参加者が増えていったのだった。即ち、3人の会ではない形に発展したのだった。

その間も私は在職中から書き続けていたコラムの延長のようなような形で「新宿少数民族の声」と題した(本人はエッセーと思っている)駄文を書いては、2003年からある運命というか偶然のお陰で購入せざるを得なかった(導入を極力避けてきた)PCで大谷さんと佐藤さんに送るようになっていた。この書き物の末尾には「禁無断転載転送」と太字で書き添えてあった。

だが、その一つを大谷さんが、私が存在するとも知らなかったメールマガジンなるものを主宰されていたNHKの同僚だった渡部亮次郎氏に送っていたのだった。この世に「メルマガ」があるとは知らなかった私に佐藤氏が「載りましたね」と連絡してこられた時も意味が解らず、言わば「狐につままれた」ような状態だった。佐藤氏に事の次第を教えられた私は大谷さんに抗議したが「一旦世に出したものは止められないと知れ」と一蹴された。

そこで返す刀で渡部亮次郎氏を何者とも知らずに「勝手に他人の書き物を掲載されるとは」と抗議したのだった。主宰者からは確かお詫びの言葉があった。だが、闇雲な苦情で驚かれただろう。しかし、何故かそれを切っ掛けにして「頂門の一針」への投稿を始めてしまったのだった。そして、何故か私は渡部亮治郎氏に無性に会ってみたくなって直接お願いし、大谷さんの参加が条件で実現したのだった。これが主宰者との交流の切掛けだった。

長い長い導入部だったが、大谷さんとの出会いは49年間お互いに何をしてきたかも知らなかった篠宮君のお陰で実現したものであれば、渡部亮次郎さんとの出会いや頂門の一針への投稿も、大谷さんが取り持つ縁だったのだと言いたかったのだ。もしも、大谷さんとの出会いなかりせば、今日こうして投稿することを楽しみにして、毎日無い知恵を絞っていることはなかったのだ。篠宮君、大谷さんに感謝すべきだと自覚している。

有難う御座いました。ここにあらためて大谷さんのご冥福を祈ります。