承前)
商社無用論者と言われるまで:
ここであらためてこの題名を考え直してみる。私は総合商社を論じてきたつもりなので、今後は省略して「商社」として論じていきたい。専門商社を採り上げる場合には、そのように記述する予定だとご承知置き願いたい。
私が本格的に商社と海外のサプライヤーの駐在員として取引するようになったのは、1972年8月にアメリカの紙パルプ業界の大手M社に転身した以降のことである。それ以前は商社と言えばエリート集団で、世界との貿易の第一線に立って活躍する華やかで煌びやかな存在で、何か仰ぎ見る世界に働く人たちの集団かと思っていた。そこから離れて、商社と直に接するようになって徐々にその実態が見えてきた。
商社の人たちから聞く機会があり、自分自身で学習した結果で「商社の業務では原則として国内の取引にせよ輸入品にせよ、自社でリスクをとって見込みで在庫するような商売の仕方はいないものだ」と解った。簡単な表現にすれば「原則として右から左に売りつないでいく」のだが、それではお気楽ではないかと言えば「それほどのリスクを冒すような利益はを取れるものではない」との説明も聞いた。
この辺りは17年間お世話になった紙流通の世界とは大きく思想も哲学も異なっているので意外な感があった。歴史と伝統に輝く!紙流通業界ではメーカーは製品を極力大量に代理店(所謂一次販売店)に売り渡し、それを代理店が在庫と金利と輸送費を負担し更に不良債権が発生するリスクをとって直接に需要家、二次や三次の販売店(卸商)に販売するのである。その頃でも新聞用紙のようにメーカーが直販する品種もあったが。
私はその業界からかなり異なる性質の海外で生産された針葉樹原木の高品質のパルプを我が国の製紙会社に販売する仕事に移っていったのだった。そこではメーカーが直販するのではなく商社の持つ機能と情報収集能力を最大限に活用するのが、言わば業界の慣行だった。
私はパルプの世界で2年半を過ごしてから1975年にW社に移り、パルプの世界から再び紙の世界に入った。即ち、アメリカ製の紙と板紙を日本市場に販売するという意外に難しい仕事に就いたということ。その頃まではこの業界では、大手ユーザーと雖も必要な紙類は商社の貿易機能に依存するのが一般的な傾向だった。
この辺りが我が国の特徴だった。我が国の「輸出入は原則禁止だが、例外としてこれとあれの品目は許可する」との法的な規制もあって、輸出入業務は極めて煩雑だったのだ。それは一般の会社が手がけるのを躊躇わせるに十分な特殊技能だったからだと、私は解釈していた。現に、大手企業でも国内営業部門の他に海外や貿易という部や課があったではないか。
しかし、M社に移って国内販売を担当する(営業の担当者のことだが)マネージャーが当たり前のような顔で輸出の会議に出てきたので驚かされた。彼にとってというか会社にとっては国内市場も海外市場も同じ感覚で捉えており、我が国では「特殊」と見なされていた輸出入業務の知識も業務遂行に十分だったのには更に驚かされたものだった。この事実は考えようによるが「アメリカは根本的に輸出に注力していない」とも捉えることが出来る。
話を戻そう。1970年代までは我が国の一流製造業の会社と雖も輸出入業務を直接手がけられる態勢が整っておらず、商社に依存するというか商社の持つ機能を活用していた、敢えて手数料を支払ってまで。ところが、輸入の製品や原料のコストが発展を続ける我が国に市場で伸び続けるかシェアーを拡大するためには徐々に手枷足枷になって来たのだった。
そこで出始めた傾向が、商社の手数料の幅を狭める交渉だけではなく海外のサプライヤー乃至はメーカーとの直接交渉か、更に一歩進めて直接取引を考え始めたことだった。大手ユーザーの中には商社には単なる輸入代行を依頼していただけで、本来は自社が直接取引すべき性質の商内であると唱える場面まで出てきた。
確かに当時は銀行に信用状(L/C)開設の講座を設けるであるとか、B/Lの裏書きであるとか、決済の方法であるとか、多くの場合に複雑としか思えない制度を学ばねばならず、そこには「英語」という面倒な言葉が絡んでくるので、特殊技能視されていたのも尤もであると思っていた。だが、その障壁を乗り越えてもコスト軽減を図って競争力の強化を目指すほど需要が伸びて競争が激化して行ってのだった。
この傾向が私がW社に移ってから2~3年後にその嵐の如くに商社を襲ってきた。即ち、商社経由でお買い上げ頂いてきた最大の得意先二社が商社外しに取りかかったのだった。それは我が社が輸出してきた液体容器原紙が印刷・加工された後は最終消費者に直接販売されるものだったので食品会社対してでも、スーパーマーケットにおいても競争が激化する一方で、商社に支払う一桁の本当の下の方の率の口銭でも切り下げたい事態になってきたのだった。
言うなれば時代の流れだった。我が国の経済の発展に伴って出てきた現象だった。製造元であるアメリカの会社としては”buyer’s option”等という言葉もあったが、そんなことを言っていられる事態ではなかった。「お客様は神様です」の国なのだから。
二社のうちの一社の言わば輸入代行のような薄口銭に耐えてこられた商社は案外にアッサリと降りられたが、残る一社の場合は当方が懸命に「商社を仲介とする輸入に意義がある。それは商社はユーザーにとっては貴重な情報源であるだけではなく次なる商売の機会をも足る努力を怠らない存在であるから、ここは短気を起こさないで頂きたい」と全力で説得に努めたが遂に聞き入れられず、一悶着あった後にユーザーの希望通りに落ち着いた。
この二社対商社二社の担当だったのがかく申す私であったし、業界筋と消息筋は成り行きを見守っていたのも確かだった。そして、無事に(?)商社外しを成し遂げたかに見える担当者は、圏外にいた商社に「商社無用論者」の如くに見られる結果となってしまった。しかし、前記のように懸命に商社の立場を擁護してきたのであるから、誠に心外だった。
この項続く)
商社無用論者と言われるまで:
ここであらためてこの題名を考え直してみる。私は総合商社を論じてきたつもりなので、今後は省略して「商社」として論じていきたい。専門商社を採り上げる場合には、そのように記述する予定だとご承知置き願いたい。
私が本格的に商社と海外のサプライヤーの駐在員として取引するようになったのは、1972年8月にアメリカの紙パルプ業界の大手M社に転身した以降のことである。それ以前は商社と言えばエリート集団で、世界との貿易の第一線に立って活躍する華やかで煌びやかな存在で、何か仰ぎ見る世界に働く人たちの集団かと思っていた。そこから離れて、商社と直に接するようになって徐々にその実態が見えてきた。
商社の人たちから聞く機会があり、自分自身で学習した結果で「商社の業務では原則として国内の取引にせよ輸入品にせよ、自社でリスクをとって見込みで在庫するような商売の仕方はいないものだ」と解った。簡単な表現にすれば「原則として右から左に売りつないでいく」のだが、それではお気楽ではないかと言えば「それほどのリスクを冒すような利益はを取れるものではない」との説明も聞いた。
この辺りは17年間お世話になった紙流通の世界とは大きく思想も哲学も異なっているので意外な感があった。歴史と伝統に輝く!紙流通業界ではメーカーは製品を極力大量に代理店(所謂一次販売店)に売り渡し、それを代理店が在庫と金利と輸送費を負担し更に不良債権が発生するリスクをとって直接に需要家、二次や三次の販売店(卸商)に販売するのである。その頃でも新聞用紙のようにメーカーが直販する品種もあったが。
私はその業界からかなり異なる性質の海外で生産された針葉樹原木の高品質のパルプを我が国の製紙会社に販売する仕事に移っていったのだった。そこではメーカーが直販するのではなく商社の持つ機能と情報収集能力を最大限に活用するのが、言わば業界の慣行だった。
私はパルプの世界で2年半を過ごしてから1975年にW社に移り、パルプの世界から再び紙の世界に入った。即ち、アメリカ製の紙と板紙を日本市場に販売するという意外に難しい仕事に就いたということ。その頃まではこの業界では、大手ユーザーと雖も必要な紙類は商社の貿易機能に依存するのが一般的な傾向だった。
この辺りが我が国の特徴だった。我が国の「輸出入は原則禁止だが、例外としてこれとあれの品目は許可する」との法的な規制もあって、輸出入業務は極めて煩雑だったのだ。それは一般の会社が手がけるのを躊躇わせるに十分な特殊技能だったからだと、私は解釈していた。現に、大手企業でも国内営業部門の他に海外や貿易という部や課があったではないか。
しかし、M社に移って国内販売を担当する(営業の担当者のことだが)マネージャーが当たり前のような顔で輸出の会議に出てきたので驚かされた。彼にとってというか会社にとっては国内市場も海外市場も同じ感覚で捉えており、我が国では「特殊」と見なされていた輸出入業務の知識も業務遂行に十分だったのには更に驚かされたものだった。この事実は考えようによるが「アメリカは根本的に輸出に注力していない」とも捉えることが出来る。
話を戻そう。1970年代までは我が国の一流製造業の会社と雖も輸出入業務を直接手がけられる態勢が整っておらず、商社に依存するというか商社の持つ機能を活用していた、敢えて手数料を支払ってまで。ところが、輸入の製品や原料のコストが発展を続ける我が国に市場で伸び続けるかシェアーを拡大するためには徐々に手枷足枷になって来たのだった。
そこで出始めた傾向が、商社の手数料の幅を狭める交渉だけではなく海外のサプライヤー乃至はメーカーとの直接交渉か、更に一歩進めて直接取引を考え始めたことだった。大手ユーザーの中には商社には単なる輸入代行を依頼していただけで、本来は自社が直接取引すべき性質の商内であると唱える場面まで出てきた。
確かに当時は銀行に信用状(L/C)開設の講座を設けるであるとか、B/Lの裏書きであるとか、決済の方法であるとか、多くの場合に複雑としか思えない制度を学ばねばならず、そこには「英語」という面倒な言葉が絡んでくるので、特殊技能視されていたのも尤もであると思っていた。だが、その障壁を乗り越えてもコスト軽減を図って競争力の強化を目指すほど需要が伸びて競争が激化して行ってのだった。
この傾向が私がW社に移ってから2~3年後にその嵐の如くに商社を襲ってきた。即ち、商社経由でお買い上げ頂いてきた最大の得意先二社が商社外しに取りかかったのだった。それは我が社が輸出してきた液体容器原紙が印刷・加工された後は最終消費者に直接販売されるものだったので食品会社対してでも、スーパーマーケットにおいても競争が激化する一方で、商社に支払う一桁の本当の下の方の率の口銭でも切り下げたい事態になってきたのだった。
言うなれば時代の流れだった。我が国の経済の発展に伴って出てきた現象だった。製造元であるアメリカの会社としては”buyer’s option”等という言葉もあったが、そんなことを言っていられる事態ではなかった。「お客様は神様です」の国なのだから。
二社のうちの一社の言わば輸入代行のような薄口銭に耐えてこられた商社は案外にアッサリと降りられたが、残る一社の場合は当方が懸命に「商社を仲介とする輸入に意義がある。それは商社はユーザーにとっては貴重な情報源であるだけではなく次なる商売の機会をも足る努力を怠らない存在であるから、ここは短気を起こさないで頂きたい」と全力で説得に努めたが遂に聞き入れられず、一悶着あった後にユーザーの希望通りに落ち着いた。
この二社対商社二社の担当だったのがかく申す私であったし、業界筋と消息筋は成り行きを見守っていたのも確かだった。そして、無事に(?)商社外しを成し遂げたかに見える担当者は、圏外にいた商社に「商社無用論者」の如くに見られる結果となってしまった。しかし、前記のように懸命に商社の立場を擁護してきたのであるから、誠に心外だった。
この項続く)