新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

2月15日 その2 時の政権に反対を唱えていらえる自由な国

2016-02-15 14:34:45 | コラム
戦争反対のデモ:

畏メル友尾形美明氏が

<昨日のNHKニュースですが、「銀座で安保法制反対の若者がデモ」「シールズが中心。主催者発表で4000人」、などという事がさも意味有り気に報道されるのが現下の日本なのです。>

と怒りのメールを寄せて下さったのです。

私もこのニュースを見ていました。彼らは「戦争反対」のプラカードも掲げていました。このようなあの法案の曲解が未だにまかり通るのには少し寒気がします。そこを懸命に報じるNHKその他のメデイアは本当に困ったものでしょう。だが、時の政権が決めたことに公然と反旗を翻しても逮捕もされないのが、我が国の良い点だと思っております。この辺りが中国や北朝鮮とは全く違う自由がある国なのだと彼らに知らしめてやらねばなりますまい。

私はさらにここには社会的常識の問題もあると思うのです。即ち、私は我が国には「小が大を倒す」であるとか「柔よく剛を制する」であるとか「下克上」を有り難がる風習が根強く残っていると思うのです。最も顕著なのが相撲や嘗ての柔道で、「小柄な者が大柄で体重もある相手を制するのが美学である」という文化がありました。それをイデオロギーの分野にまで持ち込んで、時の政権の批判と攻撃材料に使っているのがマスコミであり、左寄りの野党でしょう。

そのような行為が善悪と正邪と右・左の判断が出来ない一部の国民の方々を惑わせているのだと思っております。マスコミは大学生が動くと何か尊い事のように採り上げて報じます。だが、彼らの中には今の教育課程では社会科の勉強をろくにしていなくとも大学に入って(入れて?)しまった者が多いと聞きます。そういう連中は「社会的常識が欠如していて使えない」と商社マンが嘆いていました。マスコミにもこういう手合いが入社試験を通ってきたのではありませんか。

尤も、私の世代の常識が常識ではなくなった時代が来たのかと思わせられる現象が多くなったと感じております。そうではありませんか?!

プロ野球のキャンプが始まった

2016-02-15 09:09:06 | コラム
この時期のキャンプ情報には関心がない:

「球春」とやらが迫ったと言って、テレビも新聞もプロ野球のスプリング・キャンプの状況を面白おかしく報じている。結構なことだが、当方はこの時期の選手たちの仕上がりや練習試合での出来などには全く興味も関心もない。それは簡単な理屈で練習中のことでもあるし、フリーバッッテイングなどで何本柵越えとやらを打とうと、打たせるための投球を打ったに過ぎないのだし、打者に向かって投げたわけでもない速球が何百キロ出ていようと何の意味もないからだ。

そんなことよりも、2月からキャンプが始まっているのにMLBに行った連中は未だ国内に止まっているか、アメリカに行っていても「自主トレ」なる訳が解らないことをやっているのだ。それはMLBでは選手たちはシーズンに備えて自分で体調を整えて何時でも本格的な練習が出来るようになってからキャンプとやらに集合するようだから、我らがNPBのような長期キャンプとやらを張る訳ではないと聞いている。我が国ではつい最近まで選手どもが「キャンプで体を作って」などと間抜けなことを言っていた状況だった。言うなれば「野球(乃至はスポーツの)文化の違い」だろう。

今年はセントラル・リーグに3人もコーチの経験すらない監督が発生したので、関心も寒心もある。特に巨人の高橋由伸と阪神の金本知憲は余程奮励努力しないことにはパシフィック・リーグに3年続けて負けてしまうことになりかねないのではないか。巨人は形振り構わず他球団から実績がある古手を取ってくるのは良いが、その連中が皆耐用年数を過ぎているので、如何に世代交代を果たすかが大いなる課題だろう。巨人嫌いから言わせて貰えば、村田修一、杉内俊哉、片岡治大に子飼いの阿部慎之助は最早高年俸に値しない。内海は低年俸にしたから除外した。

阪神も選手層が薄すぎるだけではなく、投手陣も手薄だ。西岡だの福留だのアメリカに行って腑抜けにされて帰ってきた連中に頼っているような布陣では誠に心許ない。それに金本監督はそもそも阪神育ちではない珍しい外様である。彼が何処まで巨人やヤクルトを倒していけるかが焦点だろう。

ま、こんな事よりもマスコミ報道を笑いたいことがある。それは例の大監督が巨人の練習場を訪れて選手たちを激励するだけなら兎も角、バッテイングを親しくご指導なさったと報じていた事だ。村田だったかはそのお陰で練習試合でヒットが打てたと言っていた。冗談ではない。ご指導賜った者が「あの老人が何を言っていたやら」と言える訳がないし、そんな本当のことを報道するメデイアがあれば、たちどころに読売に出入り禁止にされるだろうよ。

現代の運動選手たちは大監督や王貞治氏が活躍された頃とは体格も身体能力が違う。第一、食べて育ってきたものが違う。それだけではない、用具も著しく進歩している。1976年頃に当方が20年振りほどでサッカーの新しい優れたボールを新時代のスパイクを履いて蹴ってみたところ、昭和20年代半ばの高校の頃よりも遙かにキック力が向上していたらしく(?)遠くまでボールが飛んで、仲間に「40歳を過ぎてキック力が伸びた珍しい例だ」と褒められた?のだった。用具はそれほど違うのだ。

長嶋・王が猛威を振るっていた時代の映画かビデオか知らないが、テレビで見させられると「昔はあの程度の体格で超一流選手で通用したのか」と驚き呆れるほど貧弱な体つきなのだ。食生活が飛躍的に変化し進歩した現代の子供たちは体格が違う。先日「徹子の部屋」に登場した大谷翔平は昨シーズン中は193 cmで90 kgの登録だったものを「球速を上げるために体重を増やして100 kgにした」と言っていたが、アメリカ人の中に入ってもそう劣ることはないだろうと思う立派な体に仕上げていた。大谷は例外的かも知れないが、そういう体格の連中を昭和一桁乃至は10年代前半の生まれの者が指導する時代は(感覚的に捉えても)終わったのではないのか。

以前から指摘していたことだが、あの大監督は「指導」というものがどうあるべきかがお解りではないようだし、組織とは何かも弁えておられないのではと危惧する。即ち、監督(乃至は終身名誉監督)がグラウンドに降りたって選手を一人一人指導されてしまえば、譬え年功序列式にでも打撃コーチに任命された者は一体何をしていれば良いのかという問題になるではないか。コーチが投手、打撃、守備、走塁等に分けられているのであって、監督は各分野のコーチに任せて試合の采配を振るのが仕事のはず。しかも、あの大監督は昔から選手をいじりたがっていた。コーチとは選手が悩んで相談した時に初めて指導するべきで、彼らの好みで指導すべきではないのだ。

高橋由伸にしても、テレビ報道ではあの場を黙って見ていただけだったし、読売が原の後に監督にしたかったらしい松井秀喜が臨時コーチとやらで振る舞っていたのでは、今年の巨人も難行苦行ではないのかと思わざるを得なかった。だがしかし、読売にとっては巨人は新聞の販促の一大材料であろうし、人気が取れそうな者ばかりを集めてキャンプの話題作りに励んだだけのことだろうと解釈している。そう思えば、大監督のご指導を阻まない巨人は気の毒だなとも考えている。

パシフィック・リーグのことにも少しは触れておかねば片手落ちだろうが、セントラルがあの様子ではソフトバンクの日本シリーズ三連覇を阻止出来るかどうか極めて不安なほど、ソフトバンクも日本ハムも陣容が整っている気がする。だが、マスコミは暇さえあれば「オコエ・瑠偉君」を採り上げて囃し立てるが、私は「如何に彼が抜群の素材であっても甲子園の頃からあのバッテイングは粗雑すぎるので、プロに行けば基礎からやり直しだろう」と見ていたし、その通りになってきた。昔から足が速いことが売り物の選手はなかなか伸びないのだった。オコエ君はその例外になれるような努力が必要だろう、何しろ良い素材なのだから。