田中将大がアメリカはきついと言ったとか:
こればかりは「実際に自分でアメリカ人の中というか、彼らの中に入るだけではなく彼ら独自の組織の中で働いてみて、初めて実感出来ること」なのである。この点は自分の体験と経験を踏まえて、これまでに何度か指摘したことだ。だが、現実にその経験をすることがない立場で、我が国の文化の中で過ごして今後も続けて行かれる方にはいくら説明しても、理論的にも感覚的にも捉えては頂けないことだと思っている。ましてや「我が親愛なるマスコミには」とでも言っておきたい衝動に駆られる。しかも、この点だけは私の得意とする「文化比較論」だけでは簡単に説明がつかないと思う。
田中将大がMLBに行ってみて解ったことは「アメリカ(のMLBで野球をやるの)はきつい。中四日の登板間隔や長距離の移動等」とラジオで述懐したと聞いた。まさしく「だから言ったじゃないか」なのである。私が何度も言ってきたことは「アメリカに行く場合にはただ単に仕事が出来るとか、野球が図抜けて上手いとか、英語がnative speaker並に出来るとか等のことだけでは『こんなはずじゃなかった』という目に遭うのは必定だ」である。
その他には、常に指摘し続けたことで「行って見て初めて実感する日米相互間に厳然として存在する文化(思考体系を含めて)の違いがある」のも動かしようがない事実だ。かく申す私だって自慢じゃないが、文化の違いが本当に理解出来て「これはえらいところに来てしまった」と痛感して何とか合わせていこうと真剣に考えるようになるまでには、間抜けなことに10年近くを要した。それが、英語の壁というものがそれほど高くなかったとしても、それほど容易ならなざる見えざる障壁だったということ。
その文化の違いに加えて、通訳を付けて貰って彼らの中で仕事をするというか、その高額な年俸に見合うだけの働きを求められていれば「きつい」のは当たり前過ぎることではないのか。大体からして「きつい」などという泣き言を言うのが誤っている。Darvishは1年も経たぬ間に「何か異種の競技をやっているのかと思った」と日米相互野球文化の違いを喝破したではないか。
ここまででは、一向に「だから言ったじゃないか」の中身に触れていない。それは「アメリカでは全ての物事が彼らの(白人だけではなくアフリカ系も入れて良いだろう)体格、体力、身体能力(に加えて、もしかして骨格も入ってくるだろうが)等に基づいて設計されているのであって、その中には最初から東洋系の人種が入ってくる事は配慮されていないのである。故に、彼らは何の苦もなくこなしているのだし、それが彼らにとっては社会通念であり、普通のことなのだ。
そこに(飽くまでも一般論だが)体格、体力と身体能力が彼ら並みではない日本人が入っていけば、苦戦するのは当然過ぎるほど当然ではないのか。勿論、東洋系にも個体差があるので、楽々とやってのけた成功例もあれば苦労を重ねて何とかついて行けた例もある。そこにはビジネスの世界であろうと、野球の世界だろうと、英語の壁も悲しくなるほど存在するのだ。だが、経験上では最も苦しめられたのは「体格、体力と身体能力の壁」だった。田中将大は2年だったかを経てそこに気付いたのではないのか。
田中は「中四日の登板間隔」や「長距離の移動」等を挙げていたと聞くが、そんなことは行く前から解っていたと言いたくもなる。だが、実際に経験してみるまではその肉体的且つ精神的な疲労度は解らないだろう。私の極端な身体的な過剰負担(かな?)の経験の例を挙げてみれば「大得意先の欧州出張中の部長さんワシントン州のW社本社に回りたいとのことで現地でアテンド願いたいと要望された。当方はその週に東京で重要なアポイントメント(と敢えてカタカナ語にするが)があり、そのアテンドの為にはアメリカ一泊で帰国せねばならなかった。そして厳しかったが実行した。
するとどうだろう、その週のアメリカ時間木曜日に別のお客様から同じような要望があって日本時間の金曜日に再びシアトルに向かわざるを得なくなった。余りの強行軍に副社長に「土曜日にそのお客様と一緒の帰国ではなくもう一泊させて欲しい」と願い出た。だが、「お前がこのために無理をして出張してきたことを印象づけて言わば貸しを作っておく為にも、ここは辛抱せよ」と命令されてしまった。要するにこれが彼らの「体格、体力と身体能力」に基づく仕事の進め方なのだ。当時は未だ50歳代だったから何とか耐えたが、恐らく彼らならば何ともないことだと思わせられるような厳しい日程で、彼らは世界中を飛び歩いていた。
換言すれば「そのような条件に十分に耐えた働くこと」などは当たり前で、わざわざ”job description”に記載されるまでのことではないのだと、今となっては解釈している。私が最も頻繁に国内で行動を共にした(出張して歩いたという意味)技術サービスマネージャーなどは、ワシントン州からオーストラリアに到着した日に我が国で大問題が発生した得意先の厳命でその晩の夜行便で大阪に入り、問題を解決してその晩にまたオーストラリアに戻っていった「これくらいは朝飯前」と言って。
私はここには「企業社会における文化の違い」を間違いなく見出すが、その基礎になっているところは「体格、体力と身体能力」があると思っている。「それくらいは解っている」と言いたい方もおられるだろうし、実際に経験した方も数多くおられるだろう。しかし、こればかりは実際に経験して初めて解ってくるのではないのか。私は問題はアメリカ側は雇用する方だから、案外に解っていないのではないのかとすら疑っている。アメリカにおける「雇う側」と「雇われる方」の違いは我が国では想像しにくいほど違うのも、これまた現実である。
故に「だから言ったじゃないか」と言いたくなるのだ。ここで英語の講釈で締めくくると「だから言ったじゃないか」は感覚的には”I told you so.”辺りになる。これは良く聞かされた台詞だった。
こればかりは「実際に自分でアメリカ人の中というか、彼らの中に入るだけではなく彼ら独自の組織の中で働いてみて、初めて実感出来ること」なのである。この点は自分の体験と経験を踏まえて、これまでに何度か指摘したことだ。だが、現実にその経験をすることがない立場で、我が国の文化の中で過ごして今後も続けて行かれる方にはいくら説明しても、理論的にも感覚的にも捉えては頂けないことだと思っている。ましてや「我が親愛なるマスコミには」とでも言っておきたい衝動に駆られる。しかも、この点だけは私の得意とする「文化比較論」だけでは簡単に説明がつかないと思う。
田中将大がMLBに行ってみて解ったことは「アメリカ(のMLBで野球をやるの)はきつい。中四日の登板間隔や長距離の移動等」とラジオで述懐したと聞いた。まさしく「だから言ったじゃないか」なのである。私が何度も言ってきたことは「アメリカに行く場合にはただ単に仕事が出来るとか、野球が図抜けて上手いとか、英語がnative speaker並に出来るとか等のことだけでは『こんなはずじゃなかった』という目に遭うのは必定だ」である。
その他には、常に指摘し続けたことで「行って見て初めて実感する日米相互間に厳然として存在する文化(思考体系を含めて)の違いがある」のも動かしようがない事実だ。かく申す私だって自慢じゃないが、文化の違いが本当に理解出来て「これはえらいところに来てしまった」と痛感して何とか合わせていこうと真剣に考えるようになるまでには、間抜けなことに10年近くを要した。それが、英語の壁というものがそれほど高くなかったとしても、それほど容易ならなざる見えざる障壁だったということ。
その文化の違いに加えて、通訳を付けて貰って彼らの中で仕事をするというか、その高額な年俸に見合うだけの働きを求められていれば「きつい」のは当たり前過ぎることではないのか。大体からして「きつい」などという泣き言を言うのが誤っている。Darvishは1年も経たぬ間に「何か異種の競技をやっているのかと思った」と日米相互野球文化の違いを喝破したではないか。
ここまででは、一向に「だから言ったじゃないか」の中身に触れていない。それは「アメリカでは全ての物事が彼らの(白人だけではなくアフリカ系も入れて良いだろう)体格、体力、身体能力(に加えて、もしかして骨格も入ってくるだろうが)等に基づいて設計されているのであって、その中には最初から東洋系の人種が入ってくる事は配慮されていないのである。故に、彼らは何の苦もなくこなしているのだし、それが彼らにとっては社会通念であり、普通のことなのだ。
そこに(飽くまでも一般論だが)体格、体力と身体能力が彼ら並みではない日本人が入っていけば、苦戦するのは当然過ぎるほど当然ではないのか。勿論、東洋系にも個体差があるので、楽々とやってのけた成功例もあれば苦労を重ねて何とかついて行けた例もある。そこにはビジネスの世界であろうと、野球の世界だろうと、英語の壁も悲しくなるほど存在するのだ。だが、経験上では最も苦しめられたのは「体格、体力と身体能力の壁」だった。田中将大は2年だったかを経てそこに気付いたのではないのか。
田中は「中四日の登板間隔」や「長距離の移動」等を挙げていたと聞くが、そんなことは行く前から解っていたと言いたくもなる。だが、実際に経験してみるまではその肉体的且つ精神的な疲労度は解らないだろう。私の極端な身体的な過剰負担(かな?)の経験の例を挙げてみれば「大得意先の欧州出張中の部長さんワシントン州のW社本社に回りたいとのことで現地でアテンド願いたいと要望された。当方はその週に東京で重要なアポイントメント(と敢えてカタカナ語にするが)があり、そのアテンドの為にはアメリカ一泊で帰国せねばならなかった。そして厳しかったが実行した。
するとどうだろう、その週のアメリカ時間木曜日に別のお客様から同じような要望があって日本時間の金曜日に再びシアトルに向かわざるを得なくなった。余りの強行軍に副社長に「土曜日にそのお客様と一緒の帰国ではなくもう一泊させて欲しい」と願い出た。だが、「お前がこのために無理をして出張してきたことを印象づけて言わば貸しを作っておく為にも、ここは辛抱せよ」と命令されてしまった。要するにこれが彼らの「体格、体力と身体能力」に基づく仕事の進め方なのだ。当時は未だ50歳代だったから何とか耐えたが、恐らく彼らならば何ともないことだと思わせられるような厳しい日程で、彼らは世界中を飛び歩いていた。
換言すれば「そのような条件に十分に耐えた働くこと」などは当たり前で、わざわざ”job description”に記載されるまでのことではないのだと、今となっては解釈している。私が最も頻繁に国内で行動を共にした(出張して歩いたという意味)技術サービスマネージャーなどは、ワシントン州からオーストラリアに到着した日に我が国で大問題が発生した得意先の厳命でその晩の夜行便で大阪に入り、問題を解決してその晩にまたオーストラリアに戻っていった「これくらいは朝飯前」と言って。
私はここには「企業社会における文化の違い」を間違いなく見出すが、その基礎になっているところは「体格、体力と身体能力」があると思っている。「それくらいは解っている」と言いたい方もおられるだろうし、実際に経験した方も数多くおられるだろう。しかし、こればかりは実際に経験して初めて解ってくるのではないのか。私は問題はアメリカ側は雇用する方だから、案外に解っていないのではないのかとすら疑っている。アメリカにおける「雇う側」と「雇われる方」の違いは我が国では想像しにくいほど違うのも、これまた現実である。
故に「だから言ったじゃないか」と言いたくなるのだ。ここで英語の講釈で締めくくると「だから言ったじゃないか」は感覚的には”I told you so.”辺りになる。これは良く聞かされた台詞だった。