新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

13日のテレ朝のドラマ「おみやさん」を見て

2016-02-14 10:12:39 | コラム
昭和20年代後半の追憶:

13日の夜は早く寝てしまうと翌朝余りにも早く目が覚めてしまうのを回避するために、このテレ朝のドラマを23時過ぎまで見ていた。原作は石ノ森章太郎とあったが、粗筋は松本清張の「ゼロの焦点」に似過ぎている事には余り好感が持てなかった。即ち、言わば主役的な人物には他人に知られたくない過去があり、その秘密が露見しない為に殺人を犯すというという松本清張お得意の筋立てと同じではないのかということだ。

昨夜の「おみやさん」でも戦後の混乱期にアメリカ兵相手の売春婦(何故か「パンパン」という呼称を使うのに躊躇いを感じるのだが)だった女性が、そこから言うなれば更生してホテルのオウナーになっていたというもので、そこが「ゼロの焦点」と似ているのだった。私はその言わば真似をしたことを批判するのではなく、あの1950年から53年まで続いた朝鮮動乱の時期に三越の銀座支店でアメリカの兵隊を主たる得意先として、我が国のデイナーセット等の洋陶器の売り場でアルバイトをしていた関係で、多くの米兵や彼らと一緒にやってくるその種の女性たちを数多く見てきた経験を語りたいのだ。

あのドラマでは地方にいた女性がその職業なるが故に子供たちに石を投げつけられる場面を演出していた。私が学生の頃に住んでいたのは藤沢で当時としては立派に(?)に地方色豊かだったが、あの種の女性たちを子供が罵ったりすることなどなかったと思う。あの種の女性たちが世間一般にどのように扱われていたかの記憶はもう定かではないが、あの演出には少し違和感があった。

確かに「パングリッシュ」なる彼女たちが使う英語の蔑称もあった。しかし、今になってみても、我が国の英語教育では多くのの我が同胞が事英会話となると、あの当時のあの女性たちの英語とそう変わらないようなものしか話せない状態にあるように思えてならない。

百貨店の売り場で見ていたというか接していた女性たちは、確かに当時としてはどぎつい化粧をして派手な服装をしてはいたが、その職業を選ばざるを得なかった陰には色々な事情があったのだろうと思う。だが、皆気が良い人たちばかりで、学生だった私には「怖い」人たちでも何でもなく、普通のお客様として接していたものだった。中には男性店員や我々実習生とも(とは言っても学生は私を入れて2名だったが)顔見知りになり「ほら、今日もまたお客を連れてきてやったよ」などと明るく声をかけてくる者もいた。この女性などは言わば常連客で、記憶が確かならば当時は一種の「ステータス・シンボル」だった三越の風呂敷を感謝の印に差し上げたりしたことものだった。

あの動乱の頃にはアメリカ兵たちは休暇で東京に来て、当時は接収されてPXになっていた服部時計店と松坂屋で買い物をするのだが、大倉陶園(Okura China)やノリタケ等のデイナー・セットやテイ-・セットを買いに来ていた。そこで、三越はその兵隊たちを狙って洋陶器の売り場を強化すべく、英語が出来る学生アルバイトを常駐させていたのだった。私にとっては絶好の学費を稼がせて頂ける場だったし、兵隊たちのもの凄い(品格に乏しく、”swearword”を多用する)英語にも接する機会となってた。今思い出してもやや不思議なのは、あの俗に言うGI英語の影響を全く受けずに終わったことだった。

その頃の記憶から言えば、21世の今になってあの頃のあの職業の女性たちのことを採り上げるのは、当時のことを想像も出来ないだろう世代が圧倒的に多くなっているのに、余り適切だとは思えないのだ。あの頃の我が国の状態がどのようなものだったかを思い出さされても楽しいものなどない。私があの種の女性たちが何故あれほど多いのかが解ったのは、あの実習生の時に大学生になっていたからで、戦後間もない中学生の頃には全く想像も出来なかった。

テレ朝の意図を問い質したい気がする。漫画の世界には全く関心がないので、調べてみた。原作者の石ノ森章太郎なる人物はWikipediaによれば1938年生まれである。あの頃の我が国の実情を実体験で把握出来る年齢層ではないと思う。当然のことで、書く前には調査はしただろうが、松本清張の流れの中にあるのでは、私には好感が持てない点だった。

最後に、あの種の女性たちと顔馴染みになっていた同じ売り場の若き男性店員の悲劇を紹介しよう。彼は定休日の月曜に恋人との逢瀬を銀座で楽しんでいたそうだ。そこに顔馴染みの女性が現れて「お兄さん、今日は」と気さくに声をかけてきたのだそうだ。だが、これがとんでもない結果を生んだのだった。その恋人に「あんな人たちに親しく声をかけられるとは不潔」と激怒され、件名にそこまでに行った事情を説明しても理解されずにその場で縁を切られたのだったそうだ。火曜日に出勤してきた彼の落ち込んでいたこと。今思い出しても笑えない悲喜劇だった。これが戦後の出来事の一つだった。