中途採用と実力と体力の世界:
私も既に後期高齢者となって何年かが過ぎてしまったので、益々少しでもアメリカという異文化の世界で身を以て習い覚えた事柄を語り且つ書き残しておきたいと考えるようになった。昨日の「だから言ったじゃないか」もその思いの表れである。スポーツの世界ではDarvishも田中将大も(鈴木)イチローも、欧州ではあるが香川真司も本田圭佑も岡崎慎司も、テニスで世界を股にかけている錦織圭も皆痛切に体格、体力と身体能力の差については感じていることだと思う。よくぞその差を克服したとみている。しかし、その点を取り立てて言うべきではないくらいは自覚しているだろうと思っている。
私の経験の範囲では”Division Meeting”と呼ばれる全米乃至は全世界から全部員か販売店の代表が集う会議が、痛烈に身体的な違いを知る場となっていた。これはフロリダかカリフォルニアのような季候が良い景勝の地で開催される部会で、勿論会議が主体である。そこで月曜から金曜まで全員が会議終了後の午後には水泳、ゴルフ、ジョギング、テニス、乗馬、読書、昼寝等を思いのままに楽しむのだ。その際にはシャワールームをも含めて彼らと文字通りの「裸のつき合い」となって、その我々とは大いに異なる骨格と「上半身人間」振りに接することが出来る。
私には特に何かの競技を経験していなかった者たちでも、その優れた体格には何となく人種の違いを痛感させられたものだった。「上半身人間」と呼んだのは如何にもその発達が際立っていたからで、何も車社会で育ったから足が発達しなかったのではないのだろうとは思ったが、アジア系との顕著な相違点として意識して眺めていた。結果として、欧米系の競技は全てが彼らのそのような体格と骨格に基づいているのではないかと考えるようになった。
一方、ビジネスの世界では世界の名だたる企業で未だCEOは言うに及ばず真の意味での副社長にまでのし上がった日本人がどれほどいただろうか。私は頭脳と知能とその成果である学問の分野では我々が彼らに勝るとも劣らないと考えている。だが、ビジネスの世界ではそれだけではなく日常的に体力勝負まで挑んでいく必要がある分野だと最初から知って挑戦した人がどれほどいただろうか。その辺りを考えた時に、私は「アメリカの会社があのようなものだと事前に承知していたら決して転身などしなかっただろう」と言う根拠がある。
我が(生涯で最高の)上司はICT化される前の時代の事だったとは言え、日本時間アメリカ時間の別なく土・日に会社は言うに及ばず自宅にまで電話で指示や連絡をしてくる、陳腐な言い方をすれば図抜けた「仕事人間」だった。その仕事ぶりはPCが普及していない時期だった為もあり車の中にハンズフリーの電話を置いて、四六時中そこからでも東京事務所にも私の自宅にもに電話してきたから、恐らく他の地域にもそうしていただろう。彼は遅くとも朝は7時には出社し、夜は20~21時でも残っていた。
ここで忘れてはならないことがある。それはアメリカの組織では地位と給与の上昇に伴って仕事の量と責任の範囲が天文学的に増えるのだ。その地位と身分と年俸を確保する為には、責任範囲にある仕事を全て完結し結果を出す以外の手段がないことだ。副社長兼事業本部長だからといって”job security”の保証など何処にもない世界なのである。何度も例に挙げたがヘンリー・フォードは社長だったアイアコッカを馘首した返す刀でその腹心の副社長をも”I don’t like you.”と言ってクビにした世界である。
夜遅くまで残っているのはが多いのは能力不足との説もあるが、天才を自称した我が上司は身長2 mで体重が100 kg超の体力で、我が国他の世界中を飛び回っていた。その猛烈振りに157 cmで60 kgにも満たない10歳も年上の私がついていく のは生易しいことではなかった。その彼自身と我々部下たちが最も気を遣っていたのが彼の「体重」だった。即ち、100 kg超は如何にも不健康であるだけではなく、我々彼に万一のことがあってはならないと慕っていたからだった。だからこそ、少しでも彼に運動する時間を取るよう進言していたものだった。
彼はW社のような規模の会社で寧ろ異例な存在でお定まりのMBAではなかったせいで、副社長就任が42歳と決して早くはなかった。だが、その類い希なる手腕で事業部を飛躍的に発展させたものの、結局は家庭に手が回らず離婚となり、仕事の出来過ぎを上司に疎まれたのか、50歳で追われるように辞めていってしまった。この辺りにも「アメリカの会社」の負の一面が見えるような気がするのだ。
ここまでは恰も回顧談のようにになってしまったが、終わりに参考までにW社をアメリカの業界で常にInternational Paperとトップ争いを演じる大企業に育てたオウナー・ファミリーの四代目当主で八代目CEOのジョージのCEO就任は39歳だったことも挙げておこう。ジョージは「会社の名前と名字が同じだからCEOになれたのではない。実力だ」と言っていた。実際にそうだと思わせる大社長だった。彼はエール大学の出身だが、入社時には工場の材木部門から出発して現場を知ることから出発した。この辺りがW社で見たアメリカのビジネス社会の別な一面であると思う。
敢えて解説しておけば(当時はいざ知らず)現代のアメリカの大手製造業(銀行等の金融の分野で新卒を採用するようだが)では工場で働くのは「地方採用」であり、所謂「エリートコース」ではないということ。本社機構には新卒を採用せず、大げさに言えば、ほとんどが同業者か異なる世界で経験を積んだ者が中途採用の形で集められているのだ。我が上司も州立大学の出身で工場の経理係に採用された身分から能力を買われて本社機構に引き抜かれ、コースに乗ったのだった。
私も既に後期高齢者となって何年かが過ぎてしまったので、益々少しでもアメリカという異文化の世界で身を以て習い覚えた事柄を語り且つ書き残しておきたいと考えるようになった。昨日の「だから言ったじゃないか」もその思いの表れである。スポーツの世界ではDarvishも田中将大も(鈴木)イチローも、欧州ではあるが香川真司も本田圭佑も岡崎慎司も、テニスで世界を股にかけている錦織圭も皆痛切に体格、体力と身体能力の差については感じていることだと思う。よくぞその差を克服したとみている。しかし、その点を取り立てて言うべきではないくらいは自覚しているだろうと思っている。
私の経験の範囲では”Division Meeting”と呼ばれる全米乃至は全世界から全部員か販売店の代表が集う会議が、痛烈に身体的な違いを知る場となっていた。これはフロリダかカリフォルニアのような季候が良い景勝の地で開催される部会で、勿論会議が主体である。そこで月曜から金曜まで全員が会議終了後の午後には水泳、ゴルフ、ジョギング、テニス、乗馬、読書、昼寝等を思いのままに楽しむのだ。その際にはシャワールームをも含めて彼らと文字通りの「裸のつき合い」となって、その我々とは大いに異なる骨格と「上半身人間」振りに接することが出来る。
私には特に何かの競技を経験していなかった者たちでも、その優れた体格には何となく人種の違いを痛感させられたものだった。「上半身人間」と呼んだのは如何にもその発達が際立っていたからで、何も車社会で育ったから足が発達しなかったのではないのだろうとは思ったが、アジア系との顕著な相違点として意識して眺めていた。結果として、欧米系の競技は全てが彼らのそのような体格と骨格に基づいているのではないかと考えるようになった。
一方、ビジネスの世界では世界の名だたる企業で未だCEOは言うに及ばず真の意味での副社長にまでのし上がった日本人がどれほどいただろうか。私は頭脳と知能とその成果である学問の分野では我々が彼らに勝るとも劣らないと考えている。だが、ビジネスの世界ではそれだけではなく日常的に体力勝負まで挑んでいく必要がある分野だと最初から知って挑戦した人がどれほどいただろうか。その辺りを考えた時に、私は「アメリカの会社があのようなものだと事前に承知していたら決して転身などしなかっただろう」と言う根拠がある。
我が(生涯で最高の)上司はICT化される前の時代の事だったとは言え、日本時間アメリカ時間の別なく土・日に会社は言うに及ばず自宅にまで電話で指示や連絡をしてくる、陳腐な言い方をすれば図抜けた「仕事人間」だった。その仕事ぶりはPCが普及していない時期だった為もあり車の中にハンズフリーの電話を置いて、四六時中そこからでも東京事務所にも私の自宅にもに電話してきたから、恐らく他の地域にもそうしていただろう。彼は遅くとも朝は7時には出社し、夜は20~21時でも残っていた。
ここで忘れてはならないことがある。それはアメリカの組織では地位と給与の上昇に伴って仕事の量と責任の範囲が天文学的に増えるのだ。その地位と身分と年俸を確保する為には、責任範囲にある仕事を全て完結し結果を出す以外の手段がないことだ。副社長兼事業本部長だからといって”job security”の保証など何処にもない世界なのである。何度も例に挙げたがヘンリー・フォードは社長だったアイアコッカを馘首した返す刀でその腹心の副社長をも”I don’t like you.”と言ってクビにした世界である。
夜遅くまで残っているのはが多いのは能力不足との説もあるが、天才を自称した我が上司は身長2 mで体重が100 kg超の体力で、我が国他の世界中を飛び回っていた。その猛烈振りに157 cmで60 kgにも満たない10歳も年上の私がついていく のは生易しいことではなかった。その彼自身と我々部下たちが最も気を遣っていたのが彼の「体重」だった。即ち、100 kg超は如何にも不健康であるだけではなく、我々彼に万一のことがあってはならないと慕っていたからだった。だからこそ、少しでも彼に運動する時間を取るよう進言していたものだった。
彼はW社のような規模の会社で寧ろ異例な存在でお定まりのMBAではなかったせいで、副社長就任が42歳と決して早くはなかった。だが、その類い希なる手腕で事業部を飛躍的に発展させたものの、結局は家庭に手が回らず離婚となり、仕事の出来過ぎを上司に疎まれたのか、50歳で追われるように辞めていってしまった。この辺りにも「アメリカの会社」の負の一面が見えるような気がするのだ。
ここまでは恰も回顧談のようにになってしまったが、終わりに参考までにW社をアメリカの業界で常にInternational Paperとトップ争いを演じる大企業に育てたオウナー・ファミリーの四代目当主で八代目CEOのジョージのCEO就任は39歳だったことも挙げておこう。ジョージは「会社の名前と名字が同じだからCEOになれたのではない。実力だ」と言っていた。実際にそうだと思わせる大社長だった。彼はエール大学の出身だが、入社時には工場の材木部門から出発して現場を知ることから出発した。この辺りがW社で見たアメリカのビジネス社会の別な一面であると思う。
敢えて解説しておけば(当時はいざ知らず)現代のアメリカの大手製造業(銀行等の金融の分野で新卒を採用するようだが)では工場で働くのは「地方採用」であり、所謂「エリートコース」ではないということ。本社機構には新卒を採用せず、大げさに言えば、ほとんどが同業者か異なる世界で経験を積んだ者が中途採用の形で集められているのだ。我が上司も州立大学の出身で工場の経理係に採用された身分から能力を買われて本社機構に引き抜かれ、コースに乗ったのだった。