蜷川幸雄氏が亡くなった:
私は演劇の分野については無知であり無調法であり且つ無関心だけではなく、興味を持ったことがなかった。従って演出家の蜷川氏が亡くなったと連日連夜テレビが報道されても、申し訳ないが対応のしようがないので困惑させられる。その大演出家については「厳しい方で感情の赴くままに不出来な役者に灰皿をぶつけたり椅子まで投げられる」というような断片的な情報しか知らない。だが、彼らの常套手段というか手法では「世界の蜷川」だったそうだ。そういう分野では偉い方だったのだとは解る。
マスコミ、就中テレビでは蜷川氏のような芸能と言って良いのか「舞台芸術」とでも形容すべきか知らないが、そういう分野の方がなくなると「これでもか、これでもか」とでも形容したいほどその人物の死を悼め追悼せよと言わんばかりの姿勢で報道する。私に言わせて貰えば、それは彼らにとって貴重な役割を果たしておられた方だとは解るが、身内のことで(あるいは私が誤った見方をしているのかも知れないが)視聴者全体がお悔やみ申し上げる事案ではないと思えてならない。
たったこれだけのことで口角泡を飛ばして論ずるまでのことではないかと危惧する。だが、こういう報道姿勢と歌舞伎役者などを敬語を使って報じるくせに、天皇皇后を始めとする皇族には本当の形の敬語を使わないのは何故だろう。思うに、朝日新聞が基準となっているのかなどと考えている。
私は演劇の分野については無知であり無調法であり且つ無関心だけではなく、興味を持ったことがなかった。従って演出家の蜷川氏が亡くなったと連日連夜テレビが報道されても、申し訳ないが対応のしようがないので困惑させられる。その大演出家については「厳しい方で感情の赴くままに不出来な役者に灰皿をぶつけたり椅子まで投げられる」というような断片的な情報しか知らない。だが、彼らの常套手段というか手法では「世界の蜷川」だったそうだ。そういう分野では偉い方だったのだとは解る。
マスコミ、就中テレビでは蜷川氏のような芸能と言って良いのか「舞台芸術」とでも形容すべきか知らないが、そういう分野の方がなくなると「これでもか、これでもか」とでも形容したいほどその人物の死を悼め追悼せよと言わんばかりの姿勢で報道する。私に言わせて貰えば、それは彼らにとって貴重な役割を果たしておられた方だとは解るが、身内のことで(あるいは私が誤った見方をしているのかも知れないが)視聴者全体がお悔やみ申し上げる事案ではないと思えてならない。
たったこれだけのことで口角泡を飛ばして論ずるまでのことではないかと危惧する。だが、こういう報道姿勢と歌舞伎役者などを敬語を使って報じるくせに、天皇皇后を始めとする皇族には本当の形の敬語を使わないのは何故だろう。思うに、朝日新聞が基準となっているのかなどと考えている。