新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

5月31日 その2 都内バスの旅

2016-05-31 17:36:58 | コラム
四谷から新宿駅西口までを見物した:

去る29日(日)に上智大学のソフィアンズフェステイバルを2年振りで見に行った。その帰り道に何気なくイグナチオ教会の前のバス停で時刻表を見ると、1時間に1本か2本しかないバスが丁度来る時刻だったので、シルバーパスを活用すべく乗ってみることにした。そのバスの路線がまさかまさか今まで行ったことがなかったというか知らなかった新宿の街を走るとは知らなかったので、大いに東京見物が出来た次第だった。言うなれば"pleasant surprise"だった。

実は、在学中にはこの通りを晴海通りに向かっているバス路線を利用して三越の銀座支店にアルバイトに通っていたので、一寸した懐かしさもあり、それとは反対方向である新宿駅西口に向かってみたのだった。

バスが如何なる経路か順序で走ったかの記憶もないが、初めての経験でもあり好奇心から窓の外の景色の変化を楽しんでいた次第。バスは新宿通を三丁目の前で右折して薬王寺を過ぎたと思ったら、目の前に大きな茶色の建物が出てきた。それに近付けば中央大学の法科大学院だったのは意外だった。というのは、中央大学は元はお茶の水にあったが八王子に移転していたので、新宿区内に大学院とは予想外で一寸唐突すぎるのではと感じたからだった。

それから先には余丁町だの抜け弁天だの東京女子医科大学の前を通って以前から何処にあるのかと思っていた韓国人学校を右に見て、新宿区役所に行くのに便利だとアナウンスがある新宿五丁目を通ってから青梅街道(?)から新宿駅西口で目出度く降ろされたのだった。女子医大以外は全く初めてで、寧ろ通って貰って有り難かったと感謝したい思いだった。正直なところ、新宿は広いのだなと感心させられたのだった。

シルバーパス族になってからは、都内の移動には極力都バスと私鉄か私営のバスを利用するよう心がけている。それでは同じ都営の地下鉄やJRの路線や私鉄を利用するよりも時間がかかるが、最早一刻を争うような移動をすることもないので、ゆっくり座れて冷暖房が完備したバスの旅の快適さを楽しむと同時に都内を悠々と見物出来るのが有り難いと思っている。

特に頻繁に利用するのが、小滝橋から新大久保駅前を通って国立国際医療研究センター病院や昭和32年(1957年)から1993年まで日米の会社で担当した市ヶ谷は納戸町の大日本印刷から市ヶ谷駅前を通って麹町、平河町を経て国会議事堂前から霞ヶ関の官庁街を通り、新橋駅に向かう路線である。これを利用すると桜の季節では官庁街が素晴らしく、国会議事堂も命がある間に一度は見学出来れば良いがななどと思わせてくれる結構な路線である。この路線を利用するお陰で旧赤坂プリンスホテルの跡地に新たなビルだかホテルだったかが建ってしまったのも知ることが出来た。

また、我が家から15分以上も歩くが、明治通りまで出て渋谷駅行きの都バスに乗れば、そのまま原宿を通ってくれるので、毎日がお祭りかと思わせてくれるあの界隈の賑わいと林立するブランド品の店を眺めることが出来るのもまた楽しいものだ。この路線はそのまま渋谷のスクランブル交差点に行ってくれるので、バスを降りることなく手軽な観光旅行まで手出来てしまう。この路線は池袋駅東口から出発するので、大久保通りから逆方向に行けば池袋観光まで出来るようになっていて便利だ。

畏友YM氏は代官山に住んでいるが、彼に会いに行く際にはこのバスで渋谷駅前まで行ってから東急が運行させている代官山駅前循環のバス路線もシルバーパスで利用出来るので重宝に使っている。この路線は女性の運転手さんが多いので楽しめる。即ち、女性独特の気配りが聞いたアナウンスと丁寧な運転で一寸豪華な住宅街の観光も楽しめるのも一興だ。

都内にはもっと多くの都バスや市営の路線があるとは承知しているが、高齢化するにつれて未知の場所に出て行く機会も減ったので、なかなか新たな路線を開拓も叶わなくなってしまったのは残念だ。しかし、年間20,000円以上も支払って購入するシルバーパスであるから、今後ともより積極的に利用していかねばなるまいとは考えているのだが。


国語力の低下を嘆く

2016-05-31 07:37:28 | コラム
しつけ(躾)ではなくしおき(仕置き)だろう:

北海道の山中で7歳の男児が親に山中で置き去りにされ行方不明となり、早くも3日目に入ったと報じられている。痛ましくも悲しく残念な事案である。総動員態勢で捜索されているようだから、一刻も早く救出出来れば良いがと遠くから願っている。父親は置き去りを「躾」だと言ったそうだ。

この件の報道で気になっている事がある。それはこの親御さんもそうだったし、マスコミの報道にもおかしな言葉の使い方がある点だ。この種の事案で子供を育てる過程で何らかの誤った行動なり言動なりを正そうとする場合に、その親御さんが過剰であるか、やり過ぎとしか思えない罰を自分の子供に科す事が多いのだ。その際のほとんどの言い訳が「躾」だとなる。これは明らかな言葉の誤用乃至は国語を正しく教えられていない事に起因していると思う。

「躾」乃至は「仕付」は広辞苑には”礼儀作法を身につけさせること。また、身についた礼儀作法“とあり、例文に「ーのきびしい家庭」が出ている。そうであれば、山中に子供を置き去ることは躾ではあるまい。私は幼少の頃に明治38年生まれの母親には屡々きびしい「お仕置き」にあったものあった。広辞苑には「仕置き」は“江戸時代、法にてらして処罰すること”と”みせしめのため、こらしめること”、”おしおき”とある。これと「躾」が明らかに混同されているようだ。

今回のあの親御さんが採った処置は躾でも何でもなく単なる体罰だ。それを「躾」とその人が言ったままを訂正もせずに報じるテレビも新聞も、学校で正常に国語を学んでこなかったことは明らかだ。いや、教えていなかった教師たちも責められて然るべきだ。同時に「自分の子供だから体罰を科しても良い」と思うような未熟な親が増えてことこそ、所管の官庁である文科省は恥じ入るべきだ。何かと言えば男女間の”DV”とやらを採り上げて騒ぐマスコミは親子間の体罰を厳しく批判する報道をして貰いたいもの。

何れにせよ、あの子供さんを早く救出して貰いたいと願うものだ。先ほど、テレ朝で中尾彬がその父親が車の中に座ったままでインタビューに答えている姿勢を彼一流の表現で非難していた。尤もである。その程度の親だからあのような事態を招いたのだ。そうであれば、「親になるための教育」から必要になるのではないか。誠に嘆かわしい事態であり時代だ。