謝罪の文化がない国、アメリカ:
オバマ大統領の広島訪問が表明されて、一部マスコミには大統領が広島で何らかの形で謝罪の意思を表明されるかという議論がありました。私は如何なる事情があってもあり得ないことだと思っているのです。
そこで、あらためて私の実体験に基づいて「謝罪しない文化」に触れてみます。自慢ですが?W社の優れた紙でも我が国の厳しい受け入れ基準と高度な印刷加工技術の前にあっては劣等生で、大小取り混ぜてのクレーム発生は日常茶飯事だった時期がありました。その為だけでもありませんが、専任に近い”technical services manager”が任命され「トラブルシューテイング」の大役を担うことになりました。付き添って歩く私にとって最大の課題は、如何に彼をして「おかしな製品を輸出して済みませんでした」と何はさておいても謝らせるかでした。
彼だけではなく、営業担当マネージャーも副社長の語彙にも”I am sorry for what has happened.”がありませんでした。彼らに「先ず謝ることから入れば、日本のお客様は優しいから水に落ちた犬は撃たないで、そこから解決と補償に向けての話し合いに入って下さる心構えが出来る。故に”I am sorry.”とまで言う必要はないから、先ず”I regret for what has happened.”辺りから入れ。これならば全責任を負うという意思表示ではないのだから、安心して言えるだろう」と諭しました。
だが、当初はこれですら言いませんでした。そこで上記のトラブルシューターには「それではお前が何か適当なことを相手が解りにくい表現で言って、後は丁寧に頭を下げて悪う御座いましたという意思表示だけしてくれ。そこから先は私の通訳の技術で衷心からのお詫びを言うから」というところで妥協させることから始まりました。
そして、こういう話し合いの繰り返しで、何時の間にか「日本ではアメリカの商習慣のように、謝っても全責任を負わされるようなことはないのだ」と解ってくるようになり、通訳の技術を発揮する場がなくなりました。そこには、彼に「兎に角どんなに辛くとも退屈でも、先方様に言いたいだけ言わせてそれをじっと我慢して聞くように努めよ。即ち、論争を挑まず、良き聞き手たれ(Be a good listener!)を教え込みました。
すると、時間の経過とともに「彼は良い奴だ。我々の主張を何時も十分に聞いてくれる。信頼できる外人だ」ということになって初めて信頼関係が確立し、事故が発生すれば「彼を呼んでくれ。彼なら話を聞いて事態を理解するし、良き解決案を出してくれるだろう」という理想的なところまで行きました。即ち、彼は「謝罪の文化」の世界に溶け込んで、何の不安もなく英語では禁句である”I am sorry.”から入っていくようになったのです。
長い話でしたが、”I am sorry.”は「経済的物質的な全損害を負担します。責任は当方にあるので如何なる補償の請求にも応じます」との明確な意思表示ですから、彼らはたとえ全責任が我が方にあると解っている場合でも、「責任を持ちます」という意味になる”I am sorry.”とは言わないものです。しかも、「これを言うことで失うものはない」との思考体系ですから、ごく普通に「我が方には何ら責任はない。御社側の印刷乃至は加工技術に問題があったのではないのか」と切り出すこともあります。そう切り出されて慌てて補償要求が減額されたことすらありました。
故に、何事であっても、彼らが”I (or we)regret ~.”と切り出したら、彼らとしては最高限度の謝罪の意思の表現だと思っても良いでしょう。彼らは、もしも”I am sorry.”を使う場合には”I feel sorry, if we have shipped poor quality to you.”のように「仮定法」を使って責任を回避します。これは仮定の話ですから何も認めてはいないことになり、免責っとなるのでしょう。
我が国のように一度謝れば水に流すような温情はないお国柄ですから、要注意でしょう。だから、オバマ大統領が謝罪する訳はないと思うのですが。アメリカ人の思考体系と文化の中にあっては、大統領がそこまでの準備などはして来る訳がないと考えるのが普通ではありませんか。
オバマ大統領の広島訪問が表明されて、一部マスコミには大統領が広島で何らかの形で謝罪の意思を表明されるかという議論がありました。私は如何なる事情があってもあり得ないことだと思っているのです。
そこで、あらためて私の実体験に基づいて「謝罪しない文化」に触れてみます。自慢ですが?W社の優れた紙でも我が国の厳しい受け入れ基準と高度な印刷加工技術の前にあっては劣等生で、大小取り混ぜてのクレーム発生は日常茶飯事だった時期がありました。その為だけでもありませんが、専任に近い”technical services manager”が任命され「トラブルシューテイング」の大役を担うことになりました。付き添って歩く私にとって最大の課題は、如何に彼をして「おかしな製品を輸出して済みませんでした」と何はさておいても謝らせるかでした。
彼だけではなく、営業担当マネージャーも副社長の語彙にも”I am sorry for what has happened.”がありませんでした。彼らに「先ず謝ることから入れば、日本のお客様は優しいから水に落ちた犬は撃たないで、そこから解決と補償に向けての話し合いに入って下さる心構えが出来る。故に”I am sorry.”とまで言う必要はないから、先ず”I regret for what has happened.”辺りから入れ。これならば全責任を負うという意思表示ではないのだから、安心して言えるだろう」と諭しました。
だが、当初はこれですら言いませんでした。そこで上記のトラブルシューターには「それではお前が何か適当なことを相手が解りにくい表現で言って、後は丁寧に頭を下げて悪う御座いましたという意思表示だけしてくれ。そこから先は私の通訳の技術で衷心からのお詫びを言うから」というところで妥協させることから始まりました。
そして、こういう話し合いの繰り返しで、何時の間にか「日本ではアメリカの商習慣のように、謝っても全責任を負わされるようなことはないのだ」と解ってくるようになり、通訳の技術を発揮する場がなくなりました。そこには、彼に「兎に角どんなに辛くとも退屈でも、先方様に言いたいだけ言わせてそれをじっと我慢して聞くように努めよ。即ち、論争を挑まず、良き聞き手たれ(Be a good listener!)を教え込みました。
すると、時間の経過とともに「彼は良い奴だ。我々の主張を何時も十分に聞いてくれる。信頼できる外人だ」ということになって初めて信頼関係が確立し、事故が発生すれば「彼を呼んでくれ。彼なら話を聞いて事態を理解するし、良き解決案を出してくれるだろう」という理想的なところまで行きました。即ち、彼は「謝罪の文化」の世界に溶け込んで、何の不安もなく英語では禁句である”I am sorry.”から入っていくようになったのです。
長い話でしたが、”I am sorry.”は「経済的物質的な全損害を負担します。責任は当方にあるので如何なる補償の請求にも応じます」との明確な意思表示ですから、彼らはたとえ全責任が我が方にあると解っている場合でも、「責任を持ちます」という意味になる”I am sorry.”とは言わないものです。しかも、「これを言うことで失うものはない」との思考体系ですから、ごく普通に「我が方には何ら責任はない。御社側の印刷乃至は加工技術に問題があったのではないのか」と切り出すこともあります。そう切り出されて慌てて補償要求が減額されたことすらありました。
故に、何事であっても、彼らが”I (or we)regret ~.”と切り出したら、彼らとしては最高限度の謝罪の意思の表現だと思っても良いでしょう。彼らは、もしも”I am sorry.”を使う場合には”I feel sorry, if we have shipped poor quality to you.”のように「仮定法」を使って責任を回避します。これは仮定の話ですから何も認めてはいないことになり、免責っとなるのでしょう。
我が国のように一度謝れば水に流すような温情はないお国柄ですから、要注意でしょう。だから、オバマ大統領が謝罪する訳はないと思うのですが。アメリカ人の思考体系と文化の中にあっては、大統領がそこまでの準備などはして来る訳がないと考えるのが普通ではありませんか。