新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

2月28日 その2 一寸恐ろしい話

2018-02-28 15:19:10 | コラム
もしかすると明日は我が身かも:

昨27日の10時半頃外出しようとしてエレベータホールに行くと、3基のうち1基が上の階に泊まったまま全く動かなかった。故障でもしたかと思って動いている箱で下に降りると「緊急の用事で停止中」と掲示され、外には救急車と消防車が数台駐まっていた。何事かとは思ったが野次馬根性も出さずにそのままやり過ごした。

そこで、今朝になって受付の女性に尋ねてみると、それは16階に住んでおられる高齢の女性の方が室内で骨折され身動きが出来なくなられたのだったと教えられた。その女性は実態は不明だが固定電話には手が届いて何故か遠隔地に住む娘さんに連絡し、そこから119番され先ず救急隊が駆けつけたものの、動けない為に玄関が開けられず、消防車が出動したが結果がは同じで、16階には届くはしご車も緊急では手配できず、警察まで出動して玄関のドアを強制的に開けて1時間半後に救出したのそうだ。

その話を聞いて恐ろしいと思ったことは、我が家でも既に私が3度も心筋梗塞を発症して救急車のお世話になっていたが、その3回ともに家内の目の前での発症だったので救急車を依頼できたが、もしも一人でいた場合には電話まで辿り着けたかどうかも疑問だし、携帯電話だって四六時中携帯している訳でもない。しかも、当アパートは実に防音が良く出来ているので、叫んでも誰も聞いていてくれないかも知れないのだ。

また、高齢者に良くあることで室内でも転倒して骨折すれば、今回の例のように電話も出来ず、救急車が到着しても玄関のドアが開けられないことだって大いにあり得ると思った次第。良く考えなくとも解る恐ろしい事態は私たちのような80歳超の後期高齢者夫妻には待ち受けているのかも知れないと、今更ながら思い知らされたのだった。とは言ってみたものの、どういう対策を立てて置けば良いのかを、これから考えようかという状態なのだ。

そう言えば、今朝ほど何処かのテレビ局で「高齢者が厚さが1 cmの絨毯につまずいて転倒したという話を流していた。実際に経験したことはないが、起こり得ることだと思って聞いていた。これもあれも一寸恐ろしい話かも知れないと思わずにはいられなかった。何しろ、最早手すりを頼りにして階段を上り下りしている状態なのだから。


我が国の英語教育の在り方に疑問が

2018-02-28 08:17:28 | コラム
羽生結弦君の英語のスピーチを聞いて我が国の英語教育に思いを致した:

27日には英雄・羽生君はそれこそ分刻みの予定で方々を回って優勝と帰国の報告をしていた。大変だなと感じた。オリンピックを連覇して肩の荷を下ろせただろうし、脚の負傷の治療もしたいだろう彼をあれほど引き回すのが適切なのかどうか、些か疑問に感じていた。本論から離れるが、メダルとやらを獲ってきた選手の挨拶の司会をした松岡修造はしつこいし出しゃばりすぎでうるさいので、私には好ましくない。

その羽生君の挨拶回りだが、丁度外出から帰った時に外人記者クラブでの会見が始まったところだった。カナダを練習の拠点としているだけに、彼はクラブが用意した通訳を差し置いて自分で英語で話し出していた。それはそうあるべきで結構なことだと思う。言いたいことを表せるだけの語彙があったようで、何とか会見は軌道に乗っていった。

そこで思い出したことは、これまでに何度か問題だと思う点を指摘して採り上げて率直に批判してきた、テニスの錦織圭君の一聴流暢な英語だった。彼と羽生君とは英語の能力の必要性は大きく異なるとは思うが、子供の頃に米国に渡りその道では有名な学校で実地訓練されただろう錦織君の方が発音が綺麗だし、声が良いことと言うか英語の発声が理に叶っているのは確かだ。

ここで私があらためて採り上げたい問題点は「何故我が国の学校教育で育った人たちは、あれほど試験・試験で文法を教え込まれ、単語を数多く覚えさせられ、読解力が付いているにも拘わらず、こと会話というか英語で自らが思うことを語る場合になると、文法という規則を遵守することを忘れてしまうのか」という点である。誤解なきよう申し上げておくが、ここで羽生君の英語をどうのこうと言いたいのではない。我が国の英語教育に対する疑問の提示である。

更に、私はこれまでに繰り返して「英語を話す時には文法を間違えることは、英語圏の国ではそれ即ち無教養であると見做されるので要注意である」と指摘してきた。これは実際に日本とアメリカの仕事上の重要なな交渉や折衝の場を数多く経験したし、彼らと行動を共にされて所謂日常会話をされていた同胞の英語を聞いてきたから敢えて言っているのだ。

私が思うには、こういう状態になってしまう理由に「これから言うべきことを先ず日本語で思い浮かべてから英作文に取りかかる。それを順番に声に出していくこと」があり、その際に「ここで使うべき動詞は三人称単数の現在であるから“s”を付けねばなるまいと気に掛ける」とか「この名詞は単複同形だったかどうかを注意すべきだ」とか「ここは間接話法であるから時制の一致を厳守せねば」とか「この動詞の目的語を採るか採らないか」等々に気を取られて混乱し、文法的な過ちを犯しているのだろうかと考えている

私はこういう間違いをする原因の一つには「文法という規則を規則として覚えているだけで、どうやってそれを呼び出したら良いかに迷っていること」にあると思う。文法は確かに規則だが、それを間違いなく言えるようにする為には「繰り返しての音読と暗記」が必要で、そうすることで三人称単数・現在だからどうのという原理原則ではなく、主語が”he“で現在だったならば何も考えずに次に来る動詞が“goes”というような形で口から自然に出てくるようになってくるのだ。

そんな簡単なことで済むのかという疑問は多くの方から提示された。疑問をお持ちの方は試されないようだから結果が出ないのも当然だ。また、そんな勉強の仕方試験で良い点が取れるのかという声もある。かく申す私は中学から大学卒業までの間で、英語の試験で90点を切ったのが2度しかなかった。そのうちの一回は大学在学中にアルバイトが過ぎて試験範囲を誤解して臨んだ試験で散々だった記憶がある。

ここまで来ると学校教育中の試験での好成績やTOEICやTOEFLや英検等の試験の為に勉強するか、私ような一種のカケのような勉強法で実際の役にも立つような勉強法を採るかの分かれ道にさしかかっているのかも知れない。同時に言えることは、オリンピックが来るから「語学」が出来ていなければならないなどという強迫観念に苛まれないことだ。貴方が街中で外国人に出会って、英語で話をする機会など滅多に訪れるものではないのだ。

私は以前こう言って同意して下さった方がおられて有り難かった。それは自慢話と誤解されそうなことだが「アメリカの会社を引退して20有余年。その間に有り余る英語力を抱えて国際都市(なのだろう?)東京に住んでいながら、外国人に道を尋ねられたことは3度しかなかった。私は余程英語が解らない顔付きをしているようだ」だった。まして、見ず知らずの外国人と世間話をする機会などが、簡単に発生することなどないと思う。

そんな事態に備えて英語の勉強などする余力があれば、他に未だすることがあるのではないのかな。それでも、文科省は小学校3年から英語を教える期でいるのか。外国人が道が解らなくて小学生に尋ねるのかな、小学生に通訳でもさせる気なのかな。