年俸制って事か?:
目下野党連合が躍起になって安倍総理以下を「隠蔽」だの何のと言って例によって例の如くに攻め立てているようだが、彼らの揚げ足取りに集約したような質問攻勢にはウンザリさせられる。尤も、今回は総理と厚生労働省側にも不手際があったようだが。実は、浅学非才の当方は「裁量労働制」とは何のことか解らずにボンヤリと聞いていた。
そこで先ず閃いたことがあった。それは、1980年代だったかに某大印刷会社で「フレックスタイム」の採用が検討されていて「コアタイム」だの何のと難しい言葉が飛び交っていた。こういう言わば「受注産業」的な業界では当然のように残業も多くなるし、営業の担当者などは遅くまで得意先に張り付いていなければ仕事にならないという大変さがあった。
だが、直ぐにどうやら今回問題になっている裁量労働制はそれとは異なる制度を指して言っているようで、中途半端な急拵えの知識では「年俸制」の導入を言っているのかと思った。だが、どうもアメリカの会社における「サラリー制」(労働組合員の時給制と対極にある)の社員の勤務態勢とも異なるようだった。
以前にも少し論じたが、私は日本の会社にも17年半も在籍していたので、日本とアメリカの会社の違いを論じることが何とか出来るのだが、どうしても理解できないことに「長時間の残業をせざる得ない事態」が発生し、その長時間の残業を悪の権化の如くに言われていることだった。単刀直入に後難を恐れて言うが「アメリカの会社よりも大人数で、アメリカの会社よりも少額の売上高の仕事を消化していて、何故それほど残業をせねばならない事態が発生するのか」と訝っていた。
アメリカのサラリー制の社員は全て会社側に属し、本社機構や工場の事務方にいる連中は全て年俸制であり、残業代など発生する訳がないのだ。本社機構にいる者などは「職務内容記述書」(Job description)にある項目を全てこなし切る前提で雇われているのだから、その為には朝何時に出勤して夜は何時に帰ろうと全てその者の判断と言うか裁量なのである。即ち、間に合いそうになければ朝は6時に出勤し、夜は9時まで残っていようと、その者の勝手なのである。
同時に、その年度の開始前に事業本部長なり誰なりの責任ある者と話し合って仕事の内容と年俸を決めてあるのだから、出退勤の時刻などは全て各人の裁量である。こう言うと如何にも簡単なことのように聞こえるかも知れないが、アメリカの会社では全て個人の主体性を重んじているから、部下などはつけて貰っていないのが普通で、頼りになるのはそのマネージャーよりも年俸が低い秘書さんだけである。
そこで、秘書さんには I’m paid for that. と I am not paid for that. とう決め台詞があって、自分に課せられた仕事だけしていれば良いのであり、もしもマネージャーが休暇のような時でも、その仕事の代役をする必要などないのだ。要するに「各人に与えられた仕事を何日でも何時間でもかけて消化するという前提で雇われているのだから、裁量も何もない」のだ。出来なければ、何処かの偉い方が言われた You are fired. が待っているだけの世界だ。
私は日本とアメリカの何れの制度が優れているとか、如何なる点に問題があるなどと言うつもりはない。これまでの「皆で朝一斉に9時までに出勤して皆で仕事を始めて一斉に帰宅し、同じ課や部に所属するのだからお互いに助け合って、同僚が苦しい時には手を貸して」という美しい文化があるところに、短兵急に恰も異文化の如き制度を導入することが改革になるのかなと、気になってしまった。私には制度そのものを変えたいのか、残業が悪であると見做しているのかが解らない。
私は何か誤解をしているか、誤認識があるのだろうか。
目下野党連合が躍起になって安倍総理以下を「隠蔽」だの何のと言って例によって例の如くに攻め立てているようだが、彼らの揚げ足取りに集約したような質問攻勢にはウンザリさせられる。尤も、今回は総理と厚生労働省側にも不手際があったようだが。実は、浅学非才の当方は「裁量労働制」とは何のことか解らずにボンヤリと聞いていた。
そこで先ず閃いたことがあった。それは、1980年代だったかに某大印刷会社で「フレックスタイム」の採用が検討されていて「コアタイム」だの何のと難しい言葉が飛び交っていた。こういう言わば「受注産業」的な業界では当然のように残業も多くなるし、営業の担当者などは遅くまで得意先に張り付いていなければ仕事にならないという大変さがあった。
だが、直ぐにどうやら今回問題になっている裁量労働制はそれとは異なる制度を指して言っているようで、中途半端な急拵えの知識では「年俸制」の導入を言っているのかと思った。だが、どうもアメリカの会社における「サラリー制」(労働組合員の時給制と対極にある)の社員の勤務態勢とも異なるようだった。
以前にも少し論じたが、私は日本の会社にも17年半も在籍していたので、日本とアメリカの会社の違いを論じることが何とか出来るのだが、どうしても理解できないことに「長時間の残業をせざる得ない事態」が発生し、その長時間の残業を悪の権化の如くに言われていることだった。単刀直入に後難を恐れて言うが「アメリカの会社よりも大人数で、アメリカの会社よりも少額の売上高の仕事を消化していて、何故それほど残業をせねばならない事態が発生するのか」と訝っていた。
アメリカのサラリー制の社員は全て会社側に属し、本社機構や工場の事務方にいる連中は全て年俸制であり、残業代など発生する訳がないのだ。本社機構にいる者などは「職務内容記述書」(Job description)にある項目を全てこなし切る前提で雇われているのだから、その為には朝何時に出勤して夜は何時に帰ろうと全てその者の判断と言うか裁量なのである。即ち、間に合いそうになければ朝は6時に出勤し、夜は9時まで残っていようと、その者の勝手なのである。
同時に、その年度の開始前に事業本部長なり誰なりの責任ある者と話し合って仕事の内容と年俸を決めてあるのだから、出退勤の時刻などは全て各人の裁量である。こう言うと如何にも簡単なことのように聞こえるかも知れないが、アメリカの会社では全て個人の主体性を重んじているから、部下などはつけて貰っていないのが普通で、頼りになるのはそのマネージャーよりも年俸が低い秘書さんだけである。
そこで、秘書さんには I’m paid for that. と I am not paid for that. とう決め台詞があって、自分に課せられた仕事だけしていれば良いのであり、もしもマネージャーが休暇のような時でも、その仕事の代役をする必要などないのだ。要するに「各人に与えられた仕事を何日でも何時間でもかけて消化するという前提で雇われているのだから、裁量も何もない」のだ。出来なければ、何処かの偉い方が言われた You are fired. が待っているだけの世界だ。
私は日本とアメリカの何れの制度が優れているとか、如何なる点に問題があるなどと言うつもりはない。これまでの「皆で朝一斉に9時までに出勤して皆で仕事を始めて一斉に帰宅し、同じ課や部に所属するのだからお互いに助け合って、同僚が苦しい時には手を貸して」という美しい文化があるところに、短兵急に恰も異文化の如き制度を導入することが改革になるのかなと、気になってしまった。私には制度そのものを変えたいのか、残業が悪であると見做しているのかが解らない。
私は何か誤解をしているか、誤認識があるのだろうか。