羽生結弦の溢れんばかりの気迫に圧された:
私は決して羽生君を評価していない訳ではないが、今回の彼を選んだ協会だか連盟のやり方は褒められたものではないと既に批判してあった。そして、羽生君が非常に重大と言うべきか過剰とも言えるような責任を負わされて、どれほど大きな重圧の下にあるかも察しが付いていた。
そこで、本17日は見ないと言っていたこの文在寅の邪(ヨコシマ)とでも形容したい意図でかき乱されたオリンピックの中継を見る時間があった。それは丁度外出から戻った時刻に羽生の組に順番になっていて、家内が見守っていたからである。
私は以前に指摘したと思うが、羽生君は技術力は既に世界の一流を超えた段階にある上に、ある時から非常に精神面を重要視するようになっただけに止まらない傾向が見えてきた。そして、野村萬斎に指導を受けるなどスポーツの領域を超えたところでの精進を開始したのは、私には結構なことであるかないかの判断が付かない競技者になっていた。
私の持論では「スポーツの世界でも精神面の強化を重視するのは良いことではあるが、それは競技者としての技術と所謂スキルが一定以上の段階に達した領域に入ってからならば相乗効果が上がるが、単なる精神論は無意味である」というところにあった。更に、私は精神面の強化を唱えるのは我が国の特徴で、欧米の諸国ではそれほどの流れにはなっていないと思っていた。
そこで、本日の勝負だが、3位に入ったスペインのハビエル・エルナンデスは「兎に角失敗はすまい。綺麗に纏めよう」という気持ちが前面に表れた見栄えがする形の良い演技だった。だが、羽生に勝ってやろうとか、メダル獲るぞというような意気込みは私の目にはサッパリ見えなかった。ではあっても300点超えの得点には到達した。
その後に出た羽生君はジャンプの後の着氷にはやや危ない箇所が2度ほどあったのは確かだった。だが、あの滑りからは「何としても勝ってやろう。連覇してやろう。第1位になって金メダルを獲るぞ」という気迫が目に見えるような迫力があった。私はあれほどの迫力が採点の基準になるか否かは知らないが、あの凄まじいばかりの精神力は審査員を突き動かすに十分かとすら考えていた。
果たせるかな、宇野昌磨を残してエルナンデスを超える彼の自己最高得点(馬鹿な仮名交じり語では「自己ベスト」)には達しなかった300点台の得点で、私には連覇は動かないものと見えた。その後の宇野も良くやったが、もしかして冒頭の転倒がなければ羽生を超える点が出たかも知れないと思ったら、それはとんだ誤認識である。あそこで転倒するのが現時点での宇野の実力なのである。でも、その後を立て直して2位に入ったのは立派な精神力であり、残すは技術面での更なる努力であろう。
最後に悪いことを言いたい。それは羽生・宇野の両君が2名の中国系の者をメダル圏内から押し出してくれたことだ。あんな連中に負けるなどという事態は個人感情としては受け入れられないと思っていた。彼ら2人に感謝である。余談だが、面白い現象だと思ったことはネイサン・チェンなる中国系アメリカ人の名字は「陳」という字だった。
そこで、なおWikipediaで追及してみると、パトリック・チャンという中国系カナダ人も「陳」なのである。このチャンは香港から移住したというから広東語読みで、チェンは北京語かと思った。なお、1950年代に「ダウン・ブロー」で一世を風靡した台湾人(後に日本に帰化)のプロゴルファー、陳清波は記憶に誤りがなければ「タンさん」だったはずだ。同じ中国語圏にあっても「陳」という字の読みがこれほどバラつくのだから中国語は厄介だと思う。
話が羽生君を褒めることから脱線したが、オリンピック2連覇とは実に立派なことだったと、あらためて脱帽である。本当に良かった。後は小平奈緒が500 mで優勝してメダルとやらを10個にして予想を覆してくれるのを待つだけか。
参考資料: Wikipedia
私は決して羽生君を評価していない訳ではないが、今回の彼を選んだ協会だか連盟のやり方は褒められたものではないと既に批判してあった。そして、羽生君が非常に重大と言うべきか過剰とも言えるような責任を負わされて、どれほど大きな重圧の下にあるかも察しが付いていた。
そこで、本17日は見ないと言っていたこの文在寅の邪(ヨコシマ)とでも形容したい意図でかき乱されたオリンピックの中継を見る時間があった。それは丁度外出から戻った時刻に羽生の組に順番になっていて、家内が見守っていたからである。
私は以前に指摘したと思うが、羽生君は技術力は既に世界の一流を超えた段階にある上に、ある時から非常に精神面を重要視するようになっただけに止まらない傾向が見えてきた。そして、野村萬斎に指導を受けるなどスポーツの領域を超えたところでの精進を開始したのは、私には結構なことであるかないかの判断が付かない競技者になっていた。
私の持論では「スポーツの世界でも精神面の強化を重視するのは良いことではあるが、それは競技者としての技術と所謂スキルが一定以上の段階に達した領域に入ってからならば相乗効果が上がるが、単なる精神論は無意味である」というところにあった。更に、私は精神面の強化を唱えるのは我が国の特徴で、欧米の諸国ではそれほどの流れにはなっていないと思っていた。
そこで、本日の勝負だが、3位に入ったスペインのハビエル・エルナンデスは「兎に角失敗はすまい。綺麗に纏めよう」という気持ちが前面に表れた見栄えがする形の良い演技だった。だが、羽生に勝ってやろうとか、メダル獲るぞというような意気込みは私の目にはサッパリ見えなかった。ではあっても300点超えの得点には到達した。
その後に出た羽生君はジャンプの後の着氷にはやや危ない箇所が2度ほどあったのは確かだった。だが、あの滑りからは「何としても勝ってやろう。連覇してやろう。第1位になって金メダルを獲るぞ」という気迫が目に見えるような迫力があった。私はあれほどの迫力が採点の基準になるか否かは知らないが、あの凄まじいばかりの精神力は審査員を突き動かすに十分かとすら考えていた。
果たせるかな、宇野昌磨を残してエルナンデスを超える彼の自己最高得点(馬鹿な仮名交じり語では「自己ベスト」)には達しなかった300点台の得点で、私には連覇は動かないものと見えた。その後の宇野も良くやったが、もしかして冒頭の転倒がなければ羽生を超える点が出たかも知れないと思ったら、それはとんだ誤認識である。あそこで転倒するのが現時点での宇野の実力なのである。でも、その後を立て直して2位に入ったのは立派な精神力であり、残すは技術面での更なる努力であろう。
最後に悪いことを言いたい。それは羽生・宇野の両君が2名の中国系の者をメダル圏内から押し出してくれたことだ。あんな連中に負けるなどという事態は個人感情としては受け入れられないと思っていた。彼ら2人に感謝である。余談だが、面白い現象だと思ったことはネイサン・チェンなる中国系アメリカ人の名字は「陳」という字だった。
そこで、なおWikipediaで追及してみると、パトリック・チャンという中国系カナダ人も「陳」なのである。このチャンは香港から移住したというから広東語読みで、チェンは北京語かと思った。なお、1950年代に「ダウン・ブロー」で一世を風靡した台湾人(後に日本に帰化)のプロゴルファー、陳清波は記憶に誤りがなければ「タンさん」だったはずだ。同じ中国語圏にあっても「陳」という字の読みがこれほどバラつくのだから中国語は厄介だと思う。
話が羽生君を褒めることから脱線したが、オリンピック2連覇とは実に立派なことだったと、あらためて脱帽である。本当に良かった。後は小平奈緒が500 mで優勝してメダルとやらを10個にして予想を覆してくれるのを待つだけか。
参考資料: Wikipedia