新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

2月17日 その2 メダルが2個増えたではないか

2018-02-17 17:36:16 | コラム
羽生結弦の溢れんばかりの気迫に圧された:

私は決して羽生君を評価していない訳ではないが、今回の彼を選んだ協会だか連盟のやり方は褒められたものではないと既に批判してあった。そして、羽生君が非常に重大と言うべきか過剰とも言えるような責任を負わされて、どれほど大きな重圧の下にあるかも察しが付いていた。

そこで、本17日は見ないと言っていたこの文在寅の邪(ヨコシマ)とでも形容したい意図でかき乱されたオリンピックの中継を見る時間があった。それは丁度外出から戻った時刻に羽生の組に順番になっていて、家内が見守っていたからである。

私は以前に指摘したと思うが、羽生君は技術力は既に世界の一流を超えた段階にある上に、ある時から非常に精神面を重要視するようになっただけに止まらない傾向が見えてきた。そして、野村萬斎に指導を受けるなどスポーツの領域を超えたところでの精進を開始したのは、私には結構なことであるかないかの判断が付かない競技者になっていた。

私の持論では「スポーツの世界でも精神面の強化を重視するのは良いことではあるが、それは競技者としての技術と所謂スキルが一定以上の段階に達した領域に入ってからならば相乗効果が上がるが、単なる精神論は無意味である」というところにあった。更に、私は精神面の強化を唱えるのは我が国の特徴で、欧米の諸国ではそれほどの流れにはなっていないと思っていた。

そこで、本日の勝負だが、3位に入ったスペインのハビエル・エルナンデスは「兎に角失敗はすまい。綺麗に纏めよう」という気持ちが前面に表れた見栄えがする形の良い演技だった。だが、羽生に勝ってやろうとか、メダル獲るぞというような意気込みは私の目にはサッパリ見えなかった。ではあっても300点超えの得点には到達した。

その後に出た羽生君はジャンプの後の着氷にはやや危ない箇所が2度ほどあったのは確かだった。だが、あの滑りからは「何としても勝ってやろう。連覇してやろう。第1位になって金メダルを獲るぞ」という気迫が目に見えるような迫力があった。私はあれほどの迫力が採点の基準になるか否かは知らないが、あの凄まじいばかりの精神力は審査員を突き動かすに十分かとすら考えていた。

果たせるかな、宇野昌磨を残してエルナンデスを超える彼の自己最高得点(馬鹿な仮名交じり語では「自己ベスト」)には達しなかった300点台の得点で、私には連覇は動かないものと見えた。その後の宇野も良くやったが、もしかして冒頭の転倒がなければ羽生を超える点が出たかも知れないと思ったら、それはとんだ誤認識である。あそこで転倒するのが現時点での宇野の実力なのである。でも、その後を立て直して2位に入ったのは立派な精神力であり、残すは技術面での更なる努力であろう。

最後に悪いことを言いたい。それは羽生・宇野の両君が2名の中国系の者をメダル圏内から押し出してくれたことだ。あんな連中に負けるなどという事態は個人感情としては受け入れられないと思っていた。彼ら2人に感謝である。余談だが、面白い現象だと思ったことはネイサン・チェンなる中国系アメリカ人の名字は「陳」という字だった。

そこで、なおWikipediaで追及してみると、パトリック・チャンという中国系カナダ人も「陳」なのである。このチャンは香港から移住したというから広東語読みで、チェンは北京語かと思った。なお、1950年代に「ダウン・ブロー」で一世を風靡した台湾人(後に日本に帰化)のプロゴルファー、陳清波は記憶に誤りがなければ「タンさん」だったはずだ。同じ中国語圏にあっても「陳」という字の読みがこれほどバラつくのだから中国語は厄介だと思う。

話が羽生君を褒めることから脱線したが、オリンピック2連覇とは実に立派なことだったと、あらためて脱帽である。本当に良かった。後は小平奈緒が500 mで優勝してメダルとやらを10個にして予想を覆してくれるのを待つだけか。

参考資料: Wikipedia


英語の表現に思う

2018-02-17 08:23:10 | コラム
They have gotten away with murder.

これは最近にトランプ大統領が中国、我が国、韓国がアメリカとの貿易で巨額な赤字を生み出させていると非難した台詞の中で使われた表現である。例によって英語の知識が不十分なマスコミが誤訳し、読売新聞もそのうちだったそうだ。正直なところ、私はこの発言を聞いていなかったので、渡部亮次郎氏の「頂門の一針」への松村隆彦氏の投稿で、私宛の質問になっていたので知り得た次第だ。

これは”殺人をして逃げ回っている“という意味ではない。私も良く利用させて頂いているネット上のWeblioによれば「好き勝手をしながら罪を免れる」となっているし、松村氏の投稿にも「この日本語訳について経済アナリストの青木文鷹氏は、「『get away with murder=好き勝手にする』って慣用表現で“殺人”は全く関係ない」と指摘。「殺人」と直訳するのは誤訳で、今回の発言は「好き放題している」と訳すのが正しいと説明している。“と述べられている。

私はこの to get way with murder を慣用句か口語的表現の何れに分類すべきか確かではないが、日常的にアメリカ人の間で使われる表現には「元の単語の意味とはかけ離れた意味になる熟語が非常に多い」と知るべきだ。かかる表現を英和辞書で引いても中々出てこないと思う。そういうことを調べたければ、上記のWeblioか「英辞郎」等が頼りになると思う。言いたいことは「単語」か「単語帳」に依存した知識での対応が無理があるという学校教育の英語への批判である。

英語の厄介な点はこれら以外に屡々「汚い言葉(=swearword)」と混同されている「俗語(=slang)」があることだ。これは決して汚い言葉ではなく、支配階層の人たちでも使う「(ある特定業界の)隠語」や「符牒」のことである。少しだけ思いついた例を挙げておくと buck=ドル、booze=酒、cabby, cabbie=タクシーの運転手、cop=警官、It’s a head quarter’s baby.=「それ本社の仕事だ」に使われている babyという辺りである。因みに、babyはある翻訳本にあった誤訳である。

用句=idiomatic expressions という熟語の厄介なところは「この表現の中では元の単語の意味とは全く異なったことを表すようになっていること」であり、そういう意味では to get away with murder は慣用句だと言っても良いかと思う。他の例を試しに挙げてみれば、to burn one’s bridge=「退路を断つ」、Let’s get the show on the road.=「さー、出掛けようぜ」、It’s a piece of cake.=「朝飯前」か「そんなことは簡単だ」等辺りだが、未だ未だ思い浮かばない例が沢山ある。

この点では、博学多識の国文学者のKS氏が<しかし、英語を勉強していてつくづく感じるのは、単語より熟語がむずかしい、ということです。このあいだも、Just my humble opinion という表現に遭遇。調べてみたところ、「私見にすぎませんが」という意味だとわかりました。>と回顧しておられたが、KS氏が言わんとされている点は聞き慣れない「慣用句」の難しさであると思う。

私はこう言うことをチャンと教えていない学校教育の英語にも問題があると思うが、それよりも要なことは「アメリカの支配階層の間で日常的に使われている英語にまともに触れる機会がない事には、どれが格調高く品位がある英語で、どれが真似てはならないトランプ大統領の支持層以下で使われている格調低き模範にならない英語かを知り得ない」とぃう辺りにあると思う。ある一定以下の階層に行けば禁忌の「汚い言葉」の連発になってしまうとしるべきなのだ。

だから、私は学校教育の英語の改革も必要だろうが、何処の国から来たのか、何処の馬の骨かも知り得ないような native speakerから英語を教えられるべきではないと主張するのだ。外国人には「我々が何が解り難くで苦しんでいるか」は解るわ訳がないと思う方が無難だ。だから、トランプ大統領は我が国に向けて They’ve gotten with murder.などと言われたのではないのか。