新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

ビジネスマンの服装学

2018-02-09 08:46:42 | コラム
何が基本にあるのか:

実は、酒井富雄さんからのコインチェックの役員たちの服装についてお問い合わせがあったのに触発されて、往年は得意としていたこの話題を何年振りかで採り上げてみたいと思うに至った。この分野ではアメリカのジョン・モロイ(John Molloy)の A New Dress for Success(邦題「出世する服装」)が有名で、ビジネスマンの服装に関してはアメリカの方がUKよりも遙かに厳格であることが明らかなのだ。

それ以外の動機には例の小室圭さんが朝の出勤時に「黒のコートを着用」との報道があったので「あーあ」と思わせられた。と言うのは、小室さんには関係ないと思うが、アメリカのビジネスマンの服装学では「自ら下層に属する」と名乗っているようなものとして排除されているのが「黒いオーバーコート」なのだからだ。こういうことも解説してみたくなった次第だ。

私の服装学の基本は新卒で採用された旧国策パルプ工業(現日本製紙)の販売部門の子会社の代表取締役だった故西村謙三氏(三高→東大→横浜正金銀行→東京銀行→三菱東京UFJ銀行)に厳しく教え込まれたのだった。西村氏はパリ支店長代理だったかで終戦となって引き上げてこられたフランス仕込みの紳士で、実に垢抜けた服装をしておられた。

その教えは「君たち新入社員は給料も安いのだが、無理をして高い服を注文しろ。(昭和30年頃は洋服は誂えが主体で、既製服は「吊し」だの「出来合」と言って蔑まれていた)そうすれば長持ちさせる為に丁寧に着るようになるし、時が経つほどに高級品の着こなし方が身に付いてくるものだ」というものだった。私などは初任給の3倍にもなる当時の最高の生地「みゆきテックス」を誂えて着込んでいたが、何と10年近くまで、体型が変わるまで保たせていた。

ここで、一寸英語の講釈をすれば、誂えは custom madeか tailor madeであって、「オーダーメイド」は純粋の日本語であるカタカナ語なのである。英語には made to orderという言い方もあるようだ。

余談だが、西村謙三氏は東大時代にラグビーの選手で、その仲間に後の国策パルプ社長の加藤英夫氏(安田銀行出身で後の富士銀行→第一勧業銀行)、山陽パルプ社長の難波経一氏(通産省)がおられた。その国策と山陽が後に山陽国策パルプとなってしまうのもこういう縁があったからかも知れない。また、西村氏の長男・正雄君は興銀最後の頭取で、あの三行合併を成し遂げたのだったが、何と私の中学・高校の同期生だった。西村正雄君は2006年1月に73歳で他界していた。

さて、アメリカにおけるビジネスマンの服装学だが、私が1972年に先ずMeadに転進してから言わば現場で習い覚えていった事柄が、後に読む機会があったジョン・モロイの本の内容とほとんど合致していたのには驚くと同時に誇らしくも感じていた。その規格は非常に厳格なもので、発祥はアメリカの金融・証券業界にあったようである。

大原則として厳しく言うのが「同系統は1色と数えてもスーツから靴までで色は3色以内に抑えること」、「スーツの色は濃紺(navy)か濃灰色(charcoal gray)にほぼ限定されている」、「縞柄(ストライプ)はスーツ、シャツ、ネクタイのどれか一つだけにすること」の3点である。特にスーツでは「茶色などはオフィスに着用して出てくるのなどは以ての外で、茶は遊びの色で20着もスーツを持って初めて試みよ」などと言われる。

我が生涯の最高の上司と常に言ってきた副社長兼事業本部長などは特に厳しく「ジャケット・アンド・タイ」と言われているブレザーに替わりズボン、それにネクタイなどという姿は許さなかった。そこで、私は飛行機での長距離の移動日などには、そういう寛いだ服装をすると事前に申告して許可を貰って出勤したものだった。

この他にも未だ未だ細かい点で色々な取り決めとでも言う事柄があるのだが、長くなるので次回に譲ることにする。どのくらい長くなるかと言えば、一度ラジオの35分番組で採り上げたことがあったが、終了後にプロデユ―サーが「番組のホストの語りの部分が入ったので、時間が足らなかったようで」と嘆いたほどのものなのだ。


kazk様

2018-02-09 07:40:33 | コラム
>Kazk様

久しぶりです。3連覇の頃のフェニックスは今となっては思い出話の部類ですが、忘れがたいものがあります。幸いにも、当時のフェニックスのガイドブックが未だ保存してありました。

3連覇を達成した頃の日大フェニックスのオフェンスのプレーは矢張りショットガンフォーメーションであった以上、パスプレーが中心であったことは間違いないと思います。そのレシーバー陣の中心にいたのが名手梶山龍成(追手門学院出身)、次いで小林一(日大桜ヶ丘出身)、ランニングバックではあってもレシーバーとして活躍していたのが、小林孝至(佼成学院出身で現佼成学院監督)、山口敏彦(大阪産業大学付属高出身)で固めていました。

なお、レシーバーではありませんが、TEには米倉健博(日大桜ヶ丘出身)や渡辺哲弥(江戸川学園取手出身)がいて、も短いパスを捕っていたことも無視できません。

QBの須永恭通(日大桜ヶ丘出身)が身長もあって強肩だったし、山口以外とは二軍の頃から4年間プレーしてきていましたので、息は絶妙に合っていました。山口は彼らよりも1期下でしたが、上級生に見劣りしない立派なRBでした。春に散々ランプレーを見せてあったので、対戦相手はどうしてもランを警戒せずにはいられなかったのでしょう。

当時は故篠竹監督が春の前哨戦シーズンにはラインメンの押す力の養成の為にショットガンフォーメーションを採用せずに、所謂「ノーマル」即ち、Iフォーメーション」等のみでプレーしたので、フェニックスは「ランプレー」で来るのかと思わせていました。観戦している方としては「このテイ―ムは勝つのが当たり前」と思っていましたので、3連覇目の懐かしき国立競技場で行われた対松下電工インパルス戦などは当然勝つものと思っていました。今は昔の物語です。